菱沼康介の、丸い卵も切りよで四角。

日々の悶々を、はらはらほろほろ。

移動する棺桶の中で、何度も死んでは蘇る。 『ホーリー・モーターズ』

2013年05月08日 00時00分01秒 | 映画(公開映画)
で、ロードショーでは、どうでしょう? 第422回。


「なんか最近面白い映画観た?」
「ああ、観た観た。ここんトコで、面白かったのは・・・」







『ホーリー・モーターズ』








レオス・カラックスの長編としては13年ぶりの作品。



ドニ・ラヴァンとのコンビの相性の良さが映画を支配する。

ドニ・ラヴァンとはアレックス三部作と言われる傑作をものにしているが、今作では、役名はオスカーになっている。
レオス・カラックスの本名はアレックス・オスカー・デュポン。
Leos・Caraxはoscar・alexのアナグラムになっている。
つまり、どちらもレオス・カラックスの写身。


そして、エディット・スコブ、エヴァ・メンデス、カイリー・ミノーグ、エリーズ・ロモー、ミシェル・ピッコリなど。
レオス・カラックス自身も出演している。




編集は、レオスの右腕のネリー・ケティエ。



撮影は、カロリーヌ・シャンプティエとイヴ・カペ。
カロリーヌ・シャンプティエは『メルド!』でも組んでいる。

REDエピックによるデジタル撮影での撮影。



抽象的ストーリーはSFであると監督自身が公言している。
原題は、抽象的世界が、サイエンス・フィクションになりえる時代なのだとも言える。



ドニ・ラヴァンの肉体の動き、俳優という仕事と人生の断片をモーション(動き)ピクチャー=映画にする試み。
ドニ・ラヴァンはパントマイムや肉体パフォーマンスを学び、見せてきた人もでもある。
年齢によって刻まれた肉体性とメイクアップによる虚構性が、内側で輝く意識へと向かわせる。
意識を探ろうとすればするほど、その外側に現れる行為に目を凝らすことになる。
声もまた表に現れた行動である。
意識と行動は不可分であり、どちらだけが存在することはない。
相互の作用の中に存在する。


時折、挿入されるエチエンヌ=ジュール・マレイの連続写真(クロノフォトグラフィ)に映るものの意識に目は向かない、ただ運動だと目はとえる。撮影者の意識はどうとらえるか?
ところが、静止したカラー写真には意識の前に知識に向かう。
そして、撮影者の意識に向かうのではなかろうか?


音楽の良さもその意識への視線を導くように耳を刺激する。
ドニ・ラヴァンのアコーディオン演奏シーンと、カイリー・ミノーグによる生録音の歌のシーンは素晴らしい。



イメージを広げて、脳みそに刺激を与える映画らしさを味わえる映画。



















おまけ。

『8 1/2』のような印象もある。
レオス・カラックスのよる長編は5作目だが。


多くの映画的記憶と暗喩に満ちている。

映画は反応しない映画館の観客で幕を開ける。
映画館の裏の寝室で目を覚ますのはレオス・カラックス自身だ。
黒い犬はフランスでは死を意味するそう。
レオス・カラックス自身の作品、『汚れた血』の咳、『ポンヌフの恋人』の過去、『メルド!』の再登場として引用される。
『美女と野獣』、『キングコング』のように振舞うメルドのテーマ曲はゴジラである。
レオス・カラックス自身も出演しているハーモニー・コリンの『ミスター・ロンリー』。
杖の老婆には『街の灯』のイメージも。
エディット・スコブは、『顔のない眼』でかぶった仮面を、もう一度かぶる。


麻薬の売人を殺し、その相手になりきったとき、その死はコピーされる。
実際の死と死んだふり。
映画であるからには、どちらもまた死んだふりだが。
見る者は違いを意識する。
実際の死は演じることができない。
だから、死を知ることはできない。





MOTORは、フランスの映画用語で、「カメラを回転せよ」という撮影の際の掛け声だそう。
(もちろん、英語でもフランス語でも車の意味を持つ)
アメリカでは「ROLLING」と言い、最後に車たちが話す「ROLLING STONE」ともかかっている。
(「アクション」の意味で使うのかもしれない)


つまり、『HOLY MOTORS』は『聖なる映画撮影の数々』とも訳せる。
だが、映画に映る看板の文字のHOLY MOTORSの最後の「O」は半分消えかけている。
それは、MOTRSに見間違えさせようということなのか?
フランス語で死者は「MORT」。


「映画は死者を撮す芸術」とも言われる。
「映画は働く死者を写す」という言葉もある。
映画はもっとも死を意識させるメディアだ。
同時に、反語としての生も意識させる。
死を真の意味で知ることができる生者はいない。
多くの物語は、死を疑似体験させる。
ドニ・ラヴァンが演じる11人の役柄は、生と死を繰り返す。



レオス・カラックスは今作を「自分自身であることへの疲労」と「新たに自分を作り出す必要」と答えている。
ある意味では、「生きることへの疲れ」=死への憧れ、「新たに生まれること」=再生ととれる。

鍵になった中指は扉のない鍵穴に差し込まれ、開けられた壁は映画館へとつながっていく。
これは夢だろうか?
それとも映画だろうか?




映画は、運動をカメラで記録し、つなぎ合わせ、スクリーンで上映するメディア。
映画は、運動と見ること、つまり内面と外面を分ける行為とも言える。
体と魂に分かれる。
つまり、幽体離脱とも言える。
「私とは何者か?」へと届かせる。
答えは、それぞれの中にある。








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