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イスラム世界はなぜ没落したか? その三

2015-10-05 21:10:08 | 読書/中東史

その一その二の続き
 最盛期のイスラム世界では、イスラム以前の異教の夥しい古典がアラビア語に翻訳されたが、全てを正確に訳したのではなかった。中世の翻訳活動においての選択基準は役に立つかどうかであり、役立つと判断したものを訳していた。つまり第一に医学、天文学、化学、物理学、数学を翻訳し、さらに当時は有用だと考えられていた哲学も訳した。
 だが、どんな種類であれ文学は翻訳されなかった。中世のイスラム世界でギリシア語からアラビア語に翻訳された作品の厖大な目録からも、詩人や劇作家、歴史家は見当たらなかった、と著者は言う。関心の的にならなかったため、翻訳計画一覧にも姿がない有様。これは明らかな文化的拒絶であり、役立つものは異教徒からでも取るが、彼らの馬鹿げた考えに注目したり、劣った文学を理解しようと務めたり、意味のない歴史を研究する必要はなかった訳だ。

 中世イスラムは非常に歴史志向の強い社会であり、豊かで多様な歴史文献を生み出したが、やはり中世のムスリムは非ムスリムの歴史には関心を持たなかった。さらにイスラム以前の歴史にも、コーランで言及されている個所に多少の関心は払っても、それ以外は無関心であり続け、異教時代の自らの祖先にさえ殆どそうだったという。さすがにオスマン朝のトルコ人は隣人の歴史に少しばかり関心を寄せたが、このようなテーマはあまり高く評価されなかったらしい。

 前にズィヤール朝第7代君主カイ=カーウースの「カーブースの書」《『ペルシア逸話集』収録:平凡社東洋文庫134》を読んだことがあり、一神教の棄教と多神教への強制改宗を迫られ、拷問を受けているソクラテスへの描写があったのには唖然とさせられた。全般的に著者の高い教養と知性が伺える「カーブースの書」だが、この箇所だけは出鱈目も甚だしい。ソクラテス時代の一神教徒など、ユダヤ教徒くらいのはずだが、11世紀末の第一級のムスリム知識人すらこのことを知らなかったのか。
 ムハンマド自体が“最後にして最大の預言者”なので、ユダヤ教やキリスト教は過去の滅びゆく宗教と見なされており、キリスト教徒やユダヤ教徒、まして多神教徒の歴史は学ぶ価値なしと、唯我独尊になってしまったのだ。現代でもイスラム原理主義者はそう見ているはず。

 私的に最も興味深かったのが、第5章「世俗主義と市民社会」。著者はキリスト教社会とイスラム世界を比較し、いかに後者で世俗主義と市民社会が難しいのか、根拠を挙げて述べている。つまり、キリスト教徒とムスリムの歴史と経験、信条や文化に深刻な違いがあるというのだ。同じ“アブラハムの宗教”でも、キリスト教とイスラム教では成立自体からして違っている。
 教祖が十字架にかけられ、使徒たちは何世紀にも亘り迫害を受けて殉教、その支配者にやっとのことで勝利でき、国家、その言語、その政治組織に上手く適応したキリスト教。キリスト教化した未開の蛮族はローマ国家とその法律の何がしかを保存しようとし、自分たちの法律や聖書を書くためラテン語やギリシア語を使おうとした。

 一方、ムハンマドは生涯のうちに勝利を達成し、約束の地を征服、自らが最高権威である国家を設立する。イスラムの開祖は法律を制定し正義を実現、税を集め武器を掲げ、戦争を仕掛けて和平も行った。ムハンマドの指導者としての決定と行動は聖典で神聖化され、伝統の中で拡大されていく。
 ムスリムは自らの言語であるアラビア語で書かれた独自の聖典を持ち、独立した組織と聖法を持った国家を創出した。国家はイスラム的であり、その国家は創始者によってイスラムのための道具として設立されたゆえに国家から分離した宗教組織を作る必要もなかったのだ。国家が教会で、教会が国家であったし、預言者が地上における神の代理人であり、また神はその両方だった、と著者はいう。

 キリスト教徒は神とカエサル(皇帝)、或いはその二つのいずれか一つに負っている、異なる義務の間の違った教義と実践に学んできた。キリスト教の歴史は分裂と異端、競合する教義の提唱者、又はお互いに打ち負かそうと闘っている競争相手の権力者を非常に気にし、うまくいきそうな時は敵を迫害、そうでない場合は戦争を仕掛ける、そんな歴史だった。
 キリスト教が公認されて早々、諸教会の間で神学及び管轄区を巡る争いが勃発、後に旧教と新教、さらに新教諸派の間でも紛争が起きる。数世紀に及ぶ流血の争いと迫害の末、数多くのキリスト教徒たちは次の結論に達した。つまり、教会が強制的抑圧を行う国家権力に近づかず、同時に国家が教会の問題に介入できないようにすることによってのみ、異なる信仰や信条を持つ人々の間で寛容を伴う共存を達成できると考えるようになったのだ。
その四に続く

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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
カーブーズの書でなぜ一神教と書かれたか (ヒマ人)
2017-11-13 15:31:50
興味深く拝読しました。
カーブーズの書で、ソクラテスの身の上に降りかかった事態を「一神教の棄教を迫られ」とあるのは、非常に自然で、また単なる無知による間違いというのも少し違うと思います。当時の知の枠組みからいえば、他の受け取り方が無かったのではと思います。
 当時、ギリシャ哲学は、基本的に一体のものとして、つまりプラトンもアリストテレスも、本質的には同じだと信じられておりました。よく言う、新プラトン主義的なアリストテレス解釈です。哲学を擁護するものは、その「不動の動者」と唯一神を同一視していました。
 これらの同一視は、単なる無知からというより、当時の知的な環境の中で、これ以外の認識以外で学問を進めるのが難しかったからではないかと思います。
 これは確かにアナクロニズムではありますが、しかし、現代の知識人が屡々、古代ギリシャに近代的理性や民主主義を安易に投影してしまうも、似たような現象だと思います。
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シャーリアと国家法の関係 (ヒマ人)
2017-11-13 15:49:04
イスラムの政教一致は屡々指摘されることですが、若干の注意が必要であると思います。ブワイフ朝台頭以前はともかく、それ以降は、カリフと実際の王権が分離していたことは言うまでもありません。
 (この時期になって初めて体系的な「カリフ論」が整備されました)
 そして、シャーリアがイスラム国家の法体系を完全に覆いつくしたことも、また非常に稀なことでした。 法のうち、行政法は国家法の領域とされましたし、刑法もシャーリアに規定はありましたが、実際のところは国家法が優先したようです。
 民法商法はシャーリアの領分ではありましたが、特にオスマン帝国では、国家の意向が法官たちのファトゥワに非常に大きな影響を及ぼしました。
 また、相対化のために、近代前のヨーロッパにおいても、教会法の社会全体への影響は決して小さくはなかったことは、指摘されておくべきかと思います。
 イスラムのほうが世俗的領域への影響が大きいとは思うのですが、実際、イスラム教が強くとも近代的な国家運営に舵を切っている国々が現在ある以上、決定的な要因とまではいえないと思います。
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Re:カーブーズの書でなぜ一神教と書かれたか (mugi)
2017-11-14 21:56:31
>ヒマ人さん、

 初めまして。とても参考になるご指摘を有難うございました。

 私にはあれほど教養のあるカイ=カーウースが、一神教の棄教を迫られ拷問を受けているソクラテスの故事を描いた理由が分りませんでした。しかし、当時は哲学を擁護するものは、その「不動の動者」と唯一神を同一視していたのですか!カーウースの時代と現代では歴史認識が全く違っているし、知的環境も同じでしたね。

 ブワイフ朝に併合されるかたちになったアッバース朝も、カリフは実質的に王権は振えず、お飾り的な存在になってしまいました。建前としてはイスラムは政教一致でも、仰る通りシャリーアが国家の法体系を完全に支配したことは殆どなかった。
 シャリーアの問題は恣意的な解釈をされることが少なくないこと。日本では世俗的と思われているインドネシアですが、アチェ州ではサウジ並みの抑圧の手段にされているようです。
https://www.hrw.org/ja/news/2010/12/01/241245

 原則では政教一致ではないはずのキリスト教が、近代以前は教会法の影響力は大きく、イスラム圏と違って異端審問や魔女狩りが盛んでした。
それがなぜ逆転したのか?簡単に結論は出せないし、この先も研究者たちの尽きることのないテーマになるでしょう。 
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