雅工房 作品集

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運命紀行  業平の母

2014-02-14 08:00:54 | 運命紀行
          運命紀行
               業平の母

古今和歌集は、醍醐天皇の詔により編纂された和歌集で、最初の勅撰和歌集である。
これに先立つ歌集としては、万葉集という大きな存在があるが、古今和歌集も、この後に、八代集ともいわれる勅撰和歌集を次々と誕生させているのに影響を与えていることは確かであるし、枕草子や源氏物語などにも示されているように、後世の文学や教養に大きな影響を与えてきたことは確かであろう。
古今和歌集に対して、その文学的な価値について、とかくの評価がなされることもあるが、その大きな原因の一つは、近世のある歌人の古今和歌集に対する罵詈雑言と言いたくなるような発言が影響しているらしい。その歌人が、どれほどの人物かよく知らないが、そのような人物程度の発言で確固たる古典に汚点が付けられているとすれば誠に残念である。

もちろん、時の天皇の命により、近臣の公卿や歌人たちが中心として編纂された歌集であるから、その選定や編纂に偏りがあることは否めない。
例えば、数え方にもよるが、古今和歌集に収められている和歌の数は1111首とされている。
それを作者別にみてみると、その偏り方は相当にひどい。もっともそれは、古今和歌集に限ったことではなく、他の勅撰和歌集や万葉集にも言えることではある。

入集されている和歌の数が多い順に並べてみると、
  紀貫之 102首   凡河内躬恒 60首  紀友則 46首  壬生忠岑 36首
  素性法師 36首   在原業平  30首  伊勢  22首
が、上位七人である。
このうち上位の四人は古今和歌集の撰者であるが、この四人だけで全体の二割以上を占めているのである。古今和歌集には、読み人知らずとなっている和歌が四割ほどを占めていることも考え合わせれば、都に知られた著名な歌人は採録されているとしても、広く優れた歌人を求めたかどうかについては疑問が残る。
編纂にかかわった人物の和歌が多く採録されていることは、当然とも、依怙贔屓ともいえるが、それはともかく、それ以外の人物で多くの和歌が採録されているのは、当時としては著名であり、歌の上手として知られていたということにはなろう。選歌数で七番目に多い伊勢は、おそらく当時の女流歌人の第一人者だったと考えられる。

反対に、ただ一首のみ採録されている人物についても、とても気になる。
どういう経緯でその一首が選ばれたのか、特別のはからいで選ばれたのか、実力はあるのに一首にとどめられてしまったのか、などについてである。
本稿の主人公である、伊都内親王もその一人である。
伊都内親王の場合は、古今和歌集ばかりでなく、それ以降の勅撰和歌集すべてを含めても、一首のみなのである。

その和歌とは、
『 老いぬればさらぬ別れもありといえば いよいよ見まくほしき君かな 』
添え書きには、
「業平の朝臣の母の親王(ミコ)、長岡にすみ侍りける時に、業平宮仕へすとて、時々も得まかりとぶらはず侍りければ、しはすばかりに、母の親王のもとより、とみの事とて、文をもてまうできたり、あけてみれば、詞はなくて、ありける歌」とある。
歌意は、「年老いてしまったので、やがて避けられない別れがあると思えば、ますますあなたに会いたくなるのです」

これに対する業平の返歌は、
『 世の中にさらぬ別れのなくもがな 千代もとなげく人の子のため 』
歌意は、「この世に、避けられない別れなどというものがなければよいのにと思う。千年も長生きしてほしいと嘆く人の子のために」
である。

このあたりのことは、業平集や伊勢物語に記されているので、古今和歌集の伊都内親王の和歌も、それらから見いだされたものらしい。
つまり、在原業平という歴史上特異な部分で名高い人物がいたなればこそ、伊都内親王の貴重な一首が古今和歌集を通じて私たちに伝えられたともいえるのである。
古今和歌集のこの一首は、勅撰和歌集には、これ以外の和歌は一首もなく、桓武天皇の内親王として生まれながら、日の当たる場所に立つことのなかった伊都内親王という女性の消息を、微かながら後世に伝える役割の一端を担ってくれているのである。

     ☆   ☆   ☆


伊都内親王は、第五十代桓武天皇の第八皇女として誕生した。
生年は不詳であるが、資料などから推定すれば、西暦800年ないし810年の間と考えられる。
第五十一代平城天皇、第五十二代嵯峨天皇、第五十三代淳和天皇は異母兄にあたる。

母は、藤原平子。平子の父藤原乙叡(タカトシ)は、藤原南家の創始者藤原武智麻呂のひ孫にあたる人物で、三十四歳にして参議になっており、娘を入内させるほどの力を有していたと考えられる。
しかし、大同二年(807)に発生した伊予親王の変に連座して、中納言になっていたが解官されてしまった。その後許されたが、翌年に四十八歳で没している。
おそらく、伊都内親王の誕生まもない頃のことと考えられるが、これにより平子の後ろ盾がなくなり、伊都内親王の内裏における立場は弱いものになったと考えられる。

伊都内親王の名前は、「イズ」と読まれることが多いようで、「伊豆」と書かれることもある。
その名前は、乳母が伊豆氏の女性であったことに由来するという説がある。
乳母が伊豆と呼ばれていた女性であったかどうかについては何とも言えないが、伊豆氏の女性というのには、いささか疑問がある。
伊豆氏は、現在の伊豆半島あたりに勢力を持つ一族のことと考えられるが、藤原南家の後裔とされ工藤氏や伊藤氏などの祖となった一族は、伊都内親王より少し時代が下るので、乳母がそこそこの勢力を有した伊豆氏の出自というのは考えにくい。
他には、桓武天皇が、伊豆国に対する強い思い入れがあったので、皇女にその名を付けたという説もあるようだが、これは何とも判断のしようがない。

天長元年(824)の頃、阿保親王の妃となり、翌年業平を生む。
この時の伊都内親王の年齢は、二十歳前後だったのではないだろうか。伊都内親王は貞観三年(861)に亡くなるが、享年は六十歳くらいだったという説があり、それに従えば二十五歳くらいとなるが、内親王の結婚年齢としては少々遅すぎる気がする。もしこの年齢が正しいとすれば、すでに淳和天皇の御代になっており、桓武天皇の内親王とはいえ忘れられたような存在だったのかもしれない。

夫となった阿保親王は、波乱の生涯を送った人物である。
飛鳥・奈良に都があった頃も含め、悲劇的な生涯を強いられた皇子や皇女は多いが、阿保親王もまたその一人といえる。
阿保親王は、延暦十一年(792)、第五十一代平城天皇の第一皇子として誕生した。桓武天皇の孫であるから、血縁的には伊都内親王の甥ということになる。但し年齢は、阿保親王の方が、十歳ほどは年上であったと考えられる。
大同四年(809)に四品に叙せられるなど、皇族の一員として穏当な処遇を受けていたが、翌弘仁元年、同母の兄弟である平城上皇と嵯峨天皇の争いともいえる薬子の乱が発生、これに連座して太宰権帥に左遷された。
当時皇族が、太宰府の帥や、上野国などの太守に任命されても、現地に赴くようなことはなかった。しかし、阿保親王は九州に赴いているから、左遷というより流罪に等しいものであったと考えられる。

阿保親王は、太宰府で十四年程もの年月を過ごすことになり、この間入京は許されなかった。
阿保親王には、数人の子供が確認されているが、生母はいずれも不詳のようで、太宰府時代の女性であったようだ。
天長元年(824)七月、父である平城上皇が没する。
その直後に阿保親王は許される形で、都に戻った。都を平城京に戻そうとするなどの画策をしたとされる平城上皇に対する嵯峨天皇の憎しみと警戒心は、兄である平城上皇の死去まで解くことがなかったのである。
実際は、この前年に異母弟の淳和天皇に譲位していて嵯峨上皇となっていたが、依然実権は握っていたと思われ、阿保親王の赦免も、帰京後間もなくの伊都内親王との結婚も、嵯峨天皇の命によると考えられる。

伊都内親王は、阿保親王の妃となった翌年、天長二年(825)に男子を設けた。後の在原業平である。
阿保親王という人は、性格は謙譲で控えめであったと伝えられており、文武ともに優れた人物であったようだ。帰京後、淳和・仁明両朝においては、皇族の一員として重職に就いている。おそらく伊都内親王にとっても、穏やかで満たされた日々を送れた時期であったと思われる。
しかし、阿保親王は桓武天皇の孫であり、嵯峨上皇やその子である仁明天皇にとっては宿敵ともいえる平城上皇の子供であった。そして、その人物が凡庸であればともかく、優れた人物であったため、朝廷からは警戒され、反対勢力からは味方にすべき誘惑が絶えなかったようだ。
そのことを承知している阿保親王は、桓武の皇女である伊都内親王に男子が出生したこともあって、天長三年(826)には、後継者となるべき行平や業平に、「在原」の姓を賜って、臣籍に降下させ、皇位争いに無縁であることを明らかにしていたのである。

そのこともあって、朝廷内で重職を得ることができていたが、それでもなお、とかくの噂は絶えなかったらしい。
そして、皇位争いに藤原氏の勢力争いも絡んだ承和の変では、阿保親王はその乱の拡大を未然に防いだとされるが、その三か月後の承和九年(842)十月に急死している。死因は不詳であるが、疑問の残る急逝ではある。享年五十一歳であった。

この時、伊都内親王は何歳の頃の事であったのか。
結婚して十八年が経っており、四十歳前後であったのか。息子の業平も十八歳になっていた。
阿保親王の息子としては、在原行平と在原業平が著名である。
行平の生母は不詳であるが、業平より七歳ほど年長であるので、太宰府での誕生と考えられる。行平は歌人としても名高く、小倉百人一首にもその名を残している。また、官職においても、難しい血筋であり、藤原氏全盛に向かう時代の中にあって、比較的順調に昇進を重ね、正三位中納言にまで上っている。有能な人物であったようだ。

一方、伊都内親王の珠玉ともいえる業平は、義兄行平とは少し違う人生を歩んだようだ。
文学の才能は行平を越えていると思われ、官職にもそれなりに勤めたようであるが、与えられた環境の中だけで生きていこうという殊勝さはなかったようである。
在原業平という名前が、歴史上燦然として輝いているのは、文芸における豊かな足跡もさることながら、その奔放な女性遍歴にあると思われる。
業平との恋の噂が伝えられる女性には、清和天皇の后で陽成天皇の母となった二条后藤原高子、文徳天皇の皇女で伊勢斎宮であった恬子内親王、清和天皇后で姪にあたる在原文子、仁明天皇の皇后で文徳天皇の母である藤原順子など、きわどい熱愛も伝えられているのである。

伊都内親王は、夫の阿保親王が亡くなった後は、三条坊門の後に在原業平の屋敷になる所に住んでいたが、やがて長岡の山荘に移り住んでいる。
桓武天皇の皇女でありながら、伊都内親王は無品であったようで官からの経済的支援はなかったらしい。
しかし、阿保親王の遺産は小さなものではなかったであろうし、行平は公卿に上り、業平も大した出世はしなかったとはいえ貴族の身分であり、伊都内親王が生活に窮するようなことはなかったはずである。

長岡に隠棲した後は、静かな余生送り、たまに訪れてくる愛してやまない業平の顔を見るのを楽しみにした日々であったようだ。
前段で紹介した伊都内親王と業平の歌の交換は、息子に会いたい老いた母と、それに応えようとしている息子の姿が描かれているのだとすれば、伊都内親王という女性は、激しい歴史の流れに接しながらも、実に人間らしい生涯を送ったのではないかと思うのである。
伊都内親王は、貞観三年(861)九月、穏やかに生涯を終えた。一説によれば、六十歳の頃であったという。

                                               ( 完 )


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