訳・沼野恭子
新潮クレスト・ブックス
2008年5月 発行
227頁
ドストエフスキーの妻アンナの書き残した日記を手に冬のロシアの旅を続ける「私」
「私」の見ている風景、「私」の心情を読んでいたはずなのに、いつの間にか100年前の夏のフェージャ(ドストエフスキーの愛称)と妻アンナ・グリゴーリエヴナのヨーロッパ旅行の世界に飛んでいる
いつの間にこうなったのか?
「私」の物語とドストエフスキー夫妻の物語には明確な区切りがなくとにかく文章が長い
句点が極端に少なく、いくつものダッシュ―で繋がった文章が果もなく、と感じられるくらい続きます
この文体に慣れた頃から、矢鱈面白くなってきました
妻の指輪を質に入れてまで止められないギャンブル熱
アンナはあきれ果てながらも、怒りっぽく神経質で、気まぐれで、身勝手なフェージャについていきます
ツルゲーネフとの確執
ユダヤ人に対する嫌悪
大作家のドストエフスキーが生身の人間として目の前に現れます
フェージャが死を迎える場面では
「私」もそこにいて、アンナと共にフェージャを看取り悲しんでいるかのようです
ドストエフスキーがユダヤ人を嫌悪していたのは事実で、かなり露骨な表現が使われています
ドイツ人に対してもかなり批判的
マーク・トウェインの黒人差別やモンゴメリの階級意識なども同様
当時はそういった内容でも当たり前のこととして受け入れられていたのでしょうが、今、ストレートに書かれているのを読むと、良いのかしら、と少々心配になります
ドストエフスキーがお好きならば読んでみてはいかがでしょう
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