常に思うのは、いかにして勝ち残るか。それが人生の
目的であった。二度と負けたくない。そのためには手段
は選ばない。その影で人が泣き、自分の人格さえも疲弊
させることになるとは、陣場は考えてもいなかった。タ
イミングさえ間違わなければ、人は誰でも同じようにチ
ャンスがあり、それを生かせば努力して金儲けが出来る。
そんな自由を二度と失いたくはなかったのである。
昭和37年、陣場は清水に東進丸遠洋㈱を設立。鮪漁
船十五隻を擁して瞬く間に東海一の鮪扱い量を誇った。
闇市から身を起こしたものは大勢いたが、陣場ほどエネ
ルギッシに働く男はいなかった。絶えず人と人との間を
泳ぎながら情報を得て、人に嫌われても好かれても商売
は上手く行かない。信じれば疑うことなく邁進する。そ
れが終戦後裸一貫でたたき上げた陣場の真骨頂だった。
そんな陣場も銀行だけは嫌いだった。清水でようやく
大きな金を動かすようになって、初めて銀行へ出向いた
陣場は、若い銀行員に邪険に扱われた。人が汗水たらし
て得た金を預けてやろうというのに、応対に出た男の態
度はまるで汚いものでも扱うように横柄な受け答えだっ
た。それ以来、銀行嫌いになった。
だが、陣場の勢いは止まらなかった。盟友小木野の成
功も広まって、銀行の態度は豹変した。金は向こうから
やってきた。頭を下げて懐へ飛び込んできた。
昭和40年5月、四日市臨海町に造船所用地を買収。
新日本造船㈱設立の裏には、静岡を地盤とする南海銀行
の資本が入っていた。
当初、銀行は他県への進出に難色を示した。陣場も県
内の造船所に触手を向けたものの、やはり老舗は受け付
けなかった。結局小木野の政治的な根回しもあって、四
日市の臨海埋立地を安く買収できたのであった。
新日本が漁船を造り、東進丸遠洋から三重遠洋と名を
あらため鮪を扱う。その鮪を極東興業が捌く。回転資金
は南海が一手に扱う。理想的な錬金術システムの完成で
あった。
しかしそこへオイルショック。新日本は商船への脱皮
で凌いだものの閉塞状態。それに比べて戦後30年、世
界の海運会社で十本の指に数えられるまでに伸した李の
東進海運。そして東京一部上場まで果たし、日本の民間
航空会社の雄を手に入れた小木野の極東興業とは、比較
の対象にもならなかった。今新日本を手放せばすべてを
無くす。陣場にとっては新日本が人生の集大成であり、
生きてきた証しでもあった。
(以下次号)