で、ロードショーでは、どうでしょう? 第537回。
「なんか最近面白い映画観た?」
「ああ、観た観た。ここんトコで、面白かったのは・・・」
『愛の渦』
裏風俗店の乱交パーティに集った男女8人が、体は裸になりつつも心は幾重にも覆いつつ、性行為の快感にふけり、性行為に伴う感情に翻弄される様を滑稽かつ悲哀を交えて描き出す艶笑悲劇。
人気劇作家・三浦大輔が、自身の率いる劇団ユニット“ポツドール”の代表作にして第50回岸田國士戯曲賞に輝いた同名舞台劇を、自ら、映画用に脚色し、監督として、映画化。
なので、クレジットは、監督・原作・脚本。
これを描き語る度胸もすべては役者の生の肉体あってこそ輝くというもの。
それに応えたのは、池松壮亮と門脇麦。
特にCMなどでもちらほら活躍している門脇麦の根性は目を惹く。
もちろん、根性だけでいいんだったら裸を売りにしている女優などそれこそ山のようにいるわけだ。
だが、彼女のどこか恐れとそれをフッきた演技には一目も二目も注目させられる。
特に手負いの獣の咆哮のような喘ぎ、絞り出された発言の声は、まさに出色。
体当たりの女優陣は、 中村映里子、三津谷葉子、赤澤セリ、信江勇。
男衆は、新井浩文、滝藤賢一、駒木根隆介、柄本時生。
ほかに、窪塚洋介と田中哲司。
着衣時間18分などという下衆なコピーも下心を刺激して悪くないが、実際映画観ると、ほとんどバスタオルを身につけている。
それって、ほとんど着衣だよね。
裸のシーンもきっちりあるがゆえに、そこの過大広告には、この作品の石化雨の描きdしたことを貶めた気はしたが。
きっちりと捉えるべきものをうレームに治める撮影は早坂伸。
独特の証明とのころばおレーションが室内劇を浮き立たせている。
照明は、神谷信人。
三層のマンションで異世界に変えた美術は、露木恵美子。
感情の機微を逃がさない編集は、堀善介。
キャスティングは、おおずさわこ。
絞られた音楽は、海田庄吾。
音楽プロデューサーは、津島玄一。
音楽に勝るとも劣らない囁きと喘ぎを焼き付けた録音は、永口靖。
矮小化された人間の姿を描くことで、逆説的に愛しさも感じさせる。
そこには大胆に見えてまろやかな語りの技が光る。
重喜劇とか、シリアスコメディとか、ドラメディとか重めのコメディにはいくつk名前がついているが、今作は言うなれば、ドライコメディ。
みんな濡れまくってるのに、乾きまくってるんですもの。
表現者の心意気でまざまざと見せつけてくるので、観客の心もまな板に載せられる刺激的な一本。
おまけ。
ネタバレ。
ただ、映像がゆえに気になってくるのは、なんでこの人たちはみんなバスタオルをつけているのだろうということ。
舞台の生の鑑賞においては観る側の助けになるから歓迎さえされるだろう裸体を隠す行為。
しかし、映像で例えばAVや普段の性生活において、そこまで隠さない。
ある種の語りの上でルールとして受け入れているだけだ。
それとも、彼女とやるときも、みんな隠しているの?
少なくても、オイラが付き合った相手で隠していた相手はいなかった。
リサーチしても、ほぼいない。
まぁゼロではないが。
暗くなきゃできないって人がいるしね。
西洋でシーツを体に巻くのは実際にしてるのもしれないけど、わからない。
少なくとも、赤裸々にしたが、ゆえに違和感が生まれてもいる。
性器を露出できないのは分かるし、モザイクやボカシは冷めるしね。
たぶん、それは映像の距離感という恐ろしい機能があるがゆえに。
見ている側は冷酷だ。
まぁ、マクルーハン的に言えば、映像は冷たいメディアなのだ。
それに、そういうリアルやエロスは狙いではないのだろう。
セックスの快感より痛みやそれに伴ってくる厄介なものこそが扱われているのはビンビン伝わってくる。
なぜそれに触れたのかといえば、なるべくバスタオルを写さないようにしている構図が選ばれているので、意識はあったのだと思う。
素っ裸で、大事な部分がうまく隠されているのはカメラとの関係で気にならない。
(花と花瓶で隠すのは、笑ってしまうだろうけど)
海外の映画に見慣れてしまっているからかもしれない。
なにしろ、洋画には、ディープな性的要素を赤裸々に物語に組み込んだ作品がかなり作られている。
ぶち兄もあるんだと想像に難くない。
でも、舞台のそれを日本で感激することは、そうそうない。
翻訳された日本人によるに舞台はあるにしろ。
映像においては、競争相手は世界中にいる。
同時期公開中の『ウルフ・オブ・ウォールストリート』は裸もコケきさも山盛りにして、セックスにもドラッグにも金にさえ、何もないことを見せている。
『ドン・ジョン』なんていうポルノ中毒のコメディまである。
近年のものだけでも『ショートバス』、『9ソングス』、『セッションズ』、『アンチ・クライスト』、『セルビアン・フィルム』、『ブギーナイツ』、『ブロークバック・マウンテン』、『ペーパーボーイ』、『恋するリベラーチェ』、『クラッシュ』などの性的な行為をあけすけ堂々と描いた作品は多々ある。
とはいえ、それを現代日本でやったことは評価に値するし、描写確かさは承知の上なんですけどね。
事実、舞台の方は世界でも招待されて上演されているそうだから。
なにしろ、現代、日本でメジャーな作品、メジャーなキャストを脱がせること、見づらいものを映画で表現するのがどれだけ大変なことか。
そこは尊敬に値する。
昔のおおらかな日本映画にけっこうあったんだけどね。
ロマンポルノなんてもあったわけだし。
今や旬の女優がパンツや背中を見せているだけで騒がれるんだから。
そして、性的なものを語れば、その人自身が露呈するというブーメランがあるしね。
この映画見て、チンコ立った、立たなかったと話すことが自分をさらけ出すことにもなる。
ただ、おいらは2回反応してしまった。
榎本時生に言われて、三津谷葉子がシャワーを浴びに行くシーンと榎本時生が門脇麦に唇を近づけるも微妙に避けて、胸を揉むシーンで。
乳首とバストトップと書くかだけでもこっちの思考が透けて見えてしまう。
三津谷葉子は結局見えなかったなぁ、とか。
駒根木隆介のと信江勇の胸は映像上はほとんど同じものだなぁ、とか。
そもそも、映像では、裸は妙に冷静に見てしまうものだから。
ただ、美術館で裸婦像見て、性的には興奮しないようなもので。
いや、そういう性癖の方は、性的にも興奮するのかもしれない。
エゴン・シ-レの絵にはちょっと性的な心拍数の上昇を感じるもの。
おいらも、圧倒的な美人よりも、ちょいカワぐらいの方が興奮したりする。
あmぁ美人が乱れて、我を忘れている姿は同様なのだが。
そういった隠されたものを表現者側にここまでされたからには、と視聴者側にも剥ぎ取らせる効果、観たあとに話題を提供させるだけでも、この映画は素晴らしい。
セックスが気持ちよさそうじゃないのも狙いだろうしね、きっと。
だって、八人もいてあの程度の性描写ってことは、よほどソフトに描いたのでしょう。
この作品も『完全なる飼育』、『ジョゼと虎と魚たち』、『ヴァイブレータ』、『血と骨』、『ベロニカは死ぬことにした』、『蛇にピアス』、『さよなら、みどりちゃん』、『ノン子36歳 (家事手伝い)』、などがつないできた、裸も表現の一部としての機能させるだけ、という流れは今作にもつながれているんだろうね。
『キャタピラー』、『共喰い』、『ヘルタースケルター』、『私の奴隷になりなさい』と近年、増えてきているしね。
まぁ、それしか話題にできないゲスさもあわせて、日本の表現の世界なんじゃないかと思ったり。
『アバウト・シュミット』、『ライフ・イズ・スイート』、『イースタン・プロミス』、『セレブレーション』、『ブロークン・フラワーズ』、『ひかりのまち』、『ブラックブック』、『キャンディマン』、『ラブ&ドラッグ』、『エイリアン』、『ソードフィッシュ』、『メランコリア』、『マーゴット・ウェディング』、『インポッシブル』、『復讐者に憐れみを』、『ソマリア』、『ドミノ』、『天使の涙』、『お葬式』、『カンゾー先生』、『青春の殺人者』、『肉弾』、『転校生』なんかのさらっと赤裸々かつ大らかに裸や性的なことを表現に使うあの感じに賛同する表現者としては、どこか泥臭くは感じてしまったのでした。
まるで、食事とかと同じ、生活の営み、当たり前のことでしょって、あんな感じに描ける作品の洒脱に比べるとね。
まぁ、その今作では、その人間の矮小さこそが題材なのもわかった上で。
最近だと『中学生丸山』のオナニー描写の方がまだ突き抜けていたと思ったりする。
それをメジャー作品で、堂々と打ち出す作家としての強靭さというかね。
女性同士でセックスの話は出来ても、オナニーの話はあまりしないそうだと聞いたことがある。
男はどちらもあまりタブーではない。
そこそこのアブノーマルな話も披露し合うことも少なくない。
最後の赤澤セリの喘ぎが相手へのサービスだとしたら、優しさを感じるよね。
実際に成長したことよりも、彼が常連になる可能性をつくるサービスという理由があるから。
門脇麦の最初の喘ぎに「先輩」て音が聞こえたのだが、空耳かしら?
カップルの登場シーンは、少々強引さが目立った。
あれを省いて、もっとタイトにしても良かった。
それか、揉めているところに、遅刻参加の方が来ましたと無理やり入れた方がしっくり行ったのではないか?
気になったのは、あの娘がわざわざ相手を呼び出して会って、番号を消して欲しい、と言うかね?
相手の番号をブロックすればいいだけじゃん。
理由を伝えたきゃ、ショートメールで理由を説明すればいい。
そして、しれっと電話番号を変えればいい。
電話番号を変えました、アドレス変えましたなんて、お知らせしょっちゅう来る。
男を知らないから、恐れも知らない?
実は、あの場も本当に自分ではない?
それとも、話す直前までは、少しは気持ちもあったのか?
どこか、舞台的なドラマチックに酔ってしまったようにも受け取れる。
ただ、作為が表に出ていることは、メッセージをメッセージとして伝えやすくする機能もあるしね。
なにより、ハッピーエンドにしなかったことは大いに評価したい。
芝居に関しては嫉妬するほどの細やかさだった。
セックスシーンをドライに描くのは、オイラも演出で何度かやっていて、コントロールしやすいのよね。
だから、どうやったら、もっとウェットに描けるのか、と悩んでいるところでもあるのよね。
『9ソングス』の同じ相手とのセックスなのに、ウェットだったり、ドライだったり、ポエジーだったり、トラジディだったり、ってのを見せられてしまったんで、本当に恐れ入るしかないのです。
ここにはなにもないというが、なんのしがらみもなく、快感だけがあることは救いだとも思う。
なぜなら、人には生活があり、そこから逃げたいと思いつつ、帰りたいと思うのだから。
オナニーで出た精子すら邪魔なのに。
なにもないようで、何かがある。
それは映画もまた同じ。
娯楽作からなに顔をもらおうなんて思ってやしない。
その場限りの残らない会館こそを求めて映画に行く。
ただ欲張りで、勝手だから、なにか生み出したり、お土産を求めてしまうだけのことだ。
でも、金払った分くらいは、求めてもいいよね。
あそこの部屋で過ごすために、男は生活の苦しみから逃れて、罪悪感とともに金を払い、女は映画一本分くらいの金で快感を得たのだから。
性的なことには罪悪感がつきまとう。
しかも、罪悪感というやつは記憶に直結びつくもので、覚悟していった風俗の思い出などはなかなか薄れてくれない。
彼女との楽しかったセックスは十把一絡げの記憶になっても、あの金を払った一夜などというものはこびりついてしまうものだから。
なにもないはずなのに、記憶がべっとりと張りついてくる。
シールの跡のように。
面白くなかった映画を観て、人がやけに怒るように。
なにもないけど、それでもなにかが生まれて、いらないのに、なかなか消えてくれない。
思ったんですけどね。
恋の渦は見てますか?
店員、掃除してる時、スマホ持ってたし。
なんかの符牒?
でも、消させてますしね。
『恋の渦』はまだ未見です。
観たいですね。