一燈照隅

日本が好きな日本人です

「教育勅語の由来と、海外に於ける感化」(後)

2008年03月02日 | 日本の教育
「教育勅語の由来と、海外に於ける感化」前回の続きです。
教育勅語が制定されてから海外での反響や、漢字の制限によって教育勅語に使われている漢字の一部が使えなくなる危機が有ったことを述べています。



陛下が国民に親しく仰せられた勅語

そこで茲に私は教育勅語、この詔について申上げるが、明治の初年から詔の出たことは数限りもない。幾つも詔が出ておるが、御承知の通り日本の公文式によりますというと、勅語は天子の御名を認め、そうして必ず責任大臣の副署をしなければならぬ。今度の教育勅語ならば総理大臣と文部大臣の二人が副署しなければ本当の詔書の形にならぬ、総てそうなっておる。憲法発布の詔の如きは総理大臣、枢密院議長、各大臣皆副署している。商工省の事ならば総理大臣と商工大臣、逓信省の事ならば総理大臣と逓信大臣、各責任大臣の副署がなければ詔勅の体は具わらぬ、これが日本の公文の形式である。ところが茲に形式に拠らぬのが二つある。それは何が例外かといえば、一つはこの教育勅語である、御名御璽があって大臣の副署がない。もう一つは明治十五年に明治天皇が陸海軍人に賜った軍人勅諭、これも総理大臣―その頃は総理大臣とはいわぬ、太政大臣といった―太政大臣も陸軍卿も海軍卿も副署がない、これはやはり御名御璽だけだ。この二つだけは何が故に大臣の副署がないかと調べて見ますと、教育勅語の以前に十五年に軍人に賜った軍人勅諭はその中をお読みになればよく分るが陛下が軍人に向って直接に御話しになった形になっている。「朕ハ汝等ヲ股肱ト頼ミ汝等ハ朕ヲ頭首ト仰キ」汝等は手足である、朕は汝等の頭である、朕が総て左右するから四足となって働けと、こう軍人に向って陛下が御話になった形になっておる。これは有難い思召である、実に軍人たるものが陛下から直接にあの軍人勅諭を拝したわけである、何人の取次もない、直接に陛下から軍人に仰せられた形になっておる、その為に御名御璽だけである。又この教育勅語というものは陛下が国民に向って親しく仰せられた形になっておる。それはあなた方教育勅語をお読みになれば分る通り「朕惟フニ皇祖」から終い頃にはどう書いてあるか「朕爾臣民ト倶二拳々服膺シテ成其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ」と御述べになっておる。国民に向って陛下が「庶幾フ」と仰せられた、これより有難い詔はない。「斯ノ道」を「朕爾臣民ト倶二」胸に納めて忘れぬようにして、汝等の徳と朕の徳とを一にした、それを自分は「庶幾フ」と仰せられた。
この位有難い詔は私は今までに拝しない。かくの如き有難い教育勅語、実に吾々はこの教育勅語の方針を一日も忘れてはならない。それで私はこの記念館をお建てになった大阪市は、この教育勅語の精神を以て教育をなさることを希望する次第である。

日露戦争中にアメリカで称讃される

さてこれから海外に於ける感化、外国人に対して如何に影響したかということについてお話する。明治三十七年二月四日の御前会議に於て日露戦争と決った。その時私は是非アメリカに行けという政府からの内命でアメリカに参りました。丁度二年ばかりアメリカに於て、各所に於て日露戦争の原因をアメリカ国民に知らした。そうするとアメリカ国民も段々よく分って、仁川の戦い以来世界に有名なロシヤを海に陸に連戦連勝、世界は驚いた。当り前です、日露開戦の初めに当り世界の人々は左の通り云うた。ロシヤと日本が戦争をする、可哀相に日本は潰れる、あんな大きな国に向って、気の毒な人民だと皆言っておりました。私が行った時にもそう言うておった。ところが日本が連戦連勝、実に驚いたのも無理はない。三十八年の春になって奉天の戦い、五月二十八日の日本海の海戦で東郷艦隊がロジエスト・ウエンスキーの艦隊を撃滅した。益々日本はロシヤ以上だ、そこでアメリカ人が何が故に日本はこうも強いかということを調べはじめた、本当に調べた。私が倶楽部へ行ってもその理由を色々の人が尋ねることもある、又ニューヨーク市のカナゲー・ホール(大講堂)で二時間ばかりも英語で私は演説をしてその理由を言うたことがある。ところが或る友人がニューヨークの上流の有力なる人々男女合せて三十人位私を主賓として晩餐会を開いてくれた。食後応接の間に皆集って、或る婦人が「私共は男の子や女の子を持っておる、教育をしなければならぬ。日本人が陸海軍にあの通り連戦連勝したのは国民の教育が必ず然らしむるところであろう、日本の教育はどうなっておるか、これを一つ伺いたい。それで私達婦人は友人に頼んでこの晩餐会を開いたわけである」とこういった。そこで私はその質問について一々説明をしました。「明治十五年に陛下が賜った軍人勅諭というものがある、それはこうこういうことが書いてある。此の方針に依って軍隊生活三年の間に軍人としての教育を受け、忠君愛国の精神が出来るのである。是れ計りではない、軍人が強いのは軍隊教育ばかりではない、その以前に予備教育がある。それは国民は皆満六歳になれば八年の間―その頃は八年制―即ち十四歳まで男女共に教育を受けなければならぬという教育方針である」「それはどういうわけか」と問うから、そこで諸学校の例を引いて「こういうわけである、更に小学から中学、大学と一貫せる教育方針を定めた教育勅語というものがある」「それはどういうものか」「これはこういうもので、満六歳から教育勅語によって小学校も中学校も師範学校も大学も教育する」「それを翻訳してくれ」私は予ねて翻訳しておったから、「この通りだ」とその翻訳を見せた。ところが皆列席の男女が感激称讃した。「実にこの陛下の教育勅語というものは有難いものである、これは支那の孔孟の儒学もはいっておる、日本の神道もはいっておる、欧米の耶蘇教の教義もはいっておる、この三つの世界の有力なる教の教義がこの中にはいっておる。吾々は耶蘇教のバイブルのみを以て教育の骨子としておったが、今日この日本天皇の教育勅語を拝するに完全無欠だ。よって吾々は将来この教育勅語を拝読したいからくれぬか」という。私は約束してその後宿屋へ帰ってタイプライターで打って当夜列席の婦人にやった。その席におった一人の婦人が言うのには「私は耶蘇教を信心する者である、子供を三人持っておる、日曜日には朝の食事がすむと応接間へ行って夫婦と子供三人が跪いて椅子の上に頭を伏せて耶蘇の十誡を読み、その後でこの日本天皇の教育勅語を私が読んで子供に、日本の天皇の御出しになったものに教育勅語というものがある、これは耶蘇教のバイブルと同様のものであると言って私は子供に言い聞かせます」と。私はこの一言を聞いた時は嬉しかった。井上毅氏が私の所へ来て「『中外二施シテ悖ラス』ということが心配だから君見てくれ」と言って来た時に、私は「自分の考えでは悖らぬと思う」と言ったが、あの時に井上毅氏に言ったことが偽らざることであったということがその時始めて分って非常に嬉しかった。

翻訳して世界に頒布する

それから明治三十八年平和克復し日本に帰って来て、これは是非教育勅語を政府に於て翻訳して外国に出さねばならぬ。あの時は私は咄嵯に翻訳したのであるが、今度は政府からこれをヨーロッパ、アメリカの諸学校及び総ての教会へ送って貰おうと思って帰って来た。当時の文部大臣は牧野伸顕氏であった。牧野氏に会って「実はこういうことで非常に教育勅語がアメリカで称讃を受けた。これは必ず文部省で英文・仏文に翻訳されておろう、それを外国の大学や教会に送ってはどうか」「そんなものは文部省にない」「それは怪しからぬ、この教育勅語というものはこういう有難い陛下の思召で出来ておるものだ。日本には皆配布して式日には学校の講堂で捧読をする、これは世界に見せなければならぬ。世界に日本の教育はこういう風であるということを宣伝しないということはそれはいかぬ」「しかしない」「ないなら今からすぐ翻訳させなさい、そうして早く外国の教会及び各学校へ送りなさい」「調べたがどうもこんな勅語なんかは翻訳が難しい、翻訳出来る者が文部省にもおらねば大学にもおらぬ。気の毒だが君等やってくれ」ということになって、イギリスで教育を受けた菊池大麓、末松謙澄、アメリカで教育を受けた新渡戸稲造、神田乃武、それと私、この五人が教育勅語を英訳するように牧野文部大臣から頼まれた。そこで吾々五人が文部大臣の官舎に寄って数日かかって翻訳して文部大臣に出したのが今の文部省にある英訳である。それから欧米に発送されて、日本の教育はこういう詔勅に基いて出来たということが知られて、その結果すぐ効果があった。この事をロンドンの大学が知るや否や、これは一つ幸いにイギリスの大学を卒業した菊池大麓氏がおる、この人を呼んで来て貰おうと言って文部省の方へ交渉があった。文部大臣から菊池氏に話があって、菊池氏がロンドンに行って日本の教育制度を教育勅語を骨子として報告し、更にそれに関する本まで発行した。菊池氏は三ケ月程滞在して帰って来た。この日本の教育制度をロンドンで講義したのもこの教育勅語を英訳してロンドンに送ったからである。その他アメリカあたりでも又諸所から日本の学者を招待して教育勅語を講義して貰っておるような次第である。

漢語制限で勅語に穴をあける

かくの如く有難い教育勅語である。ところが明治四十一年の七月に桂内閣が出来て、その時に文部大臣に任ぜられたのが小松原英太郎氏である。そうして当時漢字の事について色々論があった、漢語制限ということが喧しかった。ローマ字にするという説もある、それで国語調査会という会が文部省に置かれた。そうしてその国語調査会の中には外国語に通ずる大学教授並に学校教員、漢学者及び当時新聞、雑誌の記者で学問ある人を網羅した。この会に於て国語制限の目的で千七百字位に漢語を制限した。これは又制限するのも無理はない、私なども制限には大賛成である。というのは当時、明治四十年頃は漢学がだんだん頭を持上げて来て、漢学も再興して来た。然るに漢学者の弊がここにある。彼等は努めて普通の漢籍の読める者が読めぬような難しい熟語を康煕字典等から引っ張り出して論文を書いて出す、これは甚だ宜しくない、それがためにこれが教科書に出るから学校の先生がどこを見ても分らぬ。これが史記とか、外吏とか、十八史略とかいうような簡単なものであれば宜しいけれども、六ツかしい漢籍の中から引っぱり出した文章を読本の中に入れるから喧しくなってくる。どうしてもそういうのは追っ払って単純な漢文字にしようというのが吾々の目的である。そこで文部省が国語調査会を設けて学者、教育家及び新聞雑誌の文筆を以て立っておる人達を集めて相談した結果、千七、八百字に限った、それが官報に出た。ところがここに不都合なことが起った。中学校、師範学校の漢学の先生がその官報を見ると、制限されたのはいい、教えないのはいい、がその制限された中に教育勅語の中の難しい字が二十字はいっておる。「中外ニ施シテ悖ラス」の「悖」という字、「拳々服膺」の「拳」と「膺」の字、その頃の新聞を見ておると「けんけん服よう」と点が打ってある。甚だしきに於ては「御名御璽」の「璽」の字が削ってある。ここで中学校、師範学校の漢学の先生が喧しく言い出した。「これはいかぬ、制限をしてもいいが、この教育勅語の中の二十字だけは元へ戻してくれ」と言って文部省に迫ったけれども、文部省は「一旦調査会に於て決めたのだから今更変えるわけに行かない」そこで漢学の先生等が私の所へ来て、「どうかあなたから文部大臣に言って下さい」というから、私は小松原文部大臣に会ったところが、「あれはもう国語調査会で決議して、官報に出したから変えられない」「私もあの漢字制限には賛成だ、決議する時には難しい字を削れというので削ったのだろう。しかし教育勅語の文旬と照し合わせはしなかっただろう、と私は推測する。これは私は決して文部大臣を攻撃するのではない、元へ戻した方が穏便にすむから」と言ったが、何とかかんとか言って聞かない。

幾変遷の後漢字復活す

それから私はその次の文部大臣にも会った、数代の文部大臣に会ったが変えない。元へ戻さなければ喧ましい問題になる。教育勅語に二十の穴をあけておるということを攻撃されたら文部大臣は何と答えるか、これは議会の問題になったら大騒動であるからこれを元へ戻した方が宜しかろうと言うたが中々しない。私も仏の顔も三度ということがあるから勧告をやめた。そうするとその後国学院総長の江木千之助君が清浦内閣の時に文部大臣になった。これは吾々と同志の者であり、国粋論者であり、又勤王家である。これが大臣になったならば元に戻すだろうと思って、私は直ぐ新任の喜びを申すと同時に、「君が文部大臣になって、年来吾々が忠告しておるが、教育勅語に二十の穴があるところを元へ戻すがよかろう」と勧告したところが、「それは賛成だけれども自分は文政審議会を設くる胸算があるから、それを創設してそれに諮問をしてそうして元に戻す」と言う。それから私は怒った。「それは何事か、小松原以来歴代の文部大臣もこの事を知りながら言を左右に托して逃げておる。

今日文政審議会にかけることは教育制度の大体とか、或は各学校の系統連絡とかいうような所謂文部行政の大体の諮問をするものである。この教育勅語に二十の穴のあいておるのは誰が見ても不都合だ。それを元に戻すのに文政審議会に諮問する必要はない、壁頭第一にやり給え」「僕はどうしても文政審議会にかける」「それならばよいようにおやりなさい」と云うて別れた。その後私は口を閉じて何にも言わなかった。ところがその後田中隆三氏が文部大臣になった。これは私が農商務省におった時に鉱山局におって知っておる人だから、新任の時に会って「実は我輩は文部省を攻撃するとか又文部大臣を攻撃するとかいうような意味は持ってはおらぬ、私は誠心誠意忠告する。この教育勅語に二十の穴のあいておるのはこれは明治天皇に対して文部大臣が容易ならぬ責任を負わなければならぬ、これは君が文部大臣になった以上は早くこれを元へ戻しなさい」と言って忠告をした。「よく分りました、それは私も初耳ですから何れ文部省でよく調べた上で……」「いや私は今言う通りこれを日本の国体と明治天皇の叡慮とにより議論すれば多々あるけれども、今日は議論はもう聞きたくない。唯やるかやらぬとかの一言を聞けばよろしい」ところがその後一週間ばかり経って新宿御苑で観桜の御宴があった。こちらに枢密顧問官がいる、向うに内閣の人がいる、文部大臣が席を離れて私の所へ来て、「実はこの間のお話の教育勅語を元へ戻すということについて御注意があったので、早速私は文部省の当局者と協議したところが中々反対だ。皆その国語調査会にかけてそうしてその結果官報に出てから十何年も経っておるから、今更変えるということはいかぬと言って文部省では大反対であった。しかし私はあなたの御説が御尤もであると思うから、議論はもう尽きておる、国語調査会の決議であろうが何であろうが、これは文部大臣の監督の下にやったのである。自分は文部大臣の職権で元へ戻すということに命令した。明日の官報に出るから御覧下さい」と返事した。依って翌日の官報を見ると始めて教育勅語の文字が元へ戻っておる。小松原英太郎氏が穴をあけてから以来十何年目だ(笑声)。これで始めて今日の如く教育勅語の二十字が無疵になった。

明治天皇崩御と各国の教育勅語に対する称讃

そこでさきに申上げた通りに、アメリカの晩餐会でアメリカ人が耶蘇教のバイブルと同等に教育勅語を視て子供に教えるという位だ。それから明治天皇が御崩れになった時に世界各国の新聞・雑誌が御聖徳を称讃し奉って、まあ色々あります。憲法制定とか、条約改正とか色々ありますが、教育勅語を如何に言うておるかということを私が翻訳しておきましたからこれを皆様に朗読致します。これが世界の文明国に如何にこの教育勅語が影響を及ぼしたか、如何に外国人が考えたかということを私が読み上げる。アメリカの「ノース・アメリカン・レビユウ」という雑誌はこういうことを書いておる。
明治天皇の教育勅語はその文体及び内容においても実に世界に於ける千載不磨の文学なり。
と書いておる。それからイギリスの「ナインテインス・センチュリー・アンド・アフター」という雑誌、これが一九一二年の九月にこういうことを書いておる。
陛下が人民に対して実践的の範を自ら示し給いたるは実に能う限り最もよく帝王たる職分を自覚し給い、その職分の為に忠実なる君主たらんとするにあらせられたり。これの理論的訓戒も亦実にこれとその趣を同じうすることは今尚全帝国の学校に於て必ず捧読せらるる勅語によりても窺い奉ることを得べく、日本人のこの勅語に対する、我等の十誡に於けると殆んど等しき尊敬を以てす。

又英国の「評論の評論」という雑誌がある。これは一九一二年の八月にこういうことを書いている。
先帝陛下の教育勅語は幾多の国家に対しても模範となすを得べく、而して教育なるものは国民の真心なる基礎を造り得べき実際的承認たる事を示すものなり。

又上海でドイツ人の発刊する東亜「ロイド」にこういうことを書いておる。
陛下の賜いし教育勅語は新日本の教育に関する永遠不朽の基礎を成すものなり。
その他英・米・ドイツ、まだ沢山ありますが、こういう具合に教育勅語というものを外国人はこういう風に見ておる、千載不磨のものである、新日本を造り出した基礎である。かくの如く外国人がこの教育勅語を称讃し奉った。実に吾々は如何なる幸福なる人民であるか諸君と共に明治天皇の御徳に非常な有難さを感ぜざるを得ぬのであります。

道徳を疎外した現代教育と教育勅語の深義

ところがここに最後に申上げなければならぬことは、先刻も申上げた通りに今日は欧米の文明は行詰っておる。殊に欧洲大戦乱の後、社会は紊乱(びんらん)、人心は不安、職業は失業者が多い、経済界も欧米は行詰っておるということは、日々の新聞を見ても分っておる。そこで今日は殆んど欧米の政治家は行詰りの社会を如何にして回復しようかということが目下緊急の問題である。詳しくは申上げられませんが、あなた方ご承知の通り、既往一百年の間の科学の進歩は発明の数限りなく多く、そして機械の製造工業の発達したことは夥しいものである。世界は物質的に恵まれておる。これに反して逆比例に道徳は段々萎縮して振わない、社会は紊乱し、人心は険悪化する。

そこで物質的進歩と道徳的の観念が逆比例になって来て今日は行詰っておる。日本も同様で、非常時だとか、危険思想が多いとか、人心が不安だという。社会が動揺しておる、日本だけではない。今日のこの世界の問題が日本にも影響を及ぼす、これは非常に重大な問題である。私は先年アメリカで一番有名な、皆様もお読みになったであろうが、モウダン・ヒストリー(近世史)それを書いた人はアメリカのコロンビヤ大学のムーン、ヘイス両教授、この人が書いた本の中に、近世欧米の文明は全く物質的のみに傾いて道徳が疎外されるから今日のような形勢になったということを述べて、結論にこういうことを書いておる。

この形勢を刷新する急務は道徳と教育の問題である。今日ヨーロッパの行詰り、かくの如き現今の状況を熟知すること最も必要なり。又同時に学識のみにては善良なる人民、又成功する人物を養成すること能わざることを熟知せざるべからざるなり。

現に現今の社会を見よ、高等の教育を受けたるものにして監獄に繋がれたる罪人あるにあらずや。学識のみを備えて善良なる行為が伴わざれば最も危険なり。これを改革するには今日の社会は学識と道徳とを併せ有することが緊要なり。この二つの資格を備えたる市民が存在せざれば我が国(アメリカ)の将来は実に暗黒なり。故に善良なる市民が存在するに至りて初めて、この地球は既往数千年間人類が生存したる現況より遥かに善良なる状態を現出するに至らむ。

どうしても今日は教育と道徳とを並行させて行かなければならぬというのがこの人の結論であります。欧米の文明が行詰っておるのは学問ばかりで道徳を疎外しておるからで、学問と道徳とを並び有する人民を造るのが一番必要である。その人民をつくるのは教育の外はない。それで私は今日の日本を観るに、学問は進んでおる、無線電信もつくる、五万トンの軍艦も製造する、又立派な学者も出来た、どんな仕事でも欧米人に負けることはない。かくまで六十九年の間に日本が進歩したのは明治天皇の「智識ヲ世界二求メ大イニ皇基ヲ振起スヘシ」という教育の方針からである。ところがそれと同時に当局者が「聖喩記」にある通りに、道徳ということを疎外しておって顧みなかったから今日のような有様になった。社会は暗黒、人心は不安である。丁度ヨーロッパ、アメリカと同じようになる。これは文明の教育は同じ経過を辿るということは当り前だ。吾々はこの難局を打破するのは何によるか、欧米諸国にはその打破する方針がない。幸いに我が国に於ては明治天皇の賜った教育勅語というものがある。これは初めから終いまで忠孝・仁義・一朝事有らば義勇公に奉ず、夫婦和合、実に人間としての行為の標準もあれば、学問する時の標準でもある。軍人としてのこともある。憲法・法律を守れということもある。この教育勅語さへ守っておれば、治安維持法で括られる大学教授もない。この有難い教育勅語を戴いて日本国民は世界に独歩の地位を持っておる。この非常時を打破し、この社会の刷新改革をして日本帝国を泰山の安きに置くのは教育勅語を励行さへすれば何のこともない。新に国策を決める必要もない。新に学者の意見を聞く必要もない。この教育勅語を遵守し、奉戴してこの精神さへ実行すれば我が国は必ず危険の域を脱し、人心の不安を一掃して安楽国となるということを私は確信して疑わない。

よってこの明治天皇の記念館に於て、この明治天皇の下し賜りました教育勅語の精神を諸君は十分奉戴して、この大阪市から一つこの教育勅語の実現を図って、而して全国的にこれを普及さして、我が国を行詰りから救われんことを私は希望してこの講演を終る次第であります。(拍手)

金子堅太郎略歴
嘉永六年(西暦一八五三)~昭和十七年(一九四二)
明治・大正時代の政治家ー福岡藩士の家に生まれ、一八七一年藩主黒田長知のアメリカ留学に従って渡米、ハーバード大学で法律学を修む。帰朝後元老院書記官となり憲法の研究に従い、伊藤博文に重用されて明治憲法の起草に参加、第一回帝国議会で貴族院書記官長、第三次伊藤内閣の商務相、第四次伊藤内閣の法相を歴任す。
又、立憲政友会の創立委員で、日露戦争当時アメリカで外交工作に活躍、その後枢密顧問官となった。
「関西師友」昭四十一年九月号




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11 コメント

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Unknown (fuzu-fuzu)
2008-03-03 11:33:21
将来、将来です。わが国の教育の原点として、改めて研究の対象にする時代が来るでしょうか。家庭、国家、世界と、どこを捉えても現在のわが国の制度は逆ですね。
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人間の原点 (70代の青年)
2008-03-03 13:37:00
教育の原点は「人間教育」に有ります、人間を作るのに最適なのが「教育勅語」を理解する事。
口語文でも良いと思います、是非「小学校」一年生に暗記させる事をすれば日本は立ち直ると思います。

”私達の祖先は道義国家を目指して日本の国を建設されたと信じています。、先人も忠孝の道を理解し、心を合わせて今日まで成果を挙げて来ました、これは日本の優れた国柄の賜物、教育の根本も、道義立国の達成に有ると信じています。
皆さんは子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は助け合い、夫婦は仲良く、友人を信じ、自分の言動をつつしみ、全ての人に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念、知識を養い、人格を磨き、進んで社会公共の為に貢献・法律・秩序を守り非常事態の折には国の平和と、安全に奉仕しなければなりません。
将来も祖先の教訓は変らないものです、この教えは正しい途で有り、この教えは日本だけでなく外国で行なっても間違いの無いものです、祖先・父母の教えを守り、立派な日本人に成って下さい”

拙い口語訳ですが何処に悪い処が有るでしょうかね?
世界の人が自国でこの「教育勅語」を理解されれば、素晴らしい世界が出来上がると思いますよ。
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Unknown (ななな)
2008-03-03 14:04:14
こんにちは。以前コメントさせて頂いたことがあります。
こちらに初めて伺って以来、日本の歴史(平泉さんの本のご紹介ありがとうございました)、戦争のこと、今の日本のこと、色々なことを調べ、美しい日本が壊れていくことを肌で感じられるようになりました。
色々勉強する中で、教育勅語にも出会い、今、小学校1年生の娘に、教育勅語と修身、論語の読み聞かせや、論語の素読を一緒にしています。私自身、とても勉強になっています。
教育界にぜひ、教育勅語と修身の復活をして欲しいと願っています。
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「国民道徳協会訳」の全文 (50代のおじさん)
2008-03-03 16:23:44
問題の多い「国民道徳協会訳」の全文

 私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を完うして、全国民が心を合せて努力した結果、今日に至るまで、美事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。
 国民の皆さんは、子は親に孝養をつくし、兄弟、姉妹はたがいに力を合わせて助け合い、夫婦は仲むつまじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じあい、そして自分の言動をつつしみ、すべての人々に愛の手をさしのべ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格をみがき、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、身命を捧げて、国の平和と、安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然のつとめであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、更にいっそう明らかにすることでもあります。
 このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、このおしえは、昔も今も変らぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、まちがいのない道でありますから、私もまた国民の皆さんとともに、父祖の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。
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有難う御座います (70代の青年)
2008-03-03 18:00:58
「おじさん」ご丁寧に有難う御座います。やっぱり口語より「原文」が良いですね、どうも自分で書いていて「頼りなく」感じました。
口語文シャキッとしないのです、何だか真綿の上を走ってる様な感じ・・難しい。
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70代の青年さんへ (50代のおじさん)
2008-03-04 09:39:30
とんでもない。70代の青年さんの案の方がよっぽどgoodですよ。「国民道徳協会訳」は、問題の多く、「臣民」をすべて「国民」に置き換え、「皇祖皇宗」「国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ」なども無い。これが、明治神宮や靖国で配られていました。
私は教育勅語で、一番大切と思うところは「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」だとおもいます。「天壌無窮のご神勅」が、日本・天皇・国体の全てが凝縮しているとおもいます。天照大神の子孫が豊葦原瑞穂国を治めていく限り、永遠に栄えていくでしょう、と瓊瓊杵尊に祝福を受けて、天下ってきたと『日本書紀』にあります。
皇孫に勅(みことのり)して曰(のたまはく)、「葦原千五百秋之瑞穂国(あしはらのちいほあきのみづほのくには)是(これ)吾子孫(わがうみのこの)可主之(きみたるべき)地(ところ)也(なり)。宜爾皇孫就而治(いましすめみまついてしらすべし)焉。行給矣(さきくゆきたまへ)。宝祚之(あまつひつぎの)隆(さかえまさむこと)当与天壌無窮者矣(まさにあめつちときはまりなかるべし)。」
この神勅の成就の為に、先人は赤き血を流し、悲しきむくろを積み重ねてきたとおもいます。
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Unknown (まさ)
2008-03-10 18:23:55
fuzu-fuzuさん。
世が乱れれば乱れるほど教育勅語の必要性が増してくるでしょう。
戦後占領軍の行った政策の効果が今出てきているように感じます。
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Unknown (まさ)
2008-03-10 18:26:11
70代の青年さん。
>教育の原点は「人間教育」にあり。
英・数・国・理・社とできるのが良いのに決まっていますが、それ以前に「人」ですね。
学校教育でその事が最近は忘れ去られているようです。
「国は人でもって興り、人でもって滅ぶ」とも言います。
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Unknown (まさ)
2008-03-10 18:27:11
なななさん。
久しぶりです。
精神の荒廃を止めることはなかなか簡単にはいかないでしょうね。しかし、まだ壊れていない精神を伸ばすことは出来ます。

教育勅語や修身、論語の読み聞かせなど将来が楽しみですね。
返信する
Unknown (まさ)
2008-03-10 18:28:06
50代のおじさんさん。
国民道徳協会の訳は確かにおかしいですね。
しかし明治神宮のHPにも国民道徳協会の訳が掲載されています。

拙ブログの訳もご覧下さい。
http://blog.goo.ne.jp/misky730/e/bbc56bd214a9c25c62b6f94da8c6fbd6
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