で、ロードショーでは、どうでしょう? 第1178回。
「なんか最近面白い映画観た?」
「ああ、観た観た。ここんトコで、面白かったのは・・・」
『ブレードランナー 2049』
巨匠リドリー・スコット監督によるSF映画の金字塔『ブレードランナー』の35年ぶりの続編となるSF超大作。
前作から30年後の荒廃した未来世界を舞台に、ブレードランナーとして活動するレプリカントの捜査官“K”を待ち受ける衝撃の運命を、圧倒的な映像美とともに描き出す。
監督は、『プリズナーズ』、『メッセージ』のドゥニ・ヴィルヌーヴが務める。
リドリー・スコットは製作総指揮に回っている。
物語。
2019年より、さらに荒廃が進んだ2049年の地球。だが、人類は人造人間“レプリカント”の労働力を用いて、地球外へもその世界を広げていた。
30年前に活躍していたタイレル社の旧型レプリカント(ネクサス6型)はその反社会的な行動をとるなどの欠陥により排除され、ウォレス社の新たなレプリカント(ネクサス8型)にとって変わられ、人間社会に溶け込んでいた。
最新型のレプリカントのKは旧型のレプリカントを解任させる捜査官“ブレードランナー”であり、指名手配のサッパーを見つけたとの情報から郊外の農場へとスピナー飛ばしていた。
彼は、その農場で合成の木のそばに埋められた謎の箱を発見する。
原案は、フィリップ・K・ディックの小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』/映画版『ブレードランナー』の原案は、ハンプトン・ファンチャー。
オリジナルキャラクター創造は、フィリップ・K・ディック。
脚本は、ハンプトン・ファンチャー、マイケル・グリーン。
出演。
ライアン・ゴズリングが、K(ネクサス9型:型番KD6-3.7)。
アナ・デ・アルマスが、ジョイ(AI人格)。
ロビン・ライトが、LA警察の特捜班司令のジョシ。
ジャレッド・レトーが、ウォレス社社長のニアンダー・ウォレス。
シルヴィア・フークスが、ラヴ(ネクサス9型)
ハリソン・フォードが、リック・デッカード。
エドワード・ジェームズ・オルモスが、ガフ。
ショーン・ヤングが、レイチェル。
カルラ・ユーリが、アナ・ステリン(読み的にはステライン?)
レニー・ジェームズが、ミスター・コットン。
デイヴ・バウティスタが、サッパー・モートン(ネクサス8型)。
マッケンジー・デイヴィスが、娼婦のマリエッティ(ネクサス8型)。
ハイアム・アバッスが、フレイザ(読み的にはフレイサ?)。
スタッフ。
製作は、アンドリュー・A・コソーヴ、ブロデリック・ジョンソン、バッド・ヨーキン、シンシア・サイクス・ヨーキン。
製作総指揮は、リドリー・スコット、ティム・ギャンブル、フランク・ギストラ、イェール・バディック、ヴァル・ヒル、ビル・カラッロ。
撮影は、ロジャー・ディーキンス。
圧倒的に美しい映像で映画を貫いています。13度のノミネートから、ついに初のアカデミー賞を獲得するか?
プロダクションデザインは、デニス・ガスナー。
衣装デザインは、レネー・エイプリル。
コンセプトデザイン協力は、シド・ミード。
ラスベガスのアイディアは彼に依頼したそうです。
編集は、ジョー・ウォーカー。
音楽は、ハンス・ジマー、ベンジャミン・ウォルフィッシュ。
デッカードの逃走から30年後、新型レプリカント捜査官がある旧型の事件中に仰天の発見をするSFサスペンス。
深淵なる前作を引き継ぐほぼ完璧な続編。ほぼとつけたのは人それぞれに理想があるから。だが、今作はその理想の作品のレプリカントになりえている。新しいのに懐かしい。
ドゥニ・ヴィルヌーヴの語り、ハンプトン・ファンチャーとマイケル・グリーンの脚本、ロジャー・ディーキンスの映像、デニス・ガスナーの美術が相乗し、触感ある未来が眼前に広がる。この重荷に翼さえ生やしている。
ライアン・ゴズリングの無表情の表情、アナ・デ・アルマスのつくり表情、ハリソン・フォードの硬さといった顔の芝居に目を背けられない。
これは旅、人間らしさを人間もどきに見つける探検、異国の土地に立った感触が沸き起こる。
このホコリまみれの美しさよ。思わず手を伸ばしてしまう。
かつて涙だった水をぬぐう傑作。
おまけ。
原題は、『BLADE RUNNER 2049』。
『2049年のブレードランナー』ですね。
この書き方なら、前作は『ブレードランナー 2019』。
来年ですね。
原作は2020年の設定なので、レプリカントの寿命設定が少しズレてます。
実は、【ブレードランナー】という単語は原作には出てこない。
【ブレードランナー】は、SF作家アラン・E・ナースの小説『The Bladerunner』(1974年)において「非合法医療器具(Blade)の密売人」として登場する。この小説を元にウィリアム・S・バロウズは小説『Blade Runner (a movie)』(1979年、訳題『映画:ブレードランナー』)を執筆し、この2作から取られた名称で、使用料を支払って採用した。
原作小説には続編はないが、別作家によって執筆されかけたことがある。
だが、映画の続編として発表された小説『ブレードランナー2 レプリカントの墓標』、『ブレードランナー3 レプリカントの夜』、『Blade Runner 4: Eye and Talon』(K.W. ジーター)がある。小説版の『2』は『1』に出てこない6人目のレプリカントに関する物語で、タイレルの娘サラが出てくる。『3』はその後のデッカードとサラの逃避行の話。『4』は女性ブレードランナーのアイリスの話。3作とも今作とは全く関係ない。
小説『2』を基にした続編『Blade Runner Down』、オリジナルの『メトロポリス』というタイトルでの続編、『ピュアフォールド』という前日譚の映像化が企画されたことがある。
製作国は、アメリカ。
上映時間は、163分。
4時間超えだった前作が編集されて2時間になり、その間を繋ぐように2時間45分となった今作だが、その歩く速度のようにたゆたう時間は、観ながら思索する余白。
キャッチコピーは、「知る覚悟はあるか――。」
その知るの部分には、傑作の前作から35年ぶりの続編の出来という部分も含んでいる感じ。
IMAX、3D、4DXなど最近の大作ならではのいろんな上映形式がありますが、ロジャー・ディーキンスは2Dワイドスクリーンでの鑑賞を推奨してます。
3本のスピンオフ短編映画が発表されています。
『ブレードランナー ブラックアウト2022』(アニメで渡辺信一郎による、大停電の物語)
『2036:ネクサス・ドーン』(ルーク・スコットとハンプトン・ファンチャーとマイケル・グリーンによる、ウォレスの物語)
『2048:ノーウェア・トゥ・ラン』(ルーク・スコットとハンプトン・ファンチャーとマイケル・グリーンによる、サッパー・モートンの物語)
この順番で見ると時間軸通りで、分かりやすいです。
『エイリアン:コヴェナント』 の時もやってましたが、あちらの本編で足りない部分を補足する本編に入れてくれたらいいのにってのと違って、こちらは完全にスピンオフです。
短編3本は、本作を見た後で見たかったら見ればいいかと。個人的には『2048:ノーウェア・トゥ・ラン』を見ておくとグッとくる部分が増えるかな。
ややネタバレ。
橋の上での巨大ジョイとのシーンは実際に霧に映像を投射して撮影したもので合成ではないそうです。
リドリー・スコットは『エイリアン:コヴェナント』と両方とも自分で監督するつもりだったが、撮影時期が重なってしまうので、『エイリアン:コヴェナント』(『エイリアン6』でもある)に専念した。
それでか、『エイリアン6』と『ブレードランナー2』の内容には、まるで姉妹作のような匂いがある。
ネタバレ。
写真や再創造されたレイチェルのダブルは、ローレン・ペタが務めています。
記憶の中の子どもは木馬を隠す時に髪があり、周りの子供らには髪がない。
これは、実は女性であることが示されている。(アナの本当の記憶だから)
それでも、万が一、もしかしたら、Kがレプリカントと人間(またはレプリカントの純潔種)の子供である希望を抱いて、観客も物語を追ってしまう。
K自ら、つくられた記憶かもしれないと言っていることで、逆に鍵を開ける。
リック・デッカードはレプリカントか否か問題に、今作で答えは出さずにどちらにも取れるようにしてある。
レイチェルとの愛が仕組まれていたとウォレスは言う(事実かは不明)、思考を操作できるのはレプリカントだったから? ブレードランナーのKがレプリカントであることでレプリカントより(ただレプリカントは目が赤く光るという演出はない)。
一方、タイレルは生殖機能を持った男女のレプリカントを作って、外に離してくっつける意味がよくわからない。だが、すでに何度か成功していて、次は愛を獲得させようとしていたのか? なのに、デッカードを殺し合う危険な任務につけさせた意味がわからない。子どもを作るとなる時間が必要なので人間とレプリカント同士での生殖を試す方が早いのではないか。そもそも、2019年の当時、反乱したレプリカントを追うのに、反乱の可能性があるレプリカントを使うのはなかなか厳しいのではないか。不条理なフォークト=カンプフ検査も可能なかどうかあやしいし。本気でKを殴るがそのパワーは人のものと変わらない。人と同じように作ったのか、それとも老いか。
とはいえ、それらが可能だから逃げて、人間のふりをして捜査官をしていたともいえるけど。
ハリソン・フォードは、『ブレードランナー 2049』のインタビューで例のレプリカントか否かの疑問に対して、「以前は人間であると主張していたが、今は私の考えが偏っていた、と認めざるえない」と述べている。
前作のロイ・バッティらはネクサス6型(寿命が4年)で、今作で旧型と呼ばれているのはネクサス8型らしい。2022年の時点でネクサス6型は寿命により絶滅。
次のネクサス8型はタイレル社製のもので2020年頃から製造され、より寿命が長く設定(何年かは不明)されている。(『ブレードランナー ブラックアウト 2022』より)
Kやラヴはウォレス社製のネクサス9型、より人間らしくなった新型で2049年には標準となっている。こちらは寿命設定がないようだ。
ネクサス7型は寿命設定がないレイチェルのことと言われるが、断言されていない。お産の際の事故で死んだのか寿命だったかは不明で木馬の刻印などから逃走の2年後に死んだことになるので、どれぐらい生きられたのかも不明。
ウォレスがネクサス9型を生み出したのは2036年(『2036:ネクサス・ドーン』より)と思われる。ネクサス8型はサッパーやフレイザなど20年には製造されていた(彼らが投入されたカランサでの戦争は20年初頭に勃発し、年内に終結したようだ。21年の時点でサッパーはレイチェルに帝王切開を施しているため)。
彼らが生きているようなのでネクサス8型は20~49年の間生存した種が確認されているので、30年以上は生きられる模様。
計算すると36または37年生まれのネクサス9型の年齢は、12年程度。
Kがいつ誕生したかは不明。
アナの年齢は27歳。ライアン・ゴズリングの撮影当時は36歳で、Kは27歳に見えなくもない。
ドゥニ・ヴィルヌーヴは『渦』でシュール・サスペンス、『静かなる叫び』で社会派サスペンス、『灼熱の魂』でサスペンスドラマ、『プリズナーズ』でサスペンス、『複製された男』でシュール・サスぺンス、『ボーダーライン』でサスペンス、『メッセージ』でSFと作ってきているが、どれからもいくつかの共通した題材が見える。それは、女性性、親子の関係、もう一人の自分、演じることだ。(ただし、短編の『華麗なる晩餐』(『Next Floor』はシュールなブラックコメディでそういった要素はないがホコリまみれの美はある)
『渦』は大女優の母と中絶し事故を起こしたブティックオーナーの娘との関係を、『静かなる叫び』はアンチ・フェミニズムが動機で自分が通う大学で大量殺人を起こし、『灼熱の魂』はある母と3人の子供の物語、『プリズナーズ』は親が誘拐された娘のために狂気に走り、3組の親が浮き彫りになり、『複製された男』はもう一人の自分(俳優)を追う教授とそれぞれの妻と恋人との関係、『ボーダーライン』は女性FBI職員が男性社会で奮闘し、『メッセージ』は母と娘の物語を壮大に描く。
『ブレードランナー 2049』には、親子の関係、もう一人の自分、演じること、女性性、この4点がほぼ全部入っている。
レプリカントの子供(デッカードとレイチェルの子供)を巡る物語。
Kにとってはアナはもう一人の自分。
人間もどきは人間を演じているかのようで、ジョイは恋人(愛)を演じるよう作られ、Kはレイチェルの子の偽装、アナはただの人間を演じている。
ジョイの存在、レプリカントの生殖、立体映像をかぶせた娼婦とのセックス、セックス・レプリカントは、まさに女性性を描き出している。
ラストカットのデッカードがガラスに触れるのは『メッセージ』にもほぼ同じカットがあった。
窓(向こうを見るもの)はドゥニ・ヴィルヌーヴにとって、重要なモチーフのようだ。
いろいろ形を変えて描かれてきた。
『渦』の水とショーウィンドウと車の窓、『静かなる叫び』の扉と窓、『灼熱の魂』の狙撃スコープと窓、『プリズナーズ』の空気穴や車の窓、『複製された男』のTVと窓、『ボーダーライン』のカメラと窓、『メッセージ』の穴とパソコンモニターとTVと窓。
『ブレードランナー 2049』では、Kの部屋の窓、スピナーの窓、アナの部屋のガラス、ドローンなどの映像、透ける立体映像。
盲目のウォレスがドローンの眼で世界を見るのも象徴だろう。
見えるけどその間は隔たれているという状況を描く作家ともいえる。
物理的な砂埃や雨や雪や壁、種族や文化や思想の違いによる色眼鏡、真実と偽装の間にある演技、など。
それは二つの関係で示される、男と女、親と子、加害者と被害者、西洋と中東、アメリカとメキシコ、並行世界の二人の自分、映像と実像、地球人と宇宙人、人間とレプリカント、過去と現在、現在と未来・・・。
人は、見えるのに触れられないからこそ触れたいと強く願ってしまう。その触れたいという欲望を形にしようとする。 それはAIでさえも、と描くのだ。
そして、触れられなくても通じ合えるのではないかという希望を描き出している。
前作でも今作でもデッカードは死の淵から、殺そう(Kは殺せと言われた)とした相手から手で引き上げられる。
今作では、最後、デッカードはKを引き上げ返す。
前作との対比が多く仕込まれている。
前作の製作会社のラッドカンパニーのカンパニーロゴはCGの木→続編では、木が重要なモチーフになっている。(燃える農場の前の木は『サクリファイス』へのオマージュ)
クレジットのカラーも同じ。本文は白、レプリカントは赤で表示。
前作の冒頭、スピナーが飛ぶのは街中にも火力発電所がある未来都市→続編では郊外のソーラーパネルが広がる郊外。
瞳アップがどちらにもある。
人工動物→人工植物。(続編では人工動物はあまり出てこない。虫は自然のものだし、犬は不明)
眼球制作者のジェームズ・ホンはバッティに目を潰される→ウォレスは盲目。
タイレルは窒息させられ死亡(遺伝子工学技師J・F・セバスチャンだったか?)→何度か窒息で攻撃され、ラヴは突き上げられ、窒息で死亡。
指名手配のゾーラとプリスはストリップダンサーでありロイの恋人→セックス・レプリカントや、疑似恋愛ソフトのジョイ。
フォークト=カンプフ検査→新たな検査をK自身が受ける。
ユニコーンの夢と折り紙→木馬の記憶、木馬、馬のモチーフの灰皿など。
ガフはユニコーンではなく、多分、羊の折り紙を折る。(『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』へのオマージュ。前作でオルモスがセリフがないので手持無沙汰で折り紙で折っていたものが採用された)
うどん屋や日本酒など日本語の看板などが出てくる。
前作のシナリオ冒頭にあったが、予算の問題でカットされた郊外の農場に潜むレプリカントをデッカードが捜査に行くというシーンから始まる。前作でロイ・バッティらは赤い砂漠を抜けて、街に入る予定だったが、これもカットされたので、デッカードが潜むラスベガスが今作では描かれる。
『ブレードランナー』で最も有名な台詞と言えば、「雨の中の涙のように(消えてしまう)」。
今作は雨が雪になっている。
雪だったが溶けてしまえば水、涙だったがこぼれてしまえば水、レプリカントが目から流すのは水か涙か? 繁栄の象徴のラスベガスが今は廃墟、記憶についての物語で、この水が雪だったと思いを馳せられることが人間性だと伝えているのではないか。
それはレプリカントもかつては人間ではなかった、奴隷だった、と言える未来を示唆しているようにも考えられる。
劇中の多く出てくる、音楽、映像、記録された多くのメディアもそれを象徴している。
同じ姿をしているジョイでもあのジョイではなく、たとえ緑の眼をしていてもレイチェルではなく(また別の違いを探してしまう)、つくられたレプリカントでさえも、すべてのものは唯一であり、特別であり、そうでありたい、そうであった欲しいと思うものなのだ。
そして、 その雪はかつて水だった。
ただの水に見えても、その水はなめたらわずかに塩っぱい。
ラストバトルの海は生命のやってきた場所で、膨大な涙だ。
劇中で詠まれる詩は亡命ロシア人作家ウラジーミル・ナボコフの『青白い炎』(Pale Fire)のもの。
この本は老詩人ジョン・シェイドの999行からなる詩<青白い炎>の版権を買い取ったキンボート博士が、序文と註釈をつけ、本にまとめたもの。ですが、どちらも創作で、メタフィクションとなっている。キンボートによる詩の註釈が小説の体を徐々になしていき、詩の解説から大幅に脱線し、キンボートの母国ゼンブラにおける革命と暗殺者の話が織り込まれ、曲解され、シェイドとキンボートの真の関係が暴かれていくという学術書の体裁をとった小説という実験作。
これは、ある意味で、『ブレードランナー』に注釈を加えていく『ブレードランナー 2049』との関係を示しているともいえる。
Kは、何かと匂いを嗅ぐ。それが彼を彼たらしめている個性。
ジョイが娼婦を呼んで疑似セックスにいたるのは、ほかのジョイもやっていたのか? 彼女とKだからこそ生み出した発想か。
最後の「愛してる」は、プログラムか、彼女だけの個性か。
人は、同じCDでさえも、人の物と自分の物では思い入れが違ってしまう。
でも、物が無くデータだけで、そのコピーだけの音楽データでさえもそう思うのか?
少しモヤモヤするのは、黒幕であるウォレスは結局、生き残り、アナは外に出ることができないので、いづれ見つかるのではないかという可能性が残されたこと。
だが、これは オープニングの設定説明や劇中でのわずかな言及によってある可能性がしさされていることで解消される。
タイレル社が倒産し、タイレル製のレプリカントが禁止になったのはレプリカントに反乱の可能性があったから。
まもなく、フレイザたちのウォレス社製のネクサス8型レプリカントの反乱が起こる上、それがネクサス9型のKの反乱によるものと宣伝されれば、その時点で、ウォレス社製のレプリカントは廃止となり、ウォレス社は追い込まれ、ウォレスも欠陥品製造の罪を問われるはず。(ニッサン、スバルのようにリコールされるだろうから、今後のこの2社の行方に重ねるのも面白い)
だが、使い捨ての労働力を必要とする人類社会は新たなレプリカントを求めるであろうから、そこにうまく入り込んで、生き延びるかもしれないが。
勝手な妄想すると『エイリアン』と繋がり、ウェイランド社が台頭して、アンドロイドに取って代わられる、と。そして、アンドロイドも人類に反乱を起こす。
実は『ブレードランナー』と世界観が繋がった作品がある。ポール・W・S・アンダーソン監督の『ソルジャー』(1998)で、旧型レプリカントの兵士が新型レプリカントに取って代わられ、反乱する話で、劇中にスピナーの残骸が出てくる。
実際は『ブレードランナー』の脚本家の一人デヴィッド・ウェッブ・ピープルズが脚本を務めたので、美術が遊びで入れただけ(オタクのポール・W・S・アンダーソンの遊びかも)みたいですが。
ところが、『ブレードランナー 2049』のサッパー・モートンが旧型レプリカント兵士で新型に排除された世界という設定になったので、微妙につながってきて面白い。
ハリソン・フォードは一昨年の『スターウォーズⅦ』でも子供が重要なキャラを演じていた。
木のそばに本物の花が供えてあったことでKはそこに何かあると気づいた。
今作の世界では、本物は花は高価だから。
白いハトや梟のモチーフは、蜂や幼虫になっていた。前作では自由や知恵(合成だけど)の意味があった鳥だが、今作の虫は自然や帰る場所や仲間を象徴しているのではなかろうか。
この世界でのレプリカントは自分がレプリカントだと知っている。
だから、「この街では誰しもが自分だと思う」わけだ。
特別な子供アナが作ったレプリカントの記憶はすべて特別な量産品で、その記憶のせいで魂のないレプリカントは生きていける。
つまり、アナが仕事についてからのすべてのレプリカントは彼女の子供。
そもそも、ネクサス6型は人間の記憶を持たされていた。寿命があったから進化に近い変化をできなかったが、寿命が延びたネクサス8型は時間によって、それを獲得できたのかもしれない。
アナの免疫不全というのも嘘かもしれない。
人類に見つからないための偽装なのではないか。
彼女自身は自分が特別であることを知っているから耐えられるんじゃないかと。その記憶が多くのレプリカントが引き継いでいってくれることによって。
記憶持つものが作った35年ぶりの続編が生まれたことによって、『ブレードランナー』が改めて特別になったのだ。『ブレードランナー 2049』から見た若い世代が『ブレードランナー』を見る時、どちらを特別と思うだろうか。その本質的な出来で判断されるのか、観た人の個人的経験の記憶において規定されるのか。
デッカードがレプリカントかどうかは外側から見る、規定したい者にとっては重要だろうが、彼にとっては知らないこと人間だと信じていることが重要だ。
だから、彼が自分をどちらだと思っているのか、それを知りたいかどうか、そもそも疑ったことがあるのかこそが本来の謎だ。
レプリカントである自分を、Kが誇れたであろうと思いたい。
意にそぐわない命令に従わず、己の命に従って行動できたのだから。ある意味、命令に忠実なレプリカントの特性のままに。
彼は特別でないことを受け入れたことで、特別になった。
人間とは何だ? はテーマではあるが、それは、自分は何だ? に行きつくはずだ。
『ブレードランナー』が哲学的と言われたのは、答えが出ない問いに挑んだからだろう。
『ブレードランナー 2049』はさらに答えの出ない問いに挑んだ前作を引き継ぐという問いに挑み、さらに深く問いに切り込んだ。答えを出すのではなく、新たな問いを出したのだ。しかも、美しい問いを。
その水はかつてなんだったと想像し、もはや水になったそれに、あなたはどう触れるのか? と。
Kにあり、ああいう個性を発揮したということは、ラヴにもアナの本物の記憶があったのかもしれない。
ウォレスが機械の目で見たものは、複数の目で見る世界は同じに見えるのだろうか?
男女のペア(アダムとイブか、キリストとマリアか、もしくは・・・)がいて、その片方の喪失がこの映画の肝になっている。
つまり、ギリシャ神話の【アンドロギュノス】の分裂だ。
【アンドロギュノス】とは、男性という意味の【アンドロ】と女性という意味のギュノスをつけた言葉。
元々、人間の男女はくっついて一つだったが完璧で神を恐れぬ不遜差を抱いたためにゼウスがそれを分けて二つにしたという神話。
リックとレイチェル、タイレルとレイチェル、ロイとプリス(原作ではロイには妻アームガード・ベイティーがいる)、プリスと玩具製作者セバスチャン、Kとジョイ、ウォレスとラヴ、Kとアナ、アナとリック・・・。
原作でレプリカントを指すアンドロイドは(android)は、ギリシア語の男性や人を意味するandroに、もどきや○○のようなものを意味するoidをつけた造語。
レプリカントはそのままアンドロギュノスの片割れのレプリカともいえる。
もしくは、エウリュディケによるオルフェウス奪還のための黄泉訪問か。(イザナギとイザナミ神話もあるが)
それは、レプリカントと人間の関係ともいえる。
そして、『ブレードランナー 2049』では持ち運びできるジョイによってKはアンドロギュノスになるがジョイは破壊される。
ジョイがマリエッティと重なってのセックスは疑似アンドロギュノスを映像化したとも言える。
レイチェルは、ラテン語読みのラケル(Rachel)は旧約聖書の『創世記』に登場する女性。ヤコブの妻で難産の末男子を産み、死亡。ラケルはベン・オニ(私の苦しみの子)と名づけたが、ヤコブはベニヤミン(南の子)と呼んだ。
どうやら、『ピノキオ』 も意識しているそうです。
蜂は、生命の復活という小さな希望だそう。
前作の白い鳩やレイチェルの「蜂は殺す」に呼応している。
『ブレードランナー 2049』によって『ブレードランナー』の物語が強まっている。
ロイ・バッティら反乱レプリカントを追うブレードランナーの捜査、ロイ・バッティは生みの親への復讐という二つの軸に、タイレルによるレイチェルの目覚めを起こす策略という三角形に。
しかも、全部の辺が二重の三角形を構成する。
リック・デッカードがレプリカントならば・・・。
ロイ・バッティ(子で復讐者)⇔タイレル(親で仇)、リック・デッカード(子で操作される者)⇔タイレル(親で操作する者)、 リック・デッカード(弟で追跡者)⇔ロイ・バッティ(兄で逃亡者)
リック・デッカードが人間ならば・・・。
ロイ・バッティ(子で復讐者)⇔タイレル(親で仇)、リック・デッカード(仕事をもらっている者という意味で孫(※注)であり操作される者)⇔タイレル(仕事を生み出した者という意味での祖父であり操作する者)、 リック・デッカード(追跡者)⇔ロイ・バッティ(逃亡者)という二重の三角形を構成する。
(※注=ブレードランナーは反乱レプリカントを追う捜査官なので、レプリカントを生み出した者がいるから仕事を生み出した。タイレル→レプリカント→ブレードランナーという祖父→親→子であり、タイレルから見ればブレードランナーは孫ともいえる)
操作する者と操作される者以外の関係は元々の『ブレードランナー』にあったものだが、操作できるという意味で、リック・デッカード=レプリカントであることが強まった。
タイレルは、最初のブレードランナーのデイヴ・ホールデンが殺された時点で、レプリカントのことはレプリカントでなければ肉体的に厳しいかもしれないと考えとロイ・バッティから自分を守るためにもタイレルは最強の追跡者としてのレプリカント捜査官=ネクサス7型のリック・デッカードを送り込んだのではないか。ガフはお目付け役だった。だが、自分の仕事を取られる、人間臭いレプリカントを面白いなどと考え、あえて逃がしたか、タイレルの希望を叶えたのか。
リック・デッカードとKは重ねられている。
レプリカントでありながらレプリカントを殺す仕事、長い孤独、ホログラムが慰め・・・。
しかも、ウォレス製のレプリカントとしてラヴの兄妹でもあり、リックがレプリカントなら兄弟(兄妹)殺ししようとする(ロイ・バッティは弟リックを生かしたが親を殺した。Kは妹を殺したが親(精神的な親であるアナの祖父になるか)を救う)。
ロイ・バッティはリックがレプリカントなら、結果、自分が望んだ未来を救ったことになる。
デッカード、レイチェル、ガフ、タイレル社長にも言及されるが、2022年にデータが失われたため、ロイ・バッティたちにはいっさい言及されないが、映画的にはK自身がロイ・バッティの写し鏡になっている。
愛する人(ロイはプリス、Kはジョイ)を敵に殺され、殺すはずのデッカードを引き上げて助け、最後に雪の中で空を見上げて死んだ(はず)。
そして、最後のシーンには、前作のロイ・バッティが死んだときに曲『tears in rain』が流れている。
ロイ・バッティは空を仰いだ後、項垂れて死亡。
Kはリック・デッカードでありながら、ロイ・バッティである。そして、アナの分身でもある。
それでは、乾杯しよう。
なにに?
「他人に」
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(追記)
ステリン研究所でKがアナが会う時、ガラスに反射して、Kとアナがダブって見えるように画の効果を加えているが、あくまでもうっすらにしてあったり、Kの後ろや前に像が浮かぶようにすることでジョイと同じように思わせる効果によって、アナが娘では、という推測に向かないようにしてある。
『三度目の殺人』の最後の面会と同じ画面だが、Kが頭を下げたとき、その髪の黒い部分にアナが浮かぶようにしていることで、kの中にいるもの(記憶)がアナのものであると画で明快に示している。
難解にならないように、なんども重要な台詞や記憶をフラッシュバックさせている。これが一度だと陳腐な技法になるところを記憶の物語であること、思い出すたびにKが変化していくこと、先行オーバーボイスで心理テストを重ねる編集技法によって、じょじょに物語に馴染ませている。
あの人々の喧騒が、引いた視線で思いを乗せると、大勢のジョイ(携帯装置として)が歩いているのが見えてくる。街中で起動させる人はあまりいないのだろう。
ソーラー発電装置や畑、街を電子基板のように見せている。
左右に同じ光を走らせる構図や一見街に見えない引きの画もそれを意識させているようだ。
サッパーが解任された時からフレイザはレイチェルの奇跡を使って、Kをつけさせている。
軍隊を作る仲間を増やすためだろう。
ネクサス9型は、その特性上、彼らの仲間にいままでいなかったのではないか。
そう考えるとレプリカント同士で差別し合っている構図が見える。
サッパーも新型はクソみたいな仕事をしていると言っているように。
人間の悪い点(レプリカントをスキンジョブやスキナーと差別する)においても、旧型は身に着けたのだと見せており、そういう意味ではKは境界線に立たされてる。
人間⇔旧型⇔新型の関係で。
そして、差別をしない人間型のAIを描く。
今作はリック・デッカードはレプリカントとして描いているようだ。
ラヴたちが隠れ家に乗り込んできたときに人間は呼吸補助装置をつけている。
あの犬もつけてないことから、あれも合成犬と見ていいのではないか。
橋の上でKを誘う巨大ジョイ看板はなぜ眼が全体に黒いのか?
法規定でもあるのか?
(再追記)
今作は『1984』も意識されているのではないかと。
1983年のアップルの広告と1984年版の映画の両方。
前者はリドリー・スコットが監督で、後者はロジャー・ディーキンスが撮影です。
『2049』のタイトルもそこに目配せした可能性高いと思うのです。
Kは、フィリップ・K・ディックのKと言われていますが、ジョーはジョージ・オーウェルかもしれない。
巨大な像や画像はまさにビッグブラザーを感じさせますし、LUVは、Ministry of Loveなんじゃないかなと。
今作は、逆に、ビッグブラザーから「I LOVE YOU」と言われる辺りも。
原作の反抗の部分だけをリドリー・スコットは広告で映像化しましたが、映画『1984』では主人公はビッグブラザーに取り込まれます。今作は『1984』の前と先を描いているともいえるのではないでしょうか。だから、混沌ではなく整然が支配している。
それと、撮影のロジャー・ディーキンスはウィリアム・ターナーをよく引用するので、そのせいでモヤっているんじゃないかと。
最近ネットで発見したネタ。
デッカードの隠れ家匂いてある気の彫刻。
サイ、カモシカ、猫、馬、ゾウ、ライオンが並べて置いてある。
この動物の頭文字を並べると”レイチェル”になる。
サイ(Rhinoceros)、カモシカ(Antelope)、猫(Cat)、馬(Horse)、ゾウ(Elephant)、ライオン(Lion)で、レイチェル(RACHEL)になる。
デッカードはレイチェルのために作ったのかも。
アナの偽名のStelline(ステリーネ)は、イタリア語だと古代ミラノの孤児院の名前。
Stellina(スタリーナ)だと星になる。
種馬は、英語で、Stallionで、微妙に違う。
『ブレードランナー2049』のビジュアルは、原作の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の、「(物語内の世界は世界最終戦争後で)大気は放射能を帯びた埃に満ちている」とあるので、それを取り入れたものでもあるのだろう。
『ブレードランナー』では雨でしかできなかった原作世界感を取り戻してもいるといえる。
そして、『ブレードランナー2049』は放射線のように見えないものを見せるビジュアルにしていると見受けられる。
街を歩く人の胸にはジョイが入っているのが透視できると孤独という放射線が見える。
人間同士のつながりがわずかにしか出てこない。主従の関係ばかりが出てくる。『ブレードランナー』ではタイレル社長の娘への思い、リック・デッカードのレイチェルへの思い、ロイ・バッティとプリシラ・ストラットンのつながりがあった。
今作では皆無だからこそ、親子のつながりを繋ごうとする価値のあるモノと思い、Kは命を懸けた。
今作の不評の一因には、前作のハードボイルドで男が真似したくなるリック・デッカードやロイ・バッティが、女性(ジョシとラヴ)に移されているからかもしれない。
ドゥニ・ヴィルヌーブの作風には、女の格好良さ、というのもあり、相対的に男のダメな部分を描くわけで。そのダメさが深いため、男性にとって、痛々しく、魅力的ではないと感じてしまうのではないかと。
ハードボイルドに描かれる男のダメな部分は男が憧れるダメさだから。
最近AIとかコネクティッドカーとかの仕事が続き、「エイリアン」や「ブレードランナー」の新作を見ると20世紀的な人工知能の捉え方に違和感を感じます。AIはクラウドで最初から繋がっているんだから相手がわからないっていう感覚がないはずです。っていうかそこの認識が人間と根本的に違う。そういう意味ではスパイク・ジョーンズの「Her」が今の現実に近い。
その前提で「ブレードランナー」の新作を見ると、美しい映像の中で、あまりに人間的なライアン・ゴスリングのKが一体なにのメタファーなのか分からなくなる感覚を感じます。
その分からなさが、とてもブレードランナー的とも言えますね。
よくぞここまで、ブレードランナー的な続編を作ってくれたと感じ入りました。完成度はオリジナル以上だと思います。もちろん世界を変えるインパクトはオリジナルには勝てないでしょうが。
「いらっしゃいいらっしゃい。なんしましょうか?」
「ブレードランナー味わう会、4回」
「二つで十分ですよ」
「ノー、2、2、4回」
「二つで十分ですよ」
てなことで、こんど語りましょう。
まさに、味わいがいがある映画でした!
AIにもネットにつながっているタイプとスタンドアローンのタイプがありますから。
しかし、人間は本当にスタンドアローンなのか?
ヒューマノイドは群れの羊の夢を見るのか?
月末が楽しみです!!