三神工房

2006年1月11日から約8年、OcnBlogで綴った日記・旅日記・作品発表は、2014年10月gooへ移動しました。

「大型客船建造」

2007-10-31 | 日記・エッセイ・コラム

今朝、駅の売店で新聞を買い、いつまでこう蒸し暑いのかと、
明石海峡に面した駅で列車に乗った。おおむね毎日である。
短い通勤時間のお陰で、いつも流し読み、あとは昼休みだ。

だが今朝は違った。列車に乗り、一面をざっと見て、と思い
きや、そこに「大型客船の受注再開」の文字が踊っていた。
長崎の某造船所である。胸が躍った。知った人でも乗ってい
れば、いったいどうしたんだと、訝しい目で見られても仕方の
ない動揺に襲われた。「待ってました」とばかりの興奮である。

昭和33年春、齢49歳で祖父が死んだ。生前、私が大きくな
ったら、四日市の機関車工場に入れろと、まるで遺言(結果
そうなったが)のように、母に言っていたと、ずいぶん大きくな
ってから聞いた。自分は、船大工の家に生まれ、呉の海軍工
廠で技手(造船技師の下で設計をする技術者のこと)として、
青春を送っていながら、栄養失調で足を患い、夢破れたこと
が影響していたのか。そのくせ赤子の私に木製の三角定規
やⅠ定規(船舶用の長尺もの)を渡して、おもちゃにさせてい
たというから、その心中たるや、複雑なものだったのだろう。

私は祖父の意に反して造船の道へ進み、やがて「面舵一杯」
の憂き目に遭うのである。祖父が死んで25年後のことだった。
もう船は造れない、というひとつの現実を如実に認識したのは
倒産から数年を経た後であった。人の心の傷の痛みを知った。

それからまたちょうど25年の時を経て、今年春祖父の50周忌
を営んだ。私はとうに祖父の年齢を超過し、五木寛之ではない
がすでに「林住期」に入っている。学生期・家住期で人生50年、
そして林住期・遊行期と、100年を4期に分けた古代インドの
考え方である。どこか自分の人生に符合するような気がする。

さあ、遊行は75歳を過ぎてからにするとして、新しい目標が
定まった。人生意気に感じる。ありがたいものである。某造船
所の方々の、万分の一かの夢の、お裾分けを食んでいこう。

三神


「赤福餅」

2007-10-29 | 日記・エッセイ・コラム

昭和ももう後半の頃だった。ある日私は東京出張の為、新幹線
に乗っていた。朝一番の列車だけに、横浜を過ぎて始まる車内
放送の前に席を立ち出口へ向かった。きっと春だった気がする。

列車が到着する前に、早々と席を立ち、出口へ向かうのは典型
的な日本人だと、なにかの本で読んだ。たしかに海外へ出ると、
最高時速の頃から席を立つ馬鹿はいない。昔のロンドンの地下
鉄など「立ち席は4人まで」と駅員が乗客に声をかけたという。(*)
ことほど左様に、走る列車は危険なものと相場は決まっている。

(*)英語を忘れた。なぜなら、私の語学力では、聞いても意味が
分からなかった。これを調べるとまた飛躍してしまう。よって割愛。

自動ドアが開きデッキへ出ると、年の頃は六十近くか、青い作業
ズボンに白いシャツの男がいた。当時、たいてい車内清掃係は
男で、まるでサンタクロースの如く、大きな袋を抱いて立っていた。
物憂げに左肩を手摺に預け、小さな窓から斜交いに、過ぎ行く
景色を眺めていた。きっと江戸っ子に違いないと、私は思った。

ふと気付くと彼はドア側の手になにか持っていた。それはまるで
蕎麦屋の配達のように、薄い木箱を何段か重ねて持っていた。

「なんです、その箱は」 私は、思うまま、不躾に尋ねていた。
「ああ、これかい、こりゃあ弁当さ」と、親父さんは答えてくれた。
(やはり親父さんは、江戸っ子だった)と、私はほくそ笑んだ。
「どうするんです、その弁当を」と、明かに食べた後の残る箱を、
私はいぶかしんだ。(旅の恥はかき捨てではないが聞きやすい)

「ああ、東京駅で待ってる人がいてさあー。車内で集めた弁当で、
まだ中身が残っているのを、こうやって毎日集めて降りるのさ」
「残った弁当を……、どうするんですかねえ?」「きまってらあー、
料理してたべるんだ。これでも炒めりゃあ、立派なもんよ。」
「ああ、まあそれはそうですが……」「なーに旦那の会社が倒産
してさあ、この春から子供が学校へ行くってんで食費をさあ…」

きっと私は、鳩が豆鉄砲を喰らったような目をしていたのだろう。
親父さんは、列車がホームに滑り込むまで親切に教えてくれた。
(生きるということは、親をそこまで激しい気持ちにさせるのか)
私はそう思うと、確か一度深呼吸をして列車を降りたのだった。

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昔から故郷に美味いものなしと言うが、赤福は懐かしい。正月、
大勢の人でごったがえす伊勢神宮へお参りの帰り家族で寄った。

いったいどうしたというのか。使い回しはいい。食べ残しでもない
ものを衛生的に取り扱えば、人の口に入っても問題はないはず。
しかし、それを大々的に売るとなると、ことはそう単純ではない。
売ってどうする、なんの為にする、それで物事の本質が決まる。

どこかの会社も江戸時代の事とはいえ、元は川に流れる野菜を
拾い、それを漬けて売り、財を成した。誰に恥じるものでもない。

仕事は、お客のため家族で生きるために働くもの。家事は家族が
元気で生きるために働くもの。それが吾身大事になった時、人は
愚痴をこぼし、やがて良からぬ方へ向いていくものらしい。銭だけ
を求めて働くようになった時、それはきっと人間の傲慢でしかない。

自戒を込めて、我が故郷の老舗の、奮起に期待する。

三神


「北海道、志の場所」

2007-10-27 | 日記・エッセイ・コラム

私リストにも記載したが、朝日文庫新刊「街道をゆく夜話」を買った。
最初のエッセイが「北海道志の場所」。1983年6月週間朝日に掲載
されたもの。驚くことに、なんと四半世紀前の作品なのである。

最後の部分を、一部抜粋すると、
『これからの北海道を考えますと―北海道はいま500万人、デンマ
ークだって、500万人くらいの人口です。だからおなじちからを持っ
てもいいわけでしょう。そして東京を睥睨してもいいんです。―
北海道にペンペン草がはえたらどうしようもない。北海道の農業と
牧畜の保護を、本州の場合と別枠にするという意味ですね。そうす
ることによって、自分の国土の一部が非常におもしろい栄え方をす
る。それが、おもしろい果実を生むだろうというこです。』

小説を読む、歴史を読む者は、自分の知らない事実や経験できな
いことを、いつでも好きなときに読むのが面白い。人生転ばぬ先の
杖ともなりうる。しかし作家は、ひとつの小説を書くために創造を巡
らし、同時に裏づけのための書籍を倍して、いやかぎりなく読まねば
ならない。まるで原始林を切りひらくように、はたまた枯れた川の跡
を探し、ふたたび水流を甦らすように、その作業はとめどないはず。

結果、すぐれた作品を残した作家は、作品を頂点としてその裾野に
さまざまな知識や知恵や、感動を有しているものらしい。なぜなら、
その短いエッセイの文章にはなんの衒いもなく、そして確実に人間
を見通し、あまつさえ事実を予見している。あきらかにそれが作家
の志であると、感じるのは私だけであろうか。人の仕事とは、かくあ
りたいものである。

定価:本体700円+税、土曜の午後、忙中に閑あり、至福を得た。
つづきは、時をかけて、これから読んでいこうと思う、

三神工房


「尾道・秋の空」

2007-10-21 | 旅行記

仕事の手前、出張にデジカメを持っていった。あまりの景色の
良さに、夕焼に染まる秋空と、日が沈む西の海を撮っていた。

久しぶりに使ったデジカメの設定ミスで、画面に日付が入った。
まあこれもご愛嬌と気にしない。いつか自分に甘くなっている。
それが、経験を積むということであろう。さもなくば、誰も年など
取ってられない。人生済んだことはもう元へ戻らないのである。

ただ、それがデジタルになると見事に消せる。また加えることも
可能なのである。たとえば桑田圭祐と植木等が一緒に歌い踊り、
駆ける。また黒澤明が笑いながら桑田にメガホンを振る。そんな
CMが、日常茶飯事として茶の間に流れることになるのである。

秋の夕暮れ、学校が終わって散々野原を走り回り、やがて家路
を急いだガキのころ、写真と同じような空があった。山から吹き
降ろす冷たい風が襟元から入り込み、服の中で肌の温もりとぶ
つかって心地よかった。柿を取ろうと登った枝で掌を切り、気が
つけばカサブタになっている。また怒られる!と母を思い、土で
汚しながら帰る道を急いだ。どこかの家からカレーの匂いがして、
もうどうでもいいから、早く帰ってご飯を食べたい一心で走った。

あの風景や、匂いや、母の怒った顔、そして口一杯に頬張った
カレーライスの味は、もうどうやっても戻らない。だからこそ思い
出は胸の奥に刻み、決して無くしたりはしない。容易く得られる
いい思い出よりも、我慢した結果得られる思い出こそ宝である。

ミスをして、しまったと思うよりも、ああいい思い出になったと想う
気持ちを大切に、二度と消さないように、生きていきたい。

三神

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「尾道にて」

2007-10-20 | 旅行記

10月19日尾道出張。夕暮れホテルに入ると、目の前に
海上保安庁の船が停泊中。修理のためであろう、艤装
岸壁に横付けされていた。船名から詳細を調べると、

型式:PL08 (1000t級)
船名:もとぶ
長さ:91.5m
所属:那覇

クリッパー型船首にJCGのBlue Lineが決まっている。

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そういえば、7月にも同じ尾道で出合った彼女がいた。
調べてみれば、500t型であった。 

型式:PM09
船名:くわの
長さ:67m
所属:小松島

べた凪の瀬戸内海をすべるように走っていた。やはり、
Sheと呼ぶに相応しい姿である。            

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