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イスラム世界はなぜ没落したか? その四

2015-10-09 21:10:07 | 読書/中東史

その一その二その三の続き
 対照的にムスリムの経験と歴史は、キリスト教徒とのそれとはまるで異なっていた。スンナ派シーア派が典型で、ムスリムの間にも宗教的不一致があり、宗派対立や抑圧に繋がることはあった。しかし、ムスリムは欧州キリスト教徒のように宗教改革、異端審問所、16~17世紀における激しい宗教戦争、魔女狩りなどを体験しておらず、時代に区切りになるような事件は全く起きていない。バーナード・ルイスはイスラムとキリスト教を比較し、こう結論付けている。
 キリスト教徒は迫害や争いの悪循環から抜け出るために、国家と社会の殆どを世俗化せざるを得なかった。一方、ムスリムはこのような問題には直面しなかったため、それへの回答も必要がなかった、と。

 ムスリムと世俗主義の出会いは、フランス革命においてだったという。ムスリムはこの革命を世俗的というよりも、非キリスト教化と捉えたそうだ。当時のムスリムにとって、“世俗的”とは意味のない単語に過ぎず概念だったらしい。革命以前の欧州の思想活動は全て、少なくともその表現においてキリスト教的と見なされていた。
 フランス革命とはムスリムにとって、非キリスト教或いは反キリスト教とさえ見なすことのできる最初の思想運動だった。そのためムスリムの中には、西洋の科学や進歩の原動力をキリスト教の重荷から解放されたことに求める者もいた。キリスト教の重荷から解放された後にイスラムを受け入れる…というムスリムの見方は、現代においても珍しくない。

 フランス革命思想はキリスト教のみならず、イスラムにも脅威になると見ていた人が始めから少数ながらおり、警告していた。だが長い間、そのような考え方は殆ど影響力を持たず、欧州思想に本当に目覚めた人々はその思想に影響されたが、ごく少数だった。圧倒的多数のムスリムは、西洋の世俗主義的思想の挑戦如きなど反対するほどのものではなく、無視すれば十分だと考えていたのだ。高徳なムスリム宗教思想家が世俗主義を宗教の最高価値とされるものへの脅威になると認識し、断固とした拒絶で応えるようになったのは、比較的近年になってらしい。
 現代のイスラム原理主義者の主要な敵は、ユダヤ人や欧米人キリスト教徒よりも現地の世俗主義者なのだ。ムスリムであっても世俗主義者は攻撃対象であり、殆どの原理主義者に最大の敵とされているのがイスラム世界初の世俗化改革者ケマル・アタテュルク。他にはナセルサダト両エジプト大統領、シリアのアサド(父)サダム・フセインまでもがイスラムの最も危険な敵または内部の敵として非難されている。

 現在、世俗主義は中東ではまずいやり方になっているそうだ。成文憲法を持っている中東諸国のうち、国家宗教を明示していないのはトルコとレバノンに過ぎず、政教分離が一般的に原則として維持されているトルコさえ、最近は後退傾向もみられる。その他の中東諸国で成文憲法を有する国家は、全てイスラムに憲法上の地位を与えている。
 但し、イスラムの教義とは正反対の聖職者的な位階制が強まり、イスラエルでさえ聖職者により大きな政治的役割が与えられているという。聖職者の位階制の形成はオスマン帝国からで、帝国にはキリスト教大司教の管区などに当たる、宗教組織と呼んでよいものが存在していた。この種の組織は領域的な裁判権を持つ宗教権力の位階制もあり、領域内で限定された裁判権を持つムフティーがいた。ムフティーの指名はオスマン朝に由来し、殆どがキリスト教の先例に従っており、キリスト教の影響を受けたものなのだ。

 ムフティー間にも位階制があり、指定された地域のムフティーたちに君臨するのはイスタンブルの首席ムフティーだった。首席ムフティーはオスマン朝の総主教と言っても過言ではなく、事実上の首都のムスリム大司教だった。
 オスマン帝国崩壊後も、このやり方が中東諸国では踏襲されている。政府が首席ムフティーの称号を持つ役人を任命し、都市、州、全国における宗教行政的な権限を行使、古典イスラムではありえなかった政治的枠割りを果たしている。ルイスはその極端な例としてイランのアーヤトッラー(神の徴の意)、つまりホメイニの称号を挙げている。

 実はこの称号は近代起源であり、古典イスラム時代にはなかったものなのだ。もしイラン共和国の支配者が知らないだけというのであれば、実際にやっていることは宗教的な意味ではキリスト教化ではないにも関わらず、組織化という意味ではイスラムのキリスト教化である、とルイスは書く。既にイランではイスラムにはなかった高位聖職者、枢機卿会議、司教職、とりわけ宗教裁判と同じような機能が付加されている。そのために時間が経てば改革要求が出てくることになろう…と著者は皮肉混じりに述べている。

 ホメイニはイスラム以前の、ゾロアスター教を国教とした自国のペルシア帝国を専制支配の暗黒時代と非難していた。ここで私見を述べれば、イランの極度の位階制は先祖がえりというべきだろう。何故ならゾロアスター教聖職者には厳然たる位階制があり、ペルシア帝国時代には大仰な称号を用いていたのだ。昔ほどではないが、現代でもゾロアスター教聖職者の間には位階制が残っている。イラン・シーア派は先祖のやり方を踏襲したのやら。
その五に続く

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