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歴史散策  古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 8 )

2017-12-31 08:44:58 | 歴史散策
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             古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 8 )

再び頂点へ

古代大伴氏を朝廷(大王家)の重臣として最高位まで導いた人物は、大伴室屋大連であったと考えられる。
その室屋が没したのは、おそらく清寧天皇二年(480)の事と推定される。
日本書紀には、清寧天皇二年二月の記事の後、次代の顕宗天皇、次次代の仁賢天皇の記事には大伴氏は登場しておらず、大伴氏の記事が次に見えるのは、その次の天皇である武烈天皇が即位する直前の騒乱を大伴金村連(オオトモノカナムラノムラジ)が鎮圧したとの記事である。西暦でいえば498年のことで、ほぼ十八年間の空白がある。

この記事で初めて登場する大伴金村連は、この時点ですでに天皇(この時点では皇太子)に頼りにされる武将としての存在感を持っていたのであろうが、室屋のような政権の中枢には居なかったようである。
金村の父は談(カタリ)であり、室屋は祖父にあたる。談は雄略天皇九年(465)に父に先立って朝鮮半島で戦死しており、室屋が没した時には、金村が後継者になったと考えられるが、長幼を重視する当時としては、いきなり政権の中枢に入ることは無理だったと考えられる。
金村の生没年は未詳であるが、談が父だとすれば(室屋を父とする説もある)、生年は465年より前ということになるが、それ以上の推測は出来ない。ただ、大胆に推定すれば、室屋が没した時点では、まだ二十歳前後の頃で、政権の中枢に上るにはまだ若過ぎたのであろう。

金村が日本書紀に最初に登場した時の記事は、
『 太子(ヒツギノミコ・即位前の武烈天皇)、はじめて鮪(シビ・平群真鳥大臣の息子)がかつて影媛と通じていたことを知り、父子ともに礼を欠いている状況を知り、顔を赤くして大いに怒った。その夜に、さっそく大伴金村連の家に行き、兵を集めて画策した。大伴連は、数千の兵を率いて、待ち伏せして、鮪を乃楽山(ナラヤマ・現奈良市内)で殺した。 』
というものである。
この事件に至る経緯を概略すれば、前天皇(仁賢天皇)が崩御し、皇太子である小泊瀬稚鷦鷯尊(オハツセワカサザキノミコト・武烈天皇)が即位するにあたって、大臣(オオオミ)である平群真鳥臣(ヘグリノマトリノオミ)が国政をほしいままにして、自分が王となろうとして、皇太子の為と偽って宮殿を造り、完成すると自分が入居した。全てのことに驕慢で、臣下としての礼を尽くすことがなかった。
その上に、皇太子が物部麁鹿火大連(モノノベノアラカヒノオオムラジ)の娘である影媛(カゲヒメ)を娶ろうと思って、仲介人を遣わして会うことを約束した。ところが、影媛は以前に平群真鳥大臣の息子鮪に姧(オカ)されていた。そのため、影媛の意思もあってか会う場所を特定し、真鳥大臣も邪魔をしたが、皇太子は約束の場所に行って影媛と会ったが、鮪もやって来て、皇太子との間で歌での争いとなり、その結果、皇太子は影媛と鮪との関係を知り、鮪を誅罰することになる。

武烈天皇も何かと悪評の高い天皇だったとされているが、この事件も、皇太子の立場を利用して、影媛を奪い取ろうとしたように思われる。鮪が殺された後、影媛が嘆き悲しむ歌が載せられているのを見るとその感が強い。
しかし、同時に、国政の実権を握っていた平群真鳥・鮪親子の横暴を鎮圧するための手段であった可能性も捨てきれない。そして何よりも、大伴室屋の死によって朝廷の最高位からは遠ざかったとはいえ、大伴氏が依然大王家(天皇家)の親衛隊的な立場にあり、しかも強大な軍事力を有していることが分かる記事である。

この後、大伴金村連は、皇太子に、「真鳥という賊徒をお撃ちください。ご命令があれば討ちましょう」と申し上げている。
これに対して皇太子は、「天下は乱れようとしている。希世の勇者でなければ、救うことは出来ない。これを平定することが出来るのは、お前しかあるまい」と言って、さっそく二人で計略を決めた。
そこで大伴金村連は軍平を率いて、自ら大将となって平群真鳥大臣の屋敷を囲み、火を放って焼いた。大将の指揮に全軍が従った。真鳥大臣はかねてからの野望が果たされないことを恨んだが、すでに逃れる術のないことを知り、呪詛するも遂に殺され、断罪はその親族にまで及んだ。

大伴金村連は、賊徒を平定し終わると、政(マツリゴト)を皇太子に奉還して、尊号を奉りたいと申し出て、「今は前天皇の皇子は陛下だけでございます。億兆の人民の依るところは、二つはありません。また、天の加護を受けて、賊徒を討伐しました。英略勇断によって、天子の威光を盛んにされました。日本(ヤマト)には必ず君主がおられます。日本の君主は陛下でなくて誰がおりましょうか。伏して願いますのは、陛下は天霊地祇を仰いで、それにお答えになって、天命を世に広め、日本を統治して、銀郷(ギンキョウ・朝鮮諸国を指す)をお受けください』と申し上げた。
ここに皇太子は、役人に命じて即位の場を設けさせて即位した。武烈天皇の誕生である。
その日に、大伴金村連を大連に任命した。大伴氏が、再び政権の頂点に立ったのである。

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