菱沼康介の、丸い卵も切りよで四角。

日々の悶々を、はらはらほろほろ。

“破家”とも書く。

2010年02月06日 00時00分12秒 | 映画のあれこれ
テレビの作り方の一つに、[小学5年生でも分かるように]というのがあるそうだ。

子供に教えるように、懇切丁寧に説明をするということらしい。


政治家と教師の心構えを言う言葉がある。
「政治家は、すべての者が馬鹿だ、と考えて接しよ。
教師は、すべての者が馬鹿ではない、と考えて接しよ」


同じ、小学5年生を相手にするのでも、相手が馬鹿だと考えて接するのと、馬鹿ではない、と考えて接するのではまるで違うはず。



“馬鹿”の語源は、サンスクリット語の“baka”で、無知、迷妄の意味。
その音に当て字したものだという説が有力。
元は、“莫迦(ばくか)”“慕何(ぼか)”から転じたとのこと。
“馬鹿”は鎌倉時代頃から使われはじめた。
室町時代中期頃には“母嫁”、“馬嫁”、“破家”と当てられていたそう。



こう考えると、もともとは無知や迷妄(物事の道理を知らないこと。心が迷っていること)を指すなら誰もが“馬鹿”の時期があるといえる。
そう、誰もが子供であったように。
そして、時を経れば、否が応でも、大人になる。


そういう意味では、教師と政治家の言葉は、時間を現しているのだとも言えるんだな。
誰もが初めての年を迎えるのだから、その無知や迷妄に、いつでも臨機応変に対処し続け今を作る政治家と、現在、無知、迷妄でもいづれ大人になる未来を見据えて教える教師ということだ。



映像の物語は、果たして、どちらに向かっているか。


“馬鹿”と言うヤツが“馬鹿”とも言うが、相手を自分の基準でしか計れないから、その了見や思考の狭さのことをそう言うことが出来るのだろう。

昔から、ヨーロッパでは、あえてバカから観た視点で当たる物語なんてのもある。
“聖なる愚者”、“丘の上の愚者(フール・オン・ザ・ヒル)”なんて言われたりね。


日本では、“オバカ”映画とか、オバカ・コメディなんていう、“バカ”に接頭語の“お”をつけたものもありますよね。
“お”をつけて、バカをおしゃれ風にしてしまうセンスは、賢しささえ感じますが。



バカには、釣りバカみたいに、“そのことしか考えられない”を指すのもありますね。

あと、“バカになる”で、“機械などが動かなくなる”ことを表現出来ます。




 

で、これは書いていて、思いついた言葉。

[馬鹿とは付き合えるが、馬鹿にする人とは付き合えない]

自戒も込めて。









 


 


おまけ。
そう考えると、自分を馬鹿と言うのはどうだろうか?
政治家として言っている?
教師として言っている?



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