一燈照隅

日本が好きな日本人です

秋篠宮妃殿下、悠仁親王殿下ご退院

2006年09月15日 | 皇室
紀子さま、悠仁さま ご退院
2006年 9月15日 (金) 16:32 産経新聞

 東京都港区の愛育病院に入院されていた秋篠宮妃紀子さま(40)と、長男の悠仁(ひさひと)さまは15日午後、退院し、病院まで迎えに来られた秋篠宮さま(40)とご一緒に、東京・元赤坂の秋篠宮邸に戻られた。紀子さまは術後の経過も良好で、悠仁さまもお元気という。誕生10日目の悠仁さまが公に姿を見せられるのは初めてで、病院周辺や沿道では多くの人々から祝福の声があがった。

 午後0時半前、悠仁さまを抱いた紀子さまが、秋篠宮さまと病院正面玄関に姿を見せられた。主治医の中林正雄院長をはじめ、見送りに出た医師らに丁寧におじぎをし、笑顔であいさつされた。

 報道陣から声をかけられると、「(悠仁さまは)まだ寝ています」と宮さまが答えられ、紀子さまは白いおくるみに包まれた悠仁さまを報道陣にご披露。車の後部座席のチャイルドシートに乗せ、病院を後にされた。↓ 沿道でも、「悠仁さまー」「紀子さまおめでとうございまーす」との声がさかんにかけられ、紀子さまは窓を開けたまま笑顔で応えられた。宮邸では、学習院女子中等科3年の長女、眞子さま(14)と学習院初等科6年の二女、佳子さま(11)の帰宅を待ち、ご一家5人で退院を祝われる。

 悠仁さまのお名前は来週、一般の戸籍にあたる「皇統譜」に正式に登録される。誕生50日目以降には、お宮参りに当たる「賢所(かしこどころ)皇霊殿神殿に謁(えつ)するの儀」が、120日目ごろには、お食い初めに当たる「箸(はし)初めの儀」がそれぞれ行われる。

 紀子さまは「一緒に退院の日を迎えることができたことをうれしく思います」との感想を明らかにされ、宮さまは「心を寄せてくださった多くの方々に感謝申し上げます」と愛育病院関係者らをねぎらわれた。


    

紀子さま:退院のご感想

 秋篠宮さまと紀子さまは退院に当たり、宮内庁を通じて文書で感想を出した。全文は次の通り。

 秋篠宮さま 
本日、母子ともに退院できることをうれしく思います。今回の出産は、部分前置胎盤であったために帝王切開で、また入院期間も一月近くにわたりました。その間、医療関係者のご尽力により、安心して過ごすことができましたことを有り難く思うとともに、心を寄せてくださった多くの方々に深く感謝申し上げます。

 紀子さま 
今年の2月以降、9月の出産に向けて、身体を大切にしながら過ごしてまいりました。7月には部分前置胎盤との診断を受け、不安な気持ちを抱きましたが、約1カ月にわたる入院生活を含め、両陛下があたたかくお見守り下さったことは大きな支えとなりました。また医療関係者による手厚い看護を受けられたことを大変心強く思いました。

 さらに、無事の出産を願った人々、友人、家族に支えられながら出産でき、大変ありがたく思っております。そして、子供の誕生を喜び、祝ってくださった多くの方々に深く感謝するとともに、本日、一緒に退院の日を迎えることができましたことをうれしく思います。

毎日新聞 2006年9月15日 13時04分 (最終更新時間 9月15日 13時07分)


秋篠宮妃殿下お体を大切にされて下さい。
悠仁親王殿下お健やかに御成長されてください。




乃木将軍の日

2006年09月13日 | 今日は何の日
「うつし世を神さりましし大君のみあとしたひて我はゆくなり」
乃木希典
「出でましてかへります日のなしときくけふの御幸に逢ふぞかなしき」
乃木静子


大正元年の今日、明治天皇のご大葬が行われました。
明治天皇の柩が青山斎場の葬場殿に向けて宮城を出た時合図の号砲が鳴り、それに合わせて乃木将軍と静子夫人が殉死しました。
乃木将軍は西南戦争で軍旗を奪われたこと、日露戦争の旅順攻略戦での多数の戦死者が出たことに対して日露戦争後死ぬことを考えますが、明治天皇の次の言葉によって思いとどまります。
「卿の割腹して朕に謝せんとの衷情は朕よくこれを知る。然れども今は卿の死すべき時にあらず。卿もし強いて死せんとならば、朕の世を去りたる後にせよ」
この言葉があったから裕仁親王殿下(昭和天皇)の教育も出来たと言えるでしょう。

今の日本で乃木将軍や東郷元帥を知らない人が増えています。むしろ外国の方が知っている人が多くいます。日本人なら自分の国の英雄ぐらい心に刻みつけておこうではないですか。


秋篠宮親王殿下命名の儀

2006年09月12日 | 皇室
お名前「悠仁」 親王さま命名の儀

 6日に誕生した秋篠宮家の男子のお名前が「悠仁(ひさひと)」に決まり、12日午後、紀子さまが入院されている東京都港区の愛育病院で「命名の儀」が行われた。身の回りの品に付ける「お印」は、日本固有の常緑高木の「高野槇(こうやまき)」に決定した。命名の儀は、一般のお七夜に当たる皇室の伝統儀式。

 宮内庁によると、「悠」の字には、ゆったりとした気持ちで、長く久しく人生を歩んでほしい、との願いが込められている。お印の「高野槇」は「まっすぐに育ってほしい」とのご夫妻の思いから、日本固有の直立の木にした。

 お名前とお印はご夫妻で話し合い、お名前については天皇、皇后両陛下にも相談し、先週末から11日までの間に、最終的に秋篠宮さまが決められた。

 宮内庁では7月から男女それぞれのお名前を検討、過去の天皇や皇族と重ならないようにした。男子誕生後は、国文学者や漢文学者の意見も交えて、3つの名前を候補に挙げたという。

 命名の儀は午後3時半から行われた。秋篠宮さまが毛筆でお名前の「悠仁」、お印の「高野槇」とそれぞれしたためた和紙を、ご夫妻が順に確認された後、宮務官が白木のきり箱におさめて、悠仁さまの枕元に置いた。和紙はいずれも皇室の重要行事に使われる「大高檀紙(おおたかだんし)」と呼ばれる厚手の紙。

 お名前は官報で告示された後、天皇、皇族の戸籍に当たる皇統譜に登録される。宮内庁長官らが署名する。

 名前に「仁」を付けるのは、平安時代以来の慣習。高野槇は「高野の六木」などとして有名で、皇居の宮殿近くや秋篠宮邸がある赤坂御用地内にもある。

(09/12 15:54)


親王殿下のお名前が「悠仁」(ひさひと)と決まりました。
良いお名前です。
お名前をはじめて聞いた時、なぜか谷村新司の「昴」が頭の中を流れました。

悠の漢字は、悠久(長く、ひさしい)、悠然(ゆったりと落ち着きこせつかないさま)などがあります。

もう一つこの悠の字にある大事なのは、天皇陛下になられたとき最初に行われる一番大切な新嘗祭、即ち大嘗祭で新穀を供える祭殿を、東は「悠紀(ゆき)殿」、「西は主基(すき)殿」、この新穀を耕作する斎田を「悠紀田(ゆきでん)」「主基田(すきでん)」と言います。
大嘗祭での「悠紀田」に通じる字を選ばれたのも秋篠宮殿下の思いがこもっているように感じます。
これからは、秋篠宮悠仁親王殿下の健やかな御成長をお祈りします。




諸国から訪れる旅人たちよ 

2006年09月11日 | 大東亜戦争
「諸国から訪れる旅人たちよ 
この島を守る為に日本軍人が
いかに勇敢な愛国心を持って戦い
 玉砕したかをつたえられよ。」

米大平洋艦隊司令長官
      C.ニミッツ



これはパラオのペリリュ-島にある慰霊碑の碑文です。

ペリリュー島というのは、パラオ諸島の中の小さな島です。南北九キロ、東西三キロ、高さ八〇メートル、全体で二〇平方キロの珊瑚礁からできた太平洋上の小島です。その平和な島で、第二次大戦の末期、日米両軍によって七十三日間に亘る死闘が繰り返されたのです。

 当時、日本軍はフィリピンを防衛するために、その島に東洋最大といわれる飛行場を建設していました。ペリリュー島は日本にとって、いわばフィリピン防衛の防波堤であったのです。昭和十九年になると、米軍は対日包囲網を圧縮してきました。米陸軍を指揮するマッカーサーにとって、フィリピンを攻略するためには、フィリピンの背後に位置するペリリュー島を奪取しなければ、戦況を有利に進めることはできませんでした。そこで、米太平洋艦隊を指揮するニミッツ提督は、マッカーサーの作戦を助けるために、第一海兵師団〈師団長、ウィリアム・H・リュバータス少将)にペリリュー島の占領を命令しました。さらに、勇名を以て鳴るハルゼー大将が指揮する第三艦隊約八百隻の艦艇が、海兵隊支援のために差し向けられました。

 これに対するペリリュー島を守備する日本軍は、水戸の第十四師団座下の歩兵第二聯隊を主力とした地区隊(隊長・中川州男(くにを)大佐)一万二千名。これまで太平洋の島々が攻撃された時、日本軍の持久期間が短かく次々玉砕しました。それは「水際撃退」を至上の戦法にしてきたからでもあります。その戦訓をいかし、ペリリューでは、内部に深く洞窟を構築して待機していました。

 既に制海権・制空権を手にしている米軍は、狭い小島に文字通り絨毯(じゅうたん)爆撃と艦砲射撃を加え、九月十五日、航空母艦を含む機
動部隊を背景に、上陸作戦を敢行してきました。総兵力四万二千。それに対して、我が方は、二度までも上陸を阻止するほど勇戦しました。しかし衆寡敵せず、上陸を許してからは、予定通り五百の洞窟にこもって、持久戦に移りました。連日連夜、彼我肉迫する戦闘が続きました。我軍は弾丸や食糧の補給が続かなく、死傷者が続出しました。しかし七十三日間を持ちこたえ、健在者は僅か五十数名に減ってしまいました。

 そして十一月二十二日、中川隊長は、パラオ地区集団参謀長多田督知大佐宛、訣別の電報を打ちました。その一節ーーー。

 三、地区隊ハ本二十四日以降、統一アル戦闘ヲ打切リ、残ル健在者約五十名ヲ以テ遊撃戦闘ニ移行、飽ク迄持久ニ徹シ米奴撃滅ニ邁進セシム。重軽傷者中戦闘行動不能ナルモノハ自決セシム。

 四、将兵一同聖寿ノ万歳ヲ三唱、皇運ノ弥栄ヲ祈念シ奉ル。集団ノ益々ノ発展ヲ祈ル。

 二十四日、いよいよ全軍玉砕の時が迫りました。中川大佐、そして第十四師団から派遣されていた村井権治郎少将、飯田義栄中佐の三人は、それぞれ古式に則って割腹自決。三人のあっぱれな最期に続けと、最後の決死隊が組織されました。根本甲子郎大尉以下、傷だらけの五十五名は、夜鬼のごとくになって突撃してゆきました。米海兵隊公刊戦史によれば、「日本の斬込隊の一団は、米軍の包囲圏を突破できず、二十四日の夜から二十七日七時頃までの間に米軍と激しく交戦、全員玉砕した」とあります。そして、軍旗も機密書類も焼却したことを意味する最後の電文「サクラ・サクラ」が、パラオ本部に届いたのは、二十四日の十六時でした。この六文字の電文は、ペリリュー守備隊全員が、桜花のごとく散ったことを意味するのです。

 それは、一万人の死をもって謳いあげた世界で最も短かく簡潔な詩といえましょう。これ以上に余韻をもった傑作は、他に例を見ないのではありますまいか〈中川大佐は戦死して二階級特進、中将となる。墓は郷里熊本県にある)。

オレンジ・ビーチのいわれ

 我が軍としては、二十四日をもってペリリュー島は玉砕したものと確認していました。ところが、中川隊長の最期や命令を知るすべもなかった西海岸守備隊は、その後も抵抗を続けました。米軍から武器弾薬はもとより食糧衣類を奪い、神出鬼没のゲリラ戦を続けていました。山口永少尉以下、陸海軍の生き残り兵三十四名。それも敗戦後の昭和二十二年四月二十二日まで、彼らはおよそ二年半にわたって戦闘を続行したのでした。

 この生き残り兵の大半は、最初米軍が西海岸に上陸した時、最も果敢に戦った勇者たちでした。米軍は占領後、激戦の行われた西海岸をオレンジ・ビーチと名づけました。それは、アメリカ兵の血で美しい珊瑚の海面がオレンジ色に染まったからだ、といいます。現在「オレンジ・ビーチ」は、ペリリュー島の正式名になっております。

 ニミッツ提督はその著『太平洋海戦史』(重松譲・富永謙吾共訳〉の中で、ペリリュー島の戦闘に相当のページをさき、次のように結んでいます。

「ペリリューの複雑極まる防備に打ち克つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約四〇パーセント〉を甘受しなければならなかった。既に制海権制空権を持っていた米軍が、死傷者あわせて一万人を超える犠牲者を出して、この島を占領したことは、今もって疑問である」

ペリリュー神社と米公刊戦史の詩文

 ここで特筆しておかねばならないことがあります。ペリリュー島には、それまで現地住民が住んでいました。島民は白人の統治と日本時代を身をもって経験しているので、大人も子供も、日本軍と一緒に戦う決意を持っていました。しかし日本軍としては、住民を戦火に巻き込んではならないという配慮から、船舶の乏しい中、空襲を避けつつ夜間を利用して全員をパラオ本島に退避させました。

 この誠意が通じたのか、戦いが終って帰島した彼らは、日本人の遺体を見て泣きました。「アメリカ人は、日本人の遺体には見向きもせず、自国兵の遺体だけを整理した。ここに、征服民族の本性を見る」として、島民はこぞって日本軍の遺体を葬りました。日本の人達がいつ来てもよいようにと、その後も墓地の清掃に心掛けました。

 現在も島民の親日感情は極めて強く、沖山豊美(やまとよみ)という日本名を持つ女史は、日本統治時代をなつかしみ、「愛国行進曲」を間違わずに歌ってみせ日本人と見れば、

「日本という国は何千年来の伝統を持ち、独自の文化を創りあげてきた。その結晶が天皇と教育勅語だ」

という趣旨を、熱っぼく語り、日本人の度胆を抜くそうです。

 さらに彼らは、ペリリューを守って玉砕した一万人余の英霊を決して忘れていません。日本から遺骨収拾に行くと、

「戦死者は母なる大地ペリリューに抱かれているのだ。収拾などしないで、静かに眠らせてほしい」

と言うそうです。

 現在、島の中央部に近い「島民墓地」の一角に、高さ約四メートルの「みたま碑」(三角錐型)が建っています。それを中心に、日本の各団体によって三十数基の慰霊碑が肩を寄せあうように建立されました。

 そして昭和五十七年五月には、「青年神職南洋群島慰霊巡拝団」(清流社会長・滑川 裕二(なめかわゆうじ)氏主催)二十名が、船坂弘(ふなさかひろし)氏の助力を得て、ペリリュー神社を創建しました。すべて日本から運搬した材料を使い、島民の多大の協力を得て、十日間を費して完成しました。御祭神は天照大神と戦死者一万余名の「護国の英霊」です。現在、神社前の左の掲示板には、ペリリュー島のイサオ・シゲオ尊長(そんちょう)によってこの趣旨が書かれています。そして右の掲示板には、戦闘の経過が要約され、米国公刊戦史に載っているとして、次の詩的な一文で結ばれています。

「この島を訪れる、もろもろの国の旅人たちよ。あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶うその心根を……」

 この詩は、戦終ればかつて敵であった日本軍の忠勇武烈ぶりを、このように讃えております。そしてこの島を訪れる旅人に、その勇戦ぶりを伝えてくれ、と戦死者に代って願っているのです。

 私はこの印象的な英文を確認したいと思って、『米公刊戦史・海兵隊史』を捜して貰いましたが、見つかりません。ニミッツの『太平洋海戦史』にも、載っておりません。この文章は一種の詩だから、戦史としては、ふさわしくないとも言えます。それでは、どこに載っているのか。

 文献あさりをしていた時、浦茂氏(元・航空幕僚長〉から教えられました。浦氏が昭和五十九年に渡米し、ニミッツの資料を求めて、アナポリス海軍兵学校を訪れました。その時、教官からニミッツの詩として教えられた英文は、次のようなものでした。

Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island.

「世界に生きる日本の心」名越二荒之助著


パラオの国旗は日の丸をデザイン化しています。日本が孤立するとか叫んでいた人にこの話を聞かせたい気持ちです。
また、ニミッツ提督は戦後、戦艦三笠を保存するように尽力してくれました。
記念艦三笠とニミッツ提督
それもこれも、大東亜戦争に於いて米軍に劣る戦力ながら皆勇敢に戦って米軍に心胆寒からしめたからでしょう。
我々日本人がその事を忘れてはいけないし、悪者のように言うのを私は許せません。
この詩を作ったニミッツ提督には騎士道精神を感じます。




両陛下、新宮殿下とご対面。マスコミは礼儀を知れ!

2006年09月11日 | 皇室
両陛下、孫と喜びの初対面 紀子さまは11日に40歳の誕生日
 天皇、皇后両陛下は10日午後、秋篠宮妃紀子さまが入院している東京都港区の愛育病院を訪問、6日に誕生した新宮さまと初めて喜びの対面をし、紀子さまをねぎらわれた。紀子さまは11日が40歳の誕生日。皇后さまは白いベビー靴を持参し、花束とともにプレゼントされた。

 病院では秋篠宮さまと長女の眞子さま、二女の佳子さまが両陛下をお出迎えになった。新宮さまは、両陛下にとって4人目で初めての男子の孫。陛下は病院を後にする前、報道陣に男の子の様子をたずねられ「元気です。ありがとう」と答えられた。両陛下は、5日から北海道を訪問し、9日夕に帰京されていた。

 関係者によると、新宮さまは健やかで、元気よく紀子さまの母乳を飲まれている。秋篠宮さまや眞子さま、佳子さまは連日病院を訪れ、小さな弟をかわいがられているという。

 秋篠宮さまは10日昼、皇居・御所に両陛下を訪ねて第3子誕生を直接ご報告になった。眞子さま、佳子さまも合流し、昼食をともにされた。

(09/10 19:58 sankei web)


    


天皇、皇后両陛下のこれほど喜ばしい笑顔を拝見することができてとても嬉しいことです。
両陛下の笑顔は国民にとっても嬉しい限りです。
秋篠宮紀子妃殿下御誕生日おめでとう御座います。

しかし、今回の御慶事によってマスコミのマナーの悪さが一層目立ってきています。
上記の産経新聞の記事も敬語がむちゃくちゃです。
病院でもいきなり両陛下に質問するなど、芸能人と同じにするなと言いたい。




重陽の節句

2006年09月09日 | 今日は何の日
9月9日は五節句の一つ「重陽の節句」です。
古代中国に於いて、十は数の頂点に立つものであるが、満れば欠けるという哲学の上から好ましくないとされ、九を満ちて極まっている数として陽の極数、最高の数と考え、天の数、そして天子の数として神聖視したのです。
陽数九が重なっているので「重陽」と言います。
この日は菊の節句でもあります。平安時代に菊は、「翁草」「千代見草」「齢草」などといわれ、重陽の節句に観菊の酒宴が催され、「菊酒」といって、酒に菊の花をひたして飲むと長生きができると言われています。
尚、皇室の御紋章は「十六葉八重表菊」です。
「年中行事を科学する」永田久著 より

三日前に秋篠宮殿下、同妃殿下に親王殿下がご誕生になられた事にもなにか因縁を感じます。
新暦での九月九日なので、菊にはまだ早いのですが、旧暦の九月九日だと新暦で十月三十日になります。
節句や七夕など旧暦でおこなった方がいい行事は旧暦にするべきでしょう。


なみだこぼるる

2006年09月06日 | 皇室
「なにごとのおはしますかはしらねども かたじけなさになみだこぼるる」
西行


西行が伊勢神宮で詠んだと言われている歌です。
西行の解釈とは違うかもしれませんが、今日ほどこの歌が当てはまることは無かったと思います。


秋篠宮妃殿下、男子ご出産おめでとう御座います。

2006年09月06日 | 皇室
秋篠宮妃殿下紀子様、無事に親王殿下ご出産、心よりお祝い申し上げます。


紀子さま、男のお子さまご出産

 秋篠宮文仁親王殿下と同妃紀子殿下の第3子が6日午前8時27分、東京都港区の愛育病院で誕生された。宮内庁によると、お子さまは親王(男児)で、体重は2558グラム。皇族としては初めてとなる帝王切開でのご出産となったが、母子ともにお元気という。皇室では昭和40年にお生まれになった秋篠宮さま以来、41年ぶりの男子で、天皇、皇后両陛下には皇太子さまの長女、愛子さま(4)に続く4人目の孫。お子さまのご誕生で皇族は皇后さまをはじめ22人となった。

 ご出産の喜びは、すぐに天皇、皇后両陛下に伝えられ、両陛下は非常にお喜びのご様子だったという。

 秋篠宮さまも大変安心して喜ばれ、長女の眞子さま(14)と二女の佳子さま(11)は初めて弟ができた喜びをかみしめられた。

 皇室では秋篠宮さまのご誕生の後、9人続けて女子が誕生されていた。

 お子さまの皇位継承順位は皇太子さま、秋篠宮さまに次ぐ第3位。第4位は常陸宮さま、第5位は三笠宮さま、第6位は寛仁親王殿下、第7位は桂宮さまとなる。

 紀子さまは2月7日にご懐妊の兆候が確認され、宮内庁は同24日、妊娠3カ月目と正式発表。7月12日、宮内庁病院での検診で、胎盤が子宮口の一部をふさぐ「部分前置胎盤」の状態で帝王切開が必要と診断された。

(09/06 08:55)


ご一報を聞いたとき涙が出てきました。本当におめでとう御座います。

「日本の歌百選」

2006年09月05日 | Weblog
「日本の歌百選」を募集 親子で歌い継ぐ名曲を
2006年 9月 5日 (火) 18:42

 文化庁は5日、世代を超えて歌い継ぎたい日本の名曲を「日本の歌百選」として募集すると発表した。歌手の由紀さおりさんや作曲家平尾昌晃さんらの選考委員会が12月に入選作を選び、年明けにコンサートを開いてお披露目する予定。

文化庁は「核家族化で世代間の触れ合いが少なくなっている。みんなで楽しめる歌を通じて家族のきずなを確かめてもらえれば」と話している。

先月から脳梗塞(こうそく)のため入院中の河合隼雄文化庁長官が今春、「少年犯罪が増加するなど人間関係が希薄化していく社会を、歌で元気づけたい」と公募を提案した。


親子で歌いつごう日本の歌100選

今の子供達の歌ってどんなんだろうか。
やっぱり歌謡曲なんだろうか。
ただ最近の歌謡曲は、記録は作るけど記憶に残る歌が少ないようです。

私が子供の頃は音楽の授業は童謡や唱歌が多かったように思います。
今の季節だと「赤とんぼ」ですね。
もちろん歌謡曲も歌っていました。
坂本九とか、グループサウンズ、フォークソング。あの頃の歌謡曲は、誰でもが歌えるようなメロディーでしたね。
遠足のバスの中でみんなで歌ったりしたりしてました。
今聞いても良い歌が多かったです。

奇異な出演者

2006年09月04日 | 時事問題
昨日の報道2001を見て奇異な感じを持った。
奇異に感じたのは最初のテーマですが、次期総裁候補の安倍晋三氏について話していたのだが、安倍氏支持で町村前外相と反対に元民主党代表代行藤井裕久が出ていたことです。
町村氏は分かるのだが、なぜ藤井氏なのかです。
フジテレビが反靖国参拝や反安倍の姿勢なのは番組を見ればよく分かりますが、それにしても前回衆議院選挙で有権者からNOを突きつけられた人間をなぜ出演さすのか。
しかも言っていることが一つ覚えのような安倍批判と歴史認識と創価学会の擁護。
どうせ出すなら現役議員を出して、意見を聞くべきじゃないだろうか。

そもそもが自民党の総裁を選ぶ選挙なんだから、他党の人間がとやかく言うことがおかしいのです。
大人の政党なら対立政党に誰が総裁になっても「我が党はこうします」と言うのが当たり前です。

しかし、報道2001は年々おかしくなっているようだ。

支那遺棄化学兵器は見直すべき。

2006年09月03日 | 時事問題
中国遺棄化学兵器問題 新資料発見か、政府が調査

≪結果次第では事業見直しも≫

 中国遺棄化学兵器問題で、「日本軍が中国に化学兵器を遺棄した」という中国側の主張を覆す可能性のある資料が見つかっています。この問題では、廃棄処理のために政府が負担する費用が数千億円規模に膨らみかねないことや、“遺棄兵器”の実態が不透明という指摘も出ています。政府首脳は詳しく調査、分析するとしています。(『正論』編集部 喜多由浩)

 この問題は、先の大戦で「旧日本軍が中国各地に化学兵器を遺棄した」として、平成2年に中国政府が日本政府に解決を要請してきたことが発端です。9年には、遺棄化学兵器の廃棄義務をうたった化学兵器禁止条約が発効し、日中両国が批准。11年には、日本側が廃棄処理費用を全額負担することなどを盛りこんだ覚書を交わしました。

 これに伴い日本政府が負担する総事業費は今後どれだけ膨らむか、見通しすら明確ではありません。

 中国側は、旧日本軍が遺棄した化学兵器が、吉林省のハルバ嶺などに約200万発残っている、と主張しています。しかし、その主張に疑問を持つ意見は当初から少なくありませんでした。終戦後、日本軍は旧満州(現・中国東北部)ではソ連軍(当時)によって、中国大陸部では主に中国国民党軍によって武装解除され、所持していた武器・弾薬は化学兵器も含めてソ連・中国軍に引き渡していた(遺棄したのではない)とされていたからです。

 しかし、日本政府は「中国、ソ連の同意の下に引き渡されたことを確実に裏付ける証拠、資料があるとは承知していない」などという消極的な理由で、中国側の主張をいわば“丸飲み”してきたのです。

 ところが最近になって中国側の主張を覆す可能性があるさまざまな資料が見つかりました。山形県のシベリア史料館には、中国で日本軍が武装解除の際に引き渡した武器・弾薬を詳細に記した「兵器引継書」が約600冊も残っていました。受け取った中国軍の責任者の署名・捺印(なついん)があり、化学兵器だけを除外した形跡も見られません。

 また、防衛庁の防衛研究所には、日中両政府が「遺棄化学兵器」として廃棄処理対象にしている『あか筒』『みどり筒』を台湾で中国軍に引き渡していたことを記した「引渡兵器目録」がありました。さらには、中国側が遺棄化学兵器が大量に残っていたと主張しているハルバ嶺近くの敦化で、化学兵器(毒ガス兵器)をソ連軍に引き渡したという元日本軍兵士の証言まで出てきたのです。

 安倍晋三官房長官は5月、衆院内閣委員会での答弁で「(シベリア史料館で見つかった資料などについて)政府としてしっかり調査したい」と述べました。政府は、新しい事実を示す資料などが見つかった場合、事業の「基本的な枠組みが変わってくる」としており、対応が注目されます。

(09/03 12:15)


中国遺棄化学兵器(引き渡し)については、不明な点が多々あったが支那の言うことをそのまま鵜呑みにして予算を組んでしまった。
朝鮮戦争で使用されたかもしれない化学兵器が含まれているかもしれないし。
消費税を上げる前に、このような不明な予算を見直すことが先決です。


降伏調印の日

2006年09月02日 | 今日は何の日
昭和20年9月2日、東京湾米国戦艦ミズーリ号の艦上に於いて大東亜戦争の降伏調印式がおこなわれました。
この日から米国による日本占領が始まります。

以前にも書きましたが、8月15日を終戦の日と言っていますが、この日は天皇陛下の玉音放送が流れた日で終戦の日ではありません。
本当の終戦は昭和27年4月28日講和条約発効の日です。


降伏文書
1945(昭和20)年9月2日 東京湾で署名
原文は片仮名、旧字体。

 下名は、茲に、合衆国、中華民国及びグレート・ブリテン国の政府の首班が、千九百四十五年七月二十六日ポツダムに於て発し後にソヴィエト社会主義共和国連邦が参加したる宣言の条項を、日本国天皇、日本国政府及日本国大本営の命に依り且之に代り受諾す。右四国は、以下之を連合国と称す。
 下名は、茲に、日本国大本営並に何れの位置に在るを問はず、一切の日本国軍隊及日本国の支配下に在る一切の軍隊の連合国に対する無条件降伏を布告す。
 下名は、茲に、何れの位置に在るを問はず、一切の日本国軍隊及日本国臣民に対し敵対行為を直に終止すること、一切の船舶、航空機並に軍用及び非軍用財産を保存し、之が毀損を防止すること、及連合国最高指令官又は其の指示に基き、日本国政府の諸機関の課すべき一切の要求に応ずることを命ず。
 下名は、茲に、日本国大本営が、何れの位置に在るを問はず、一切の日本国軍隊及日本国の支配下に在る一切の軍隊の指揮官に対し、自分及其の支配下に在る一切の軍隊が無条件に降伏すべき旨の命令を直に発することを命ず。
 下名は、茲に、一切の官庁、陸軍及び海軍の職員に対し、連合国最高指令官が、本降伏実施の為適当なりと認めて自ら発し又は其の委任に基き発せしむる一切の布告、命令及指示を遵守し且これを之を施行すべきことを命じ、並びに右職員が連合国最高指令官に依り又は其の委任に基き特に任務を解かれざる限り各自の地位に留り且引続き各自の非戦闘的任務を行うことを命ず。
 下名は、茲に、ポツダム宣言の条項を確実に履行すること、並に右宣言を実施する為連合国最高指令官又は其の他特定の連合国代表者が実施することあるべき一切の命令を発し、且斯る一切の措置を執ることを天皇、日本国政府及其の後継者の為に約す。
 下名は、茲に、日本国政府及日本国大本営に対し、現に日本国の支配下に在る一切の連合国俘虜及被抑留者を直に解放すること、並に其の保護、手当、給養及指示せられたる場所への即時輸送の為の措置を執ることを命ず。
 天皇及日本国政府の国家統治の権限は、本降伏条項を実施する為適当と認むる措置を執る連合国最高指令官の下に置かるものとす。

千九百四十五年九月二日午前九時四分、日本国東京湾上に於て署名す。
大日本帝国天皇陛下及日本国の命に依り且其の名に於て
重光 葵
日本帝国大本営の命に依り且其の名に於て
梅津 美治郎

千九百四十五年九月二日午前九時八分、日本国東京湾上に於て合衆国、中華民国、連合王国及びソヴィエト社会主義共和国連邦の為に、並に日本国と戦争状態に在る他の連合諸国家の利益の為に受諾す。
連合国最高指令官 ダグラス・マックアーサー
合州国代表者 シー・ダブリュー・ミニッツ
中華民国代表者 徐永昌
連合王国代表者 プレース・フレーザー
ソヴィエト社会主義共和国連邦代表者 クズマ・エヌ・ヂレヴィヤンコ
オーストラリア連邦代表者 ティー・ユー・ブレーミー
カナダ代表者 エル・コスグレーヴ
フランス国代表者 ジアック・ル・クレルク
オランダ国代表者 シェルフ・ヘルフリッヒ
ニュー・ジーランド代表者 エス・エム・イシット


やくたいもない法務大臣

2006年09月01日 | 時事問題
法相、「人権擁護法案は日本国籍限定、来年の国会提出したい」

 杉浦正健法相は1日午前の記者会見で、自民、公明両党が「与党人権問題等懇話会」で協議を再開した人権擁護法案について「来年の通常国会に提出したいと(懇話会に)伝えてある」と述べ、法案提出を前提にした議論の早期取りまとめに期待感を示した。

 人権擁護法案は、実務に当たる人権擁護委員の選任基準に国籍条項がないことに自民党内で反発があり、昨年の通常国会提出を断念した。法務省は、国籍条項を盛り込むなどの修正方針を懇話会に示している。

 法相は、日本国籍に事実上限定する案も含めて懇話会に報告したと説明。「与党の議論を待って修正案を取りまとめたい。できるだけ早期に(提出したい)と思っている」と強調した。

(09/01 13:13)


法相の杉浦正健とはどのような考えの人物なのか。
ホームページを見て貰えば分かるであろう。
大東亜戦争を「やくたいもない」の一言でかたづけているような人間です。
杉浦正健メッセージを見られてください。

しかも、死刑を一件もおこなっていない職務怠慢な大臣です。死刑が嫌なら法相を引き受けるべきではありません。個人の思想を持ち込むべきではありません。
このように見てくると、次期法務大臣を誰にするか大切になってきます。




皇室典範改正

2006年09月01日 | 皇室典範
安倍官房長官、皇室典範改正は慎重に検討する考えを表明

 安倍晋三官房長官は31日午前の記者会見で、政府がさきの通常国会で改正案提出を断念した皇室典範について「皇位の継承は国家の基本にかかわる事柄だ。制度上、政府として安定的な継承は極めて重要だと認識している」と指摘した。また、そのうえで「慎重かつ冷静に国民各層の賛同が得られるよう取り組みたい」と述べ、慎重に検討を進める考えを示した。

 9月初旬に予定される秋篠宮妃紀子さまのご出産については「国民とともに、順調なご出産を心からお祈りしたい」と語った。

(08/31 11:48)


皇室典範はいずれ改正しなければならないだろう。
それには皇室のご意見を聞かなければなりません。見識も歴史観もない国会議員だけの考えで決めるようなことは断固反対です。
国民の賛同を得ると言うのも反対です。私も含めて国民のほとんどは、その時の感情によって左右されます。
なぜ男系男子なのかを何度でも説明すべきです。なぜ旧宮家復活なのか、またその為にはどうすればいいかを言わなければ成りません。
それを説明するのが安倍氏の努めだと思います。