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異端審問に熱狂した西欧、そうでなかったイスラム

2007-09-25 21:56:45 | 読書/中東史
 ユダヤ教から発生しながら、キリスト教とイスラム教との大きな違いは前者が異端審問や魔女狩りを盛んに行っていたのに対し、後者はそれがあまり見られなかったことだ。同じセム族一神教でありながら、何故異端に対する姿勢が異なったのだろう?イギリス人イスラム学者バーナード・ルイスはイスラム世界における異端の扱いをこう書いている。

おそらくキリスト教徒の異端という概念に一番ちかいムスリムの言葉は、「ビドア」(逸脱)であろう。伝統の遵守はよいことであり、イスラームの「スンナ派」の呼び名はまさにその行為に由来する。極端な伝統主義的見解がよく表れているのは、預言者ムハンマドが言ったとされる次の言葉に要約されている。「最悪なことは改変である。改変は皆逸脱であり、逸脱は皆過ちである。過ちは皆地獄の刑罰に繋がる」。教義に対するビドアの罪の一番重要な点は、まず第一にそれが間違っているからではなくて、慣習や伝統を破る新奇なものだからである。ムスリムの啓示の最終的極致を信じていれば、慣習や伝統を尊ぶ気持は強化されるはずだった。

 そういう訳で、キリスト教徒の異端という概念と、ムスリムのビドア(逸脱)の概念には重要な違いがある。異端とは間違った教理を選択したり、強調したりする神学上の違反行為を指す。逸脱は神学上の違反行為と言うよりも社会的な違反行為である。同じことが「イルハード」(正しき道からの逸脱)、アラビア語源の度を越すという意味の「グルッウ」(行き過ぎ)の2つの非難の言葉についても言える…

 共同体内部の多少の意見の相違は無害どころか、有益であると思われる。ハナフィー派の祖と言われる法学者アブー・ハニーファ(699-767)のものとされ、後にはムハンマド自身のものだったと言われる様になった言葉によれば、「わが共同体の意見の相違は、神の恵みである」。シャリーア(イラスム聖法)にはいくつかの異なった学派があり、それぞれに独自の法源と個別の法規定、裁判制度があり、それらが相互の寛容により共存していた。それらの相違の大半は儀式関連のものだったが、教義そのものに関するものも多少はあった。だが、限界は設けなければならない。その限界を超えた人たちが「行き過ぎ」で、「間違った人」若しくは逸脱者を意味する「マラービタ」と呼ばれた。神学者の中には彼らをムスリムと考えない人さえ大勢いたようだ。

 特筆すべきは、神学者によって何処に境界線を引くかが違うことである。例えばイスマーイール派の様な過激で極端な行動を取るシーア派グループを、イスラームの仲間から除外することに同意する神学者はたくさんいた。だが、ムスリム社会の大半は彼らに寛大であろうとし、彼らが社会的に見て破壊性の強い、政治的に見て扇動的な活動をしないという条件付で、ムスリムの身分を認めようとした…

 異端はムスリム神学の概念の分類項目に入っておらず、従ってムスリムの法規範にも関係がない。自称ムスリムだが、神学者の最小限の要求にも応えないような人は、不信仰者或いは背信者という、遥かに大きな非難を浴びせられる。ムスリム進学者たちは彼らが認めていない教義への改変、行き過ぎ、逸脱をすぐさま非難できる立場にありながら、通常は理詰めでその罪を追求することを嫌がった。ある教義と、それを信奉する人を非イスラーム的と非難することは、そうした人たちが名目上はムスリムでも、背信者で極刑に値することになるからだった。
 宗派が違うだけならば、その人物の信仰の一部がさしあたりイスラームの主流派の合意からはみ出していたとしても、ムスリムであることに変わりはなく、法的には社会におけるムスリムの身分と特権、即ち所有権、結婚、相続、証言、公職への就任などが認められる。例え戦争や反乱で捕虜になったとしても、ムスリムとして取り扱われ、即刻の死刑執行や奴隷化はされず、家族や財産も法律によって保護されることになっている。罪人であっても不信仰者でなければ、来世の住処はあると期待してよい…


 背信の告発は珍しいことではなかった。初期の頃、「不信仰者」と「背教者」という言葉は、宗教議論の中でよく使われた。「神学者の敬神の念は、せっせと反体制派を不信仰者と弾劾することで形成されてゆく」とアラブの思想家アル・ジャーヒズ(775頃-868/869)は言っている。ガザーリーは、「神の大きな慈悲を自分たちに忠実な者に限定し、天国を神学者の小さな派閥の聖禄地(ワクフ)にする」そうした人たちを軽蔑している。実際には、そのような非難はあまり影響を与えなかった。非難された人たちは殆ど何の苦痛も受けず、中にはムスリム国家の高位高官の座を占める人さえあった。
 ムスリムの法律で規定や罰則が体系化され、きちんと施行されるようになるにつれて、背信の告発は稀になった。自分たちと違う信仰を持つ人間に対して、背教者として訴えようとする神学者も、またそれが出来る人も殆どいなくなった…


 以上長い引用をしたが、ヒンドゥーや仏教世界には及ばないが、同時代の西欧と比べイスラム圏が「異端」にかなり寛容だったのが伺える。カトリックが中心となり、様々な「異端」を許さず、尽く潰していった西欧に対し、「異端」や人頭税(軽くはなかったが)と引き換えに異教を認めたムスリム。西欧なら異教は存在さえ許されなかった。画一的、教条、排他的なのは西欧側であり、近世までこれは続く。
 明治に来日したアメリカ人は、日本を含め東洋諸国では宗教改革さえなかったと記しているが、もちろん東洋的停滞と侮蔑していたのであり、キリスト教徒には改革のためなら夥しい流血をも辞さない面があるのだろうか。それがあたかも進歩とでもいうように。
■参考:「イスラーム世界の二千年」バーナード・ルイス著、草思社

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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (ロマーヌス)
2007-09-25 22:35:39
はじめまして

同じ歴史ブログ村から来ましたロマーヌスです。
イスラムや他の宗教の寛容に対するカトリックの非寛容は際立ったものがありますね。特に魔女裁判などは不当な判決が多く、狂信的ともいえますね。
イスラムに関してはあまり詳しくはないですが、イスラム側でもシーア派についてはいろんな考え方あるんですね。勉強になりました。
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はじめまして (mugi)
2007-09-26 22:09:52
はじめまして、ロマーヌスさん。

彼方のブログは以前から「人気ブログランキング」で、拝読していましたよ。
私も塩野七生ファンであり、『ローマ人の物語』全巻を楽しく読了しました。西欧史に関して私は、世界史の教科書と塩野七生本程度の知識しかないので、勉強になりました。

魔女狩りなんてやっていたのは、現代第三世界の女性の人権をワイワイ騒ぎ立てている西欧くらいですね。魔女狩りに熱心だったのはプロテスタントも同じ。とかく西欧と言えば大抵の日本人は先進的、とのイメージを持ちますが、異なる意見を認めない非寛容さはもしかすると現代も基本的に変わっていないのでは?と思うこともしばしばです。
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Unknown (Unknown)
2007-09-30 09:09:24
>キリスト教徒には改革のためなら夥しい流血をも辞さない面があるのだろうか。それがあたかも進歩とでもいうように。

まあ今ある西欧の先進性なんて、大昔に血を流すほどの価値観の争いをして獲得したものが多いからね。特にフランス革命なんかが好例だね。あれで庶民が自由を勝ち取った。要はキリスト教の人間(白人)も野蛮であり、それがあって今の西欧の文化があるってわけ。そんな白人は非白人国家に自分たちの価値観を押し付ける。それをすればそれらの国も自分たちと同じように幸せになれると思い込んでる白人も少なくない。イラクやアフガニスタンを見ればわかるようにタリバンやアルカイダ、フセインをやっつければ、2つの国は幸せになれるとアメリカは戦争を仕掛けたが、結果としては戦争前よりも更に酷い状態になった。
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野蛮人 (mugi)
2007-09-30 20:53:29
>Unknownさん

十字軍時代の西欧はイスラム圏に比べかなり野蛮な状態だったが、それでもムリスムを野蛮人と見下していた。これはキリスト教以前のギリシア、ローマ時代から東洋を蔑視していた延長ではないか、と思う。常に東洋は専制君主の人民奴隷国家、と。
9.11など犯人の殆どがサウジ人だったにも係らず、アフガンを空爆、イラク戦争を始めたアメリカ。フセインなどイラン・イラク戦争時には盛んに支援していたが、用済みになれば処刑。タリバン、フセインはともかく、一般民衆こそ悲惨だ。イラク国民だけでなく、中東、先進国にもとばっちり。
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