雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

定子の幼い御子たち ・ 望月の宴 ( 87 )

2023-08-17 08:03:35 | 望月の宴 ③

      『 定子の幼い御子たち ・ 望月の宴 ( 87 ) 』


やがて年が改まり、長保三年( 1001 )の春を迎えました。
中関白家(定子、伊周らの一族)の方々にとりましては、定子皇后の御逝去という悲しみから抜け出すことなど出来ず、春が訪れたことさえご存じないのではと思われます。
御年二十五歳での御旅立ちは、哀れなどという言葉ではとても表すことなど無理でございます。中関白家の人々の辺りでは、時間の流れが凍てついているのでございましょう。
そうした中でも、世間では、馬車の駆ける音が絶え間なく聞こえ、前駆の者が人払いする声も得意げで、新しい年は動き始めておりました。
そして、この悲しい御事は、宮廷に大きな変化をあたえ、道長殿の周辺にも少なからぬ影響を与えたのでございます。


御服喪の期間も過ぎたので、女院(一条天皇の生母、詮子)は、今日明日にも今宮(定子が自らの命と引き換えに生んだ御子。媄子(ヒシ)内親王)をお迎え奉ろうと、東三条院に退出なさる。
数々の法事が終れば、姫宮(定子出生の脩子内親王)や一の宮(同じく敦康親王)などは宮中にお住まいさせようと帝はお思いであったが、帥殿(伊周)などは、それでは容易にはお会い出来まいから、帝にはそれがいたわしく思われた。
女院におかれては、吉日を選んで若宮(媄子内親王)をお迎えになられた。帥殿や中納言(隆家)殿などはお見送りにと思われたが、まだ服喪中であり、それに加えて何事につけまがまがしく憚(ハバ)かり多く思わずにはいられないので、お迎えに藤三位(トウノサンミ・藤原繁子。最初詮子に仕え、後に一条天皇の乳母あるいは女房。)や然るべき女房などが女院の殿上人を多数引き連れて参上したので、若宮はお移りになられた。
こうした事につけても、皇后宮の方々は、しみじみと尽きせぬ悲しみに沈まれていることであろう。

若宮をお連れ申し上げると、女院は待ちかねていらっしゃったので、喜んでお迎えになりお会い申し上げられたが、生れてまだ三十余日になったばかりだが、まことに可愛らしくふっくらとなさっていて、さっそくお抱きになられたが、いかにも可愛らしくてならないというお気持ちになられた。
こうしてお迎えすることになった様々な思いがけない有様を、まことにおいたわしく、余りのことだと言うのも愚かなほどに、悲しいことである。

宮(定子)の御邸では、御法事の事をお支度なさるにつけても、帥殿の御涙は途絶えることがない。
一の宮、姫宮が宮中にお移りになれば、いよいよ慰めとなるものがなくなってしまうだろうと、そのことをやるせなくお思いであろう。

ところで、麗景殿の尚侍(レイケイデンのナイシノカミ・東宮居貞親王妃、綏子。兼家娘、道長らときょうだい。)は、東宮のもとに参上なさることもほとんどなくなっており、式部卿宮(為平親王。村上天皇の皇子。)のご子息である源中将がお忍びで通っているとの噂が広がって、東宮もすっかり見放されていらっしゃったが、その間に麗景殿の尚侍がお亡くなりになったので、東宮はさすがに可哀想なことだとお思いであった。
桜の花が美しく咲いているのをご覧になって、対の御方(綏子の生母。)は、
 『 同じごと 匂ふぞつらき 桜花 今年の春は 色変れかし 』
 ( いつもと同じように 美しく咲いているのが私には辛いのだ 桜の花よ 今年の春は 墨染色に色を変えて咲いておくれ )
などとお詠みになったのである。

     ☆   ☆   ☆

 


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