さて、誕生日など記念日恒例となった、灯りが消えるまでも27回目です。
以前、映画では、人のスーパークローズアップはあまり好まれなかった。
特殊な技法とされ、人によってはTV技法と揶揄する方もいた。
それでもあえて、それにこだわる作家もいた。セルジオ・レオーネ、リュック・ベッソン、ウォン・カーワァイ、ダーレン・アロノフスキーなどなど。
だが、デジタルカメラの発展で2010年代から、人の顔をスーパークローズアップで見せるということこそ映画ならではのもっとも身近で新に見せられる世界として見つけられた節がある。
アンソニー・ドッド・マントルがその旗手で、『127時間』、『ラッシュ/プライドと友情』などで取り組み続けた。
早いところではカイル・クーパーが『セブン』のタイトルバックで取り入れていた。
そして、10年代末に『ファースト・マン』ではリヌス・サンドグレンがそれをさらに先に進めた。
もはや当たり前の技法になりつつあって、『サムライマラソン』はスーパークローズアップで始まるし、『THE GUILTY/ギルティ』は半分はこのスーパークローズアップで構成されている。
これは似た題材である『[リミット]』(2010)との撮影方法の違いを比べればよくわかる。より狭い『[リミット]』の方が広く撮影されているほどだ。
つまり、それは、観客を逆顕微鏡状態にする。対象をレンズで拡大ではなく、実際に大きくすることで見えなかったものを見えるようにする。
テレビ画面に近づいて見るのやホームシアターでは所詮数倍に過ぎない、数十倍の世界はきちんとした映画館のスクリーンにしかないのだ。
それは観客の感覚器官を能力を上げるということでもある。
マイクで収音され拡大された音を聴くこともそれにつながる。こちらは耳だ。
これは家庭でも出来るだろう。けど、現実では録れない音ならどうだろう?
ウイルスが移動する音やあの子の脳の中の電気信号の音とかね。
そして、大きな場所で大きな音を多くの場所から出てるいるのを浴びるのは音浴と言えるだろう。音楽のライブとかまさにそうだろうが、映画で浴びるのは人の声や環境音だ。
耳と目の両方が大きくなることに加えて、大きな空間に体を置くことで感覚が広がることは一つの器官を広げるのとはだいぶ意味が違うはず。
しかも、たくさんの人と見ることで、感覚器の数も増える(という状況的意識を持てる)。
今後は、VR機器やARによって、家庭でも可能になるかもしれない。それでも、広い場所を体で理解するということの感覚器の広がりはなかなか難しいだろう。
Wikiから引用すると、バーチャル・リアリティ(virtual reality)は、現物・実物(オリジナル)ではないが機能としての本質は同じであるような環境を、ユーザの五感を含む感覚を刺激することにより理工学的に作り出す技術およびその体系。略語としてVRとも。日本語では「人工現実」とも。
ARとは「Augmented Reality」の略で、一般的に「拡張現実」と訳される。実在する風景にバーチャルの視覚情報を重ねて表示することで、目の前にある世界を“仮想的に拡張する”というものだ。
なら、映画館で映画を見ることは「拡張自分」なのよ。
灯りが消えた、さぁ、自分を拡張する時間が来たぞ、っと。