癌と生きる 依存症と生きる

命がある限り希望を持つということ

人はなぜ依存症になるのか

2013-10-30 13:24:30 | ギャンブル依存症
前回ネット依存が若者の間に広がっていることについて
少し書いたが、昨日ニュースで三鷹市で起きたストーカー殺人に関連して
加害者側(ストーカーになった、あるいはその可能性がある人たち)を
支援する取り組みが始まったことが報じられていた。

そしてインタビューに応じた男性が「恋人に依存していた」と話した
のが強く印象に残った。ほぼすべての依存症に共通するのは、対象に
なるものをやりだしたら止めることができないというコントロールの
喪失と、やりたくなるとどうにもこうにもならず、抑えきれない気持ち
つまり渇望だ。
だから、最初は普通の恋愛であったものが、ストーカー行為にまで
至るというのはこれもまた依存症の一つの形態と考えてよいのだと思う。
そこで加害者への支援というのは、カウンセリングなどを通じて、ストー
カー行為をしたことがある人たちの心のあり方を変えていく取り組みとい
うことであるようだ。

そこで「人はなぜ依存症になるのか」という大変大きな命題を
前回あげた田辺等先生の著書「ギャンブル依存症」をもとに
考えてみたいと思う。
この本の第三章「私はなぜハマったか」の中で「ギャンブルに没頭した
理由は決して単純かつ単一ではない」と前置きしながらも「多数の事例
をていねいに解析してみると、複数の事例で、よく似た状況、同じ
ような心理的背景があって、ギャンブルに没頭していたケースもある」
とし「挫折したスポーツマン」「平凡な中堅社員」などといった具体
的な事例があげられている。

そして最後に彼らがギャンブルにはまった状況、心理的な背景
が次のようにまとめられている。

1.日常生活での充足感、充実感に欠けていた
2.自分への肯定感が持てない、他者と比較してダメな感覚があった
3.仕事(学業)に取り組んでいる自分が本当の自分ではない気がする
4.何を目標として生きるべきかを見失っていた
5.空虚、空白、憂鬱な気分が続いた

これらの心理的な背景は実は密接に関係している。けれど現代の
過度に情報化が進み、社会の仕組みも人間関係も多様化している状況では
こういう心理状態の人はたくさんいるのではないだろうか。
つまり誰もが何らかの依存症に陥る可能性を保有しているというわけだ。
帚木蓬生先生は「お釈迦さまでもギャンブル依存症になる」と
極言されていたが、あながち誇張とも言えない。

その中で、ギャンブル依存者はなぜギャンブルを楽しむだけではすまず
依存症にまでなってしまうのか。この点について「ギャンブル依存症」
では上のような「はまりやすい心の準備性(個人要因)があり、そして
出会ったギャンブルには、初心者でも大勝ち(ビギナーズラック)が楽
しめる、つまり高い賭博性(種目要因)があり、さらに簡単かつ安易に
借金ができるという促進的な社会環境がある。これらの三要素の複合産物
として、ギャンブル依存症は成立した」と総括されている。

私は以前このブログで「共依存」の問題については棚上げすると
宣言した。確かに依存症を考える場合、家族の心理が原因の一つ
として取り上げられることが間違っているとは思えない。もちろん
そういう要因もあるだろう。しかし、依存症を考える上では
社会的な要因というものも大きなウエイトを占めていると思う。
だからギャンブルにしろネットにしろ原因や解決を
当事者や家族という狭い枠の中だけで考えることには反対だ。

例えばギャンブル依存症の場合は、すでに患者数が600万人に
近づきつつある現状を把握していながら何のアクションも起そうとしない
政治や社会のあり方をも理解しながら向き合うことが大事だと思う。

ネットの場合にしても、精神的に成熟していない青少年を
それこそ何でもありのネット環境に無防備に放り込むような現状は
社会のあり方としては何か本質的に間違っていると思うが、
歯止めをかけることができる知識やノウハウが上の人間にはないのか
それともギャンブルの時と同じでもっと不純な動機で
はなから規制をするような気もないのか
そのあたりはまさに闇の中ではあるのだが。