一燈照隅

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山岡荘八の回想

2006年05月09日 | 大東亜戦争
小説「徳川家康」や「明治天皇」の作家である山岡荘八は、戦時中海軍報道班員でした。その山岡荘八が回想の中で昭和二十年五月十一日に鹿屋基地を飛び立った特攻隊の神雷爆装戦闘機隊筑波第一隊長西田中尉についてのエピソードを書いています。

彼の出撃していったのは五月十一日。その二日前に死に装束の一部である新しい飛行靴が配給された。と、すぐさま彼は、しばらくあとに残ることになった部下の片桐一飛曹を呼んだ。
「そら、貴様にこれをやる。貴様とおれの足の大きさは同じだ」すると、いかにも町のアンチャンといった感じの片桐一飛曹は、顔色変えてこれを拒んだ。
「頂けません。隊長の靴は底がパクパクであります。隊長は出撃される…いりません」
「遠慮するな。貴様が新しいマフラと新しい靴で闊歩してみたいのをよく知っているぞ」
そう言ってから「命令だ。受取れ。おれはな、靴で戦うのでは無いッ」
そうした中尉の態度は、もう何を訊ねても、そのために動揺するような気配は全くなかった。
そこで私は古畳の上に胡座して、教え子に最後の返事を書いている彼に、禁句になっている質問を矢つぎ早に浴びせていった。この戦いを果たして勝ち抜けると思っているのかどうか? もし負けても、悔いはないのか? 今日の心境になるまでにどのような心理の波があったかなどを… 彼は重い口調で、現在ここに来る人々はみな自分から進んで志願したものであること。したがってもはや動揺期は克服していること。そして最後にこうつけ加えた。
「学鷲は一応インテリです。そう簡単に勝てるなどとは思っていません。しかし負けたとしても、そのあとはどうなるのです…おわかりでしょう。われわれの生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にも繋がっていますよ。そう、民族の誇りに…」
私は、彼にぶしつけな質問をしたことを悔いなかった。と、同時に彼がパクパクとつまさきの破れた飛行靴をはいて、五百キロ爆弾と共に大空に飛び立っていったとき、見送りの列を離れて声をあげて泣いてしまった。


西田中尉の言った「その後の日本人…」はどうでしょうか。
経済的には発展しましたが、日本人の誇りは何処かに行ってしまったような国民になっています。


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