在日コリアン・ハンセン病問題・沖縄―平和・人権―

自分の足で訪ねた関連の地紹介
知ることは力、学んでこそ生きる。

今年2月に大阪市発行・・・外島保養院のリーフレット&冊子

2017年12月19日 20時18分10秒 | Weblog
2004年9月に設立した「外島保養院の歴史をのこす会」も今年で4回目の総会を開きました。
今年2月には、のこす会メンバーが関わった冊子とリーフレットができました。
遅くなりましたが紹介します。

外島保養院の歴史をのこす会共同代表として
ハンセン病問題を考えるねっとワーク泉北の事務局として
これからの研修等に使われ、新たな調査が進むように願います
私も微力ながら頑張りたいとおもいます。



和歌山の那智勝浦&新宮への旅

2017年12月17日 21時37分32秒 | Weblog
今回、息子夫婦からプレゼントされた湯快リゾートの宿泊券を利用しての旅をしました
宿泊は紀伊勝浦駅近くの「越之湯」で、源泉かけ流しが気に入って泊まりました。
15日は、那智駅近くの「補陀洛山寺」へ行きました。
熊野古道を3カ月かけて歩いている73歳の大阪の男性に出会ったり、27年間、お寺をお守している瀬川さんの話を聞いたりでいい時間が持てました。
秘仏を特別に見せましょうと3人の為に開けてくれました。お蔭で優しい千手観音を目の前で見ることができました。
人間味あふれる仏像に見とれました。
しかし、生きながらにして南方の観音浄土を目指す補陀洛渡海。ここが全国の根拠地ですよと聞きました。井上靖の本を読んで、考えることは多かったです。
世界遺産で、熊野参詣曼荼羅(同寺院所蔵)にも渡海船が浜辺を出て行く様子が描かれています。見送る人々も。
1カ月分の食料と油を積み込んで伴船に曳かれて黒潮の海へ、木の箱に閉じ込められ、釘でうたれて、海に旅立っていく。

渡海した上人の名前が刻まれている

復元された渡海船

熊野古道(大辺路、中辺路、伊勢路)の振分石



夜は、湯快リゾートの越之湯でゆっくりして16日は朝9時には熊野速玉神社に到着、佐藤春夫記念館をゆっくり見て、近くにある大逆事件で死刑になった大石誠之助宅跡、川原家横丁。





それから鈴カステラで有名な香梅堂、新宮を愛し続けた中上健次生家跡、


大逆事件慰霊碑





、不老長寿の薬を求めて日本にやってきたが気に入って住み着いたという徐福、徐福公園は鮮やかで明るいのでのんびりしました。



泥炭でできた浮島の森も説明を聞いて自然にできた原生林を散策したが幸せな気分を味わった。浮島の周りを歩きましたが甲子園球場の半分とは大きい。

大逆事件で無期懲役となり秋田監獄で獄死した高木顕明の浄泉寺。


中上健次資料コーナーある図書館や、冤罪だった大逆事件で死刑になった庶民の味方大石誠之助のお墓には行けないで帰りました。
お土産は香梅堂の鈴カステラ、並んで買いました。近所の方が「本当においしいですよ」と教えてくれました。
皆さん、大量に買われていました。
往復無料高速を走ったので、費用はかからなかったけれど車は、ナビにない野や川の上を走り続けていました。
疲れたけれど、充実した2日間、初めての勝浦、新宮です。
何より、出会った方々、道を尋ねた方々、嫌な顔一つせず丁寧に教えてくださいました。

10月21日の第21回光明池現地学習会が台風の大雨の日に行われました

2017年12月06日 21時22分02秒 | Weblog
今年は、ファインプラザで行われたので、知人、友人がさらに広がって堺や大阪府内から20人以上の参加がありました。
光明池工事で犠牲になった朝鮮人労働者についてお話を聞きに何度も訪問した人たちが鬼籍に入り、聞いたものとしての責任をひしひしと感じています。
とにかくできることは、書き残すことでしょうか?
2003年8月に「和泉市における在日朝鮮人の歴史(戦前編)」を刊行してから14年、新たに判明した事実を総まとめする必要があります。
一緒に講演してくれる唯一の友人と相談して進めていきたいと考えています。
いつか、検索して次世代の人が目にしてくれるかもしれません。

台風襲来で大雨、今年は、慰霊碑にささげる花束を持って数人で光明池の堤防を歩きました。
全身ずぶ濡れの一日
亡くなった人たちの涙かもしれません。

過去に、和泉市、堺市公報、『和泉市史』にも掲載されましたが、今年、11月30日の『泉北コミュニテイー』に光明池工事で亡くなった朝鮮人労働者の慰霊碑が大きく掲載されました。

12月5日、現うるま市「宮森小学校Z機墜落事故」から58年・・・橿原市人教の研修会に協力しました

2017年12月06日 19時35分12秒 | Weblog
1959年6月30日、嘉手納基地を飛び立った米軍戦闘機が当時の石川市宮森小学校に墜落しました。
子どもたち11人、地域の住民6人が犠牲になりました。重軽傷を負った子は156人、全校生徒は1300人という学校でした。
さらに琉球大学4回生になって卒業前の青年が後遺症で亡くなりました。
パイロットは、パラシュートで脱出して無人でした。
宮森小学校には1965年に「仲良し地蔵」が建立されました。
毎年、鎮魂の集いがもたれています。
大阪に住む比嘉伸弘さんは、当時小学校3年生、ジェットのエンジンが突っ込んだ6年3組の下の教室でした。
家まで必死で逃げ帰った比嘉さんは、記憶がとび頭は真っ白。
2015年1月12日に亡くなった豊浜光輝先生が大阪へ証言行脚で来られた時に講演を聞き、60歳近くなってだんだん情景が思い出されてきています。
基地あるが故の被害です。 40年経って「戦闘機の整備不良だった」と新聞報道
1960年に11人の子どもたちは大阪城公園内にある「教育の塔」に合葬されました。(日本教職員組合が管理)

比嘉さんとは、15年前から和泉市で活動する「南風(フエーヌカジ)沖縄文化を伝える会」でご一緒してきました。
ギターリストです。
今では、生き残った者の責任として語り継がなければと話しておられます。
事件を映画にした「ひまわり」は、2013年に全国上映されました。比嘉さんと同じ3年生だった同級生が庭のひまわりを育てていました。
一輪の花を教室に持って入り、先生に差し出しました。先生は「とったらダメでしょう」と注意しました。「先生にあげようと思って」と言って教室を飛び出し、校庭に出た途端に戦闘機が墜落
トイレのコンクリート壁に吹き飛ばされ即死。先生は自分のひと言が死にいたらしたと悩み、50年経っても語ることができませんでした。しかし、勇気を出して証言しました。
『ひまわり』の本も出版されています。
証言集も3巻まで刊行されました。比嘉さんの証言も掲載されています。

今回は、万葉ホールで、「6・30」のDVD(証言)、比嘉さんの証言、比嘉さんを中心に平和ライブの企画でした。
会場いっぱいの参加者(教職員・PTA関係)が聞き入ってくれる2時間
研修第3部のライブは
「ていんさぐむ花」「芭蕉布」「花」「童神」「通い船」「黄金の花」「故郷」をウチナー口で唄いました。
歌の歴史的背景に少し触れる解説をいれました。

こちらも、いい時間をもらいました。
2001年から2008年まで読谷にアパートを借りて何度も通った沖縄です。
少し、住民に近い感性が私の中に芽生えているように思います。