今朝、駅の売店で新聞を買い、いつまでこう蒸し暑いのかと、
明石海峡に面した駅で列車に乗った。おおむね毎日である。
短い通勤時間のお陰で、いつも流し読み、あとは昼休みだ。
だが今朝は違った。列車に乗り、一面をざっと見て、と思い
きや、そこに「大型客船の受注再開」の文字が踊っていた。
長崎の某造船所である。胸が躍った。知った人でも乗ってい
れば、いったいどうしたんだと、訝しい目で見られても仕方の
ない動揺に襲われた。「待ってました」とばかりの興奮である。
昭和33年春、齢49歳で祖父が死んだ。生前、私が大きくな
ったら、四日市の機関車工場に入れろと、まるで遺言(結果
そうなったが)のように、母に言っていたと、ずいぶん大きくな
ってから聞いた。自分は、船大工の家に生まれ、呉の海軍工
廠で技手(造船技師の下で設計をする技術者のこと)として、
青春を送っていながら、栄養失調で足を患い、夢破れたこと
が影響していたのか。そのくせ赤子の私に木製の三角定規
やⅠ定規(船舶用の長尺もの)を渡して、おもちゃにさせてい
たというから、その心中たるや、複雑なものだったのだろう。
私は祖父の意に反して造船の道へ進み、やがて「面舵一杯」
の憂き目に遭うのである。祖父が死んで25年後のことだった。
もう船は造れない、というひとつの現実を如実に認識したのは
倒産から数年を経た後であった。人の心の傷の痛みを知った。
それからまたちょうど25年の時を経て、今年春祖父の50周忌
を営んだ。私はとうに祖父の年齢を超過し、五木寛之ではない
がすでに「林住期」に入っている。学生期・家住期で人生50年、
そして林住期・遊行期と、100年を4期に分けた古代インドの
考え方である。どこか自分の人生に符合するような気がする。
さあ、遊行は75歳を過ぎてからにするとして、新しい目標が
定まった。人生意気に感じる。ありがたいものである。某造船
所の方々の、万分の一かの夢の、お裾分けを食んでいこう。
三神