それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

永い言い訳:ネタばれしますので、要注意

2016-10-15 23:09:32 | テレビとラジオ
比べるべきではないかもしれないが「そして父になる」と同じか、それ以上に胸に迫るものがあった。

この映画は、ものすごく乱暴に要約すれば、作家である主人公が「喪失したもの」をちゃんと喪失するまでの話だと言える。

それは二重の喪失だ。

ひとつは、主人公が事故で妻を失うこと。

もうひとつは、妻からの愛情を失うこと。正確には、妻からの愛情を生前に失っていたと気づくこと。

主人公は妻に対して不貞を働き、攻撃的ですらある。

それは主人公が自分を人間としても小説家としても許せていなかったことが大きな原因となっていた。

だから妻を失った後も、彼は特に喪失感を感じることがない。ただ、社会的な評判やメディア上の自分だけを気にかける。

ところが、実は大きなものを失っていた。

主人公は徐々に何気なく崩壊していく日常生活のなかで、それに気がついていく。

その時、同じ事故で亡くなった妻の親友の、その夫から連絡をもらう。

主人公と対照的に喪失感と真っ直ぐに向き合い、折れている男。

トラックの運転手で、学はないが、誠実な人物だ。

(これまで演技経験がほとんどないという竹原ピストルの名演には痺れた。)

ひょんなことから、この友人の夫の娘(幼稚園くらい)と息子(小学六年生)の面倒を週に二回程度見始めることになり、そこで主人公はいつの間にか母となり、妻となる。

初めて得た視点で、彼は妻が自分にとってどういう存在だったのかを理解する。

少しずつ変化していく主人公と子供達の健気な頑張りが胸を打つ。

どちらも喪失から立ち直ろうとしているのだ。

ところが、主人公はふとしたことから、妻の生前の気持ちを知ってしまう。

それは自分が妻に行った仕打ちの結果であり、彼の原罪そのものだった。

さらに、主人公は愛情を注ぐあの家族のなかで、部外者であることを突きつける出来事が。。。

せっかく喪失から立ち直ろうとしていた主人公だったが、再び大きな喪失感に打ちのめされる。

けれど、実はすでに彼も子供達にとってかけがえのない家族だった。母を失った息子と父の葛藤は遂に悪いかたちで爆発する

壊れかけた家族を再生すべく、主人公は再びあの家族のもとへ向かう。

主人公は、血のつながった家族ではない。彼は最愛の家族だった妻を失っているのだ。

だが、主人公は失った妻の存在も、自分の原罪も理解し、受け止める。それらと向き合い、伴って生きる決意に向かう。

さらに新たに得た友人や愛情、ある種の擬似的家族をありのまま受け入れる。本当の家族ではない。けれど、愛情は本物だし、それぞれがそれぞれを必要としている。それを認めるのである。

そして、彼はもう一度、作家として再生する。作家としての再生の儀式は、喪失と原罪を作品に昇華することだった。

人生のなかで、良い悪いで切れないものをそのまま受け止めるのは、とても辛いことだ。

けれど、愛情/憎悪はまさに良いものであり、同時に悪いものである。

家族はまさにその二重性、アンビバレンスの塊だ。

その辛さ、難しさ、もどかしさをこの映画は余すところなく、しかし、余剰なく描ききっている。

そこには安易なカタルシスがない。ただ、赦しがある。だから、この映画は尊い。