小式部内侍(こしきぶのないし)は平安時代の女流歌人 掌侍
生年未詳(998、999、1000年とも) ~ 万寿2年(1025年)
母の和泉式部と共に一条天皇の中宮・藤原彰子に出仕した
そのため母式部と区別するために「小式部」と呼ばれるようになった
出版年未詳 歌川豊国(国貞)絵
小式部内侍は陸奥守橘道貞(たちばなのみちさだ)の娘にて上東門院の女房なり
母の和泉式部が後の夫、藤原保昌(ふじわらのやすまさ)とともに任国の丹後に
下り住んでいた頃、宮中で歌合せがあり小式部も歌詠みに選ばれた
この時いまだ年弱なのに小式部に佳き詠があるのは
母の代作であろうと邪推する者もおり
おりから藤原実頼(ふじわらのさねより)が局の前を過ぎるとき
丹後の国へは使いは出されましたか、未だ帰らぬが待ち遠しいですね
と言い棄てようとした直衣(のうし)の袖を引きとどめ
『大江山 いく野の道の遠ければ まだふみも見じ 天の橋立』
子建が七歩の詩に劣らぬ母の智借りぬ当意即妙に
実頼卿は赤面し袖を引き切りて逃げ去った
柳亭種彦記
子建 中国三国時代の曹操の第3子 曹植の字(あざな)
七歩の才 作詩の才がすぐれて早いこと