ちょっぴり『老子』 ( 9 )
厳しすぎる
慈愛など、何処にもない
「天地不仁、以萬物為芻狗。聖人不仁、以百姓為芻狗」
少々難解な文字も含まれていますが、『老子』第五章の冒頭部分です。
「天地不仁、万物をもって芻狗(スウク)となす。聖人不仁、百姓(ヒャクセイ)をもって芻狗となす」と読まれています。
「仁」というのは、儒教などでは最高の徳と位置付けていますが、他人に対する愛情や思いやりを指します。仏教の慈愛も同じ感じなのでしょう。
「芻狗」というのは、わらで作った犬のことで、祭祀などで祭られた。
「百姓」というのは、農民ということではなく一般大衆を指す。
つまり、「天地 というものは、いわゆる仁などといった人間的な慈愛など持っていない。天地が万物と接するにあたっては、全く虚心であって、芻狗を扱うようなものである。『道』を会得した聖人も同様で、仁などという感情ではなく、芻狗に対するように全く虚心に民衆に対する」というのである。
なお、芻狗はわらで作った人形であるが、祭祀にあたっては美しく飾り立てるが、祭祀が終わると打ち棄てられてしまう。これは、人々が、わらの芻狗を特別愛していたわけでもなく、祭祀の後憎んで蹂躙しているわけでない。人々が、わらの芻狗に特別な感情を抱いていないのと同様である、ということらしいのです。
厳しすぎるようにも思う
おそらく、この部分も、為政者の在り方について述べているのだと思われるのですが、それにしても、『道』を体得した人間は、仁などという感情を超越しているのだといわれると、厳しすぎるというか、無味乾燥のような感じがしてしまいます。
もっとドロドロとしていてもいいので、温かみのある思想の方が、私などにはありがたいような気がするのですが。
こんなことを申し上げれば、きっと『老子』先生は、『道』の何たるかを少しでも理解できるようになれば、本当の仁とは何なのか、慈愛とは何なのかが見えてくるはずだよ、と言われるような気もします。
今少し、学んでいくことにしますか・・。
( 第五章より )
★ ★ ★
厳しすぎる
慈愛など、何処にもない
「天地不仁、以萬物為芻狗。聖人不仁、以百姓為芻狗」
少々難解な文字も含まれていますが、『老子』第五章の冒頭部分です。
「天地不仁、万物をもって芻狗(スウク)となす。聖人不仁、百姓(ヒャクセイ)をもって芻狗となす」と読まれています。
「仁」というのは、儒教などでは最高の徳と位置付けていますが、他人に対する愛情や思いやりを指します。仏教の慈愛も同じ感じなのでしょう。
「芻狗」というのは、わらで作った犬のことで、祭祀などで祭られた。
「百姓」というのは、農民ということではなく一般大衆を指す。
つまり、「天地 というものは、いわゆる仁などといった人間的な慈愛など持っていない。天地が万物と接するにあたっては、全く虚心であって、芻狗を扱うようなものである。『道』を会得した聖人も同様で、仁などという感情ではなく、芻狗に対するように全く虚心に民衆に対する」というのである。
なお、芻狗はわらで作った人形であるが、祭祀にあたっては美しく飾り立てるが、祭祀が終わると打ち棄てられてしまう。これは、人々が、わらの芻狗を特別愛していたわけでもなく、祭祀の後憎んで蹂躙しているわけでない。人々が、わらの芻狗に特別な感情を抱いていないのと同様である、ということらしいのです。
厳しすぎるようにも思う
おそらく、この部分も、為政者の在り方について述べているのだと思われるのですが、それにしても、『道』を体得した人間は、仁などという感情を超越しているのだといわれると、厳しすぎるというか、無味乾燥のような感じがしてしまいます。
もっとドロドロとしていてもいいので、温かみのある思想の方が、私などにはありがたいような気がするのですが。
こんなことを申し上げれば、きっと『老子』先生は、『道』の何たるかを少しでも理解できるようになれば、本当の仁とは何なのか、慈愛とは何なのかが見えてくるはずだよ、と言われるような気もします。
今少し、学んでいくことにしますか・・。
( 第五章より )
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