昔、昭和初期を舞台にした映画で、助監督についていた時のこと。
セリフに「彼奴」とあった。
これ、なんと読むか?
「キャツ」、もしくは、「キヤツ」と読む。
これを「ヤツ」でもいいんじゃないか、で現場でもめたのだ。
この記事のタイトルに冠した『彼奴は顔役だ』は実際にある映画の題名。
このワープロソフトでも「キャツ」と打てば、「彼奴」と変換される。
ところが、現場の多くの人、そもそもそのセリフを読む女優がそんな言葉は知らないと言い出した。
この言葉は存在するし、当時はそういう言い方もしていたはずだ。
だが、大勢の意見は、現代の人に伝わらないなら、別に「ヤツ」でいいのではないかだった。
監督は、言いづらければ変えていいと言った。
たしかに「ヤツ」もつ買っていたのだから、そこで止まるべきではないと判断したのであろう。
だが、あえて、こういう言葉を入れることで、時代背景も現れてくるものだと、おいらは主張した。
美術だけでなく、仕草、口調にこそ時代感は現れる、と。
結局、大勢に負け、セリフは「ヤツ」になった。
どちらが間違いということではない。
いい易さも大事だし、現場の空気の流れも重要だ、それは演技に直結する。
現場の判断というものがある。
ただ、非常に口惜しかったと残っている。
これを思い出したのは、昨日の『もののけ姫』でアシタカがこの言葉をつかっていたから。
『もののけ姫』が時代劇(鎌倉時代以前)で言葉が難しくても受け入れやすかったのだろうし、前述の映画は昭和初期であったので現代的にしたかったのだろうとは考えられる。
だが、なにより、監督に言葉を愛おしむ気持ちがあったかどうかは、それを分けたと思う。
池波正太郎が、エッセイで書いていた。
ウロ覚えだが、江戸時代を舞台にした時代劇で、町娘が「そんな複雑なこと分からない」というセリフを聞いた時のことを。
二字熟語は明治に作られたものが多いし、当時の町娘が、あえて硬い言葉を使うのは現代的で奇妙に感じたそうだ。
同じ意味の言葉、たとえば「そんなこみいったこと分からない」などに言い換えればいいだけなのに、手を抜いた、としか思えない、と。
意味は変わらないが、それだけで物語の空気感というものが加えられる、と書いていた。
『もののけ姫』のセリフもよく聞くと二字熟語など硬い言葉(音読みと訓読みの違いなど)の使いどころに気を配っているのが分かる。
「天長」を「ミカド」と、エボシ御前が言い換えるなどがいい例だ。
現代人に伝えるために、すべてではなく、なるべくではあるが、侍やジゴ坊側は硬め硬めの言葉を使い、エボシたちは柔らかい言葉を使う。
貴賎の差も使い分けている。
だから、おいらはそういう言葉を大事にする演出家でありたいと願った。
さきのことを思い出し、その思いをいっそう強くした。
この文章を書き、思い出している、静かな場と時間では、意志はまるでダイヤのように強固なものとして語りえる。
しかし、現場のリアルタイムのうねる流れの中で意思を貫くためには、備えがいる。
知識がいる、技術がいる、経験がいる。
なにより、日々鍛えておいた精神力がいる。
助けになるのは、同様のことを成し遂げてくれた先人、なるたけ近しい、同時代の者の存在だ。
それだけでも、孤立、孤独は霧散する。
セリフに「彼奴」とあった。
これ、なんと読むか?
「キャツ」、もしくは、「キヤツ」と読む。
これを「ヤツ」でもいいんじゃないか、で現場でもめたのだ。
この記事のタイトルに冠した『彼奴は顔役だ』は実際にある映画の題名。
このワープロソフトでも「キャツ」と打てば、「彼奴」と変換される。
ところが、現場の多くの人、そもそもそのセリフを読む女優がそんな言葉は知らないと言い出した。
この言葉は存在するし、当時はそういう言い方もしていたはずだ。
だが、大勢の意見は、現代の人に伝わらないなら、別に「ヤツ」でいいのではないかだった。
監督は、言いづらければ変えていいと言った。
たしかに「ヤツ」もつ買っていたのだから、そこで止まるべきではないと判断したのであろう。
だが、あえて、こういう言葉を入れることで、時代背景も現れてくるものだと、おいらは主張した。
美術だけでなく、仕草、口調にこそ時代感は現れる、と。
結局、大勢に負け、セリフは「ヤツ」になった。
どちらが間違いということではない。
いい易さも大事だし、現場の空気の流れも重要だ、それは演技に直結する。
現場の判断というものがある。
ただ、非常に口惜しかったと残っている。
これを思い出したのは、昨日の『もののけ姫』でアシタカがこの言葉をつかっていたから。
『もののけ姫』が時代劇(鎌倉時代以前)で言葉が難しくても受け入れやすかったのだろうし、前述の映画は昭和初期であったので現代的にしたかったのだろうとは考えられる。
だが、なにより、監督に言葉を愛おしむ気持ちがあったかどうかは、それを分けたと思う。
池波正太郎が、エッセイで書いていた。
ウロ覚えだが、江戸時代を舞台にした時代劇で、町娘が「そんな複雑なこと分からない」というセリフを聞いた時のことを。
二字熟語は明治に作られたものが多いし、当時の町娘が、あえて硬い言葉を使うのは現代的で奇妙に感じたそうだ。
同じ意味の言葉、たとえば「そんなこみいったこと分からない」などに言い換えればいいだけなのに、手を抜いた、としか思えない、と。
意味は変わらないが、それだけで物語の空気感というものが加えられる、と書いていた。
『もののけ姫』のセリフもよく聞くと二字熟語など硬い言葉(音読みと訓読みの違いなど)の使いどころに気を配っているのが分かる。
「天長」を「ミカド」と、エボシ御前が言い換えるなどがいい例だ。
現代人に伝えるために、すべてではなく、なるべくではあるが、侍やジゴ坊側は硬め硬めの言葉を使い、エボシたちは柔らかい言葉を使う。
貴賎の差も使い分けている。
だから、おいらはそういう言葉を大事にする演出家でありたいと願った。
さきのことを思い出し、その思いをいっそう強くした。
この文章を書き、思い出している、静かな場と時間では、意志はまるでダイヤのように強固なものとして語りえる。
しかし、現場のリアルタイムのうねる流れの中で意思を貫くためには、備えがいる。
知識がいる、技術がいる、経験がいる。
なにより、日々鍛えておいた精神力がいる。
助けになるのは、同様のことを成し遂げてくれた先人、なるたけ近しい、同時代の者の存在だ。
それだけでも、孤立、孤独は霧散する。