三神工房

2006年1月11日から約8年、OcnBlogで綴った日記・旅日記・作品発表は、2014年10月gooへ移動しました。

三神工房 「面舵一杯」⑦-5

2007-05-31 | 作品発表

 常に思うのは、いかにして勝ち残るか。それが人生の
目的であった。二度と負けたくない。そのためには手段
は選ばない。その影で人が泣き、自分の人格さえも疲弊
させることになるとは、陣場は考えてもいなかった。タ
イミングさえ間違わなければ、人は誰でも同じようにチ
ャンスがあり、それを生かせば努力して金儲けが出来る。
そんな自由を二度と失いたくはなかったのである。
 

 昭和37年、陣場は清水に東進丸遠洋㈱を設立。鮪漁
船十五隻を擁して瞬く間に東海一の鮪扱い量を誇った。
闇市から身を起こしたものは大勢いたが、陣場ほどエネ
ルギッシに働く男はいなかった。絶えず人と人との間を
泳ぎながら情報を得て、人に嫌われても好かれても商売
は上手く行かない。信じれば疑うことなく邁進する。そ
れが終戦後裸一貫でたたき上げた陣場の真骨頂だった。
 

 そんな陣場も銀行だけは嫌いだった。清水でようやく
大きな金を動かすようになって、初めて銀行へ出向いた
陣場は、若い銀行員に邪険に扱われた。人が汗水たらし
て得た金を預けてやろうというのに、応対に出た男の態
度はまるで汚いものでも扱うように横柄な受け答えだっ
た。それ以来、銀行嫌いになった。

だが、陣場の勢いは止まらなかった。盟友小木野の成
功も広まって、銀行の態度は豹変した。金は向こうから
やってきた。頭を下げて懐へ飛び込んできた。
 

昭和40年5月、四日市臨海町に造船所用地を買収。
新日本造船㈱設立の裏には、静岡を地盤とする南海銀行
の資本が入っていた。

当初、銀行は他県への進出に難色を示した。陣場も県
内の造船所に触手を向けたものの、やはり老舗は受け付
けなかった。結局小木野の政治的な根回しもあって、四
日市の臨海埋立地を安く買収できたのであった。

新日本が漁船を造り、東進丸遠洋から三重遠洋と名を
あらため鮪を扱う。その鮪を極東興業が捌く。回転資金
は南海が一手に扱う。理想的な錬金術システムの完成で
あった。
 

しかしそこへオイルショック。新日本は商船への脱皮
で凌いだものの閉塞状態。それに比べて戦後30年、世
界の海運会社で十本の指に数えられるまでに伸した李の
東進海運。そして東京一部上場まで果たし、日本の民間
航空会社の雄を手に入れた小木野の極東興業とは、比較
の対象にもならなかった。
今新日本を手放せばすべてを
無くす。陣場にとっては新日本が人生の集大成であり、
生きてきた証しでもあった。
 
(以下次号)


三神工房 「面舵一杯」⑦-4

2007-05-30 | 作品発表

 陣場は、静岡県で旧制中学を卒業すると呉の海軍兵学
校に入るが、戦況悪化になすすべもなく、四国の山中に
あった防空監視所で終戦を迎えた。志高くとも乗る飛行
機はなく、連日空高く悠々と本土爆撃に向かうB29を
見つけては、「敵機発見」と全近代的な電話で報告を繰
り返す毎日だった。そこへ終戦。なにも出来ない苛立た
しさ。ぽっかりと空いた心の空白。なすすべもなく故郷
へ帰った。 

 戦後の陣場は、すべてが百八十度ひっくり返る世の中
を目の当たりにして、人間の醜さを嫌というほど植えつ
けられていた。敗戦の劣悪な変化と混乱の時期を経て、
いつしか人が変わっていた。いや変わらなければ生きて
いけなかった。それほど敗戦は、まともに生きようとす
るものを真っ先に殺した。 

 静岡に戻った陣場は、魚市場の下働きから身を起こし、
いつしか人相も変わるほど金儲けに徹して働いた。魚を
小売するのではなく、転売することで大きな利潤を上げ
られることを知った陣場は、闇市で暗躍した。そんな頃
である。航空隊くずれの小木野と出会った。

昭和25年、朝鮮戦争が始まると韓国人の李龍耀を仲
間に加え、三人は米軍の物資を横流しすることで大金を
掴んだ。陣場は遠洋漁業を生業として会社を興し、小木
野は東京へ出て商社を作った。そして昭和35年、ベト
ナム戦争が始まると、李が釜山に作った東進海運の船で
アメリカ軍の物資を運び、またもや大きな連係プレーで
資産を増やした。 

陣場は実際李の船に乗り込み、何度もメコン川を登っ
た。日本製の物資はなんであろうと良かった。手配して
届けられれば大金が転がり込んできた。船がベトコンに
銃撃され、ブリッジの壁にドスドスと穴が開いても、決
してひるむことはなかった。

日本国内でも反戦運動が活発になり、戦争で金を儲け
ることは人間の屑だといわれた。しかし他国の戦争で潤
っているのは闇の業者だけではなく、日本全体がその恩
恵に預かっているのは誰の目にも明らかだった。 

(二度と人のいうことは信じない。自分の目で見て、自
分で判断したことが正しい)という信念の陣場にとって、
豊かな国土にいて戦場に出かけるものを非難する輩が一
番許せなかった。少なくともベトナムで戦う若者は自由
のために戦い、その裏には自分の祖国への義務と己の自
由を標榜していた。

 貧しい国土に生まれ、目の前に大海原があれば、人は
海を越えて富を求める。日本人であろうと韓国人であろ
うと、それは同じ。同じ境遇に生まれ守るものがあれば、
誰であろうと道は同じ。小木野と李の三人で修羅場をく
ぐれたのも、その太い絆と友情以外のなにものでもない。
陣場はそう信じていた。 
 

(以下次号)


三神工房 「面舵一杯」⑦-3

2007-05-29 | 作品発表

 11月17日木曜日。社長の陣場大治郎は伊豆の下田
にいた。前日からの極東産業との交渉に失敗した陣場は、
夕方五時過ぎ東京駅から新幹線に乗った。一人こだまの
固いシートに座りながら、自分の身の置き場のないこと
に唖然としていた。 
 
会社が倒産する。二ヶ月早すぎる。そう考えるだけで
気が遠くなりそうだった。どうやって切符を買ったのか
さえも覚えていない。不自然な椅子の硬さが身にしみて、
いやというほど自分の置かれた現実を感じていた。 

陣場は熱海で新幹線を降り、狭い改札から伊豆急行の
連絡ホームへ向かった。
そこでたまたま待っていた列車
が下田行きだった。
電車は各駅停車で、下田まで1時間
20分ほどかかった。その間、窓の外の真っ暗な景色の
中、ぽつんとひとつ相模湾に浮かぶ船明かりが目に入っ
た。陣場は、いったい自分の目で物を見るのは何時間ぶ
りだろうかと、そのとき思った。 

下田の駅はシーズンオフなのか人影もまばらだった。
陣場の乗った電車が最終だったのであろう、一人歩くタ
ーミナルは物悲しいものがあった。それでも陣場は精一
杯胸を張り、無表情の駅員に切符を渡した。背の低い陣
場だけにそれは滑稽な風景にも見えるのだが、大ぶりの
高そうなダブルのスーツが辛うじて身を守っているよう
でもあった。 

別にホテルを予約してきた訳ではない。しかし鄙びた
駅前を見るにつけ、なんどか銀座のホステスを連れて旅
行にきた思い出が甦った。たいてい口説きに口説いた一
番手の女には敬遠され、明らかに金目当ての二番煎じば
かりとしけ込んだような記憶ばかりだった。

それでも陣場はタクシーに乗り込むといつもの自分を
取り戻していた。いつか止まった丘の上のホテルを指名
した。名前は覚えていなかったが、陣場の剣幕に恐れを
なしたのか、
(へい)といって運転手は車を出した。
「おい君、無線で予約取ってくれ」
「はあ…はい、ただいま」
 あくまで順々な男だった。だが言葉とは裏腹にバック
ミラーを覗き見する目には、なんの誠意も浮かんではい
なかった。
(いくら従順でも、腐った目はいかん。こい
つらに比べたら工場の若い連中の目は…)
 運転手の目が人と比べて、というのは陣場の身勝手で、
運転手にしてみれば横柄な客に対して片意地を張っても
金にはならないというだけである。それを陣場は知らぬ
訳ではないが、なにかにかこつけて自分の思いをぶつけ
ていなければ、自分を平静に保つことは難しくなってい
た。 

「おい、女の手配も出来るだろ。金ははずむから部屋へ
よこせ」
 ホテルの車寄せでボーイがドアを開けるのも待たず、
胸ポケットから札入れを出すと、一万円札を引き抜き助
手席へ放り込み自ら車を降りていった。
「ちぇ、なんて客なんだ…」
 
と、独りごちた運転手は、札をシャツのポケットへ押
し込むと車を出した。
(さあて、どこの女にするか)と、
チップ以上の上前を期待して町へ戻るのであった。
 
(以下次号)


工房日記 「JAZZ」

2007-05-28 | 日記・エッセイ・コラム

先日長崎にて、親愛なる先輩より結構なものをいただいた。

”THE GLOVER GARDEN JAZZ NIGHT”

2006年9月30日、長崎南山手のグラバー邸にて行われた
ライブ録音のCDである。岩崎佳子氏のディスコグラフィーで、
DISC-1:WABE/DISC-2:FALLING IN LOVE WITH LOVE他
全12曲が納められている。

CDカバーの表紙に、洒落たハットにダブルのジャケット、細
表の顔に髭をたくわえ、右手に傘を持ったMR.GLOVER。
150年前のイギリス紳士の口から、Good night と聞こえそう。

私が初めて手に入れた、JAZZである。

そして今、手元に BEST JAZZ 100なる、6枚ものCDがある。
DISC-1:思い出のサンフランシスコで始まる。はまってしまった。

思えば1952年生まれの私の世代は、ビートルズに乗りおくれ、
フォークもいい加減。神田川・同棲時代を横目で見て演歌へ。
しかしどれも我が世代の歌といいがたく、いわゆる雑多である。

今からでも遅くないといわれた。ブランディーいやアイリッシュを
傾けながら、ダークブラウンの色調の部屋で独りJAZZを聞く。
そんな情景を思い、今日も心地好い気だるさを、聴いている。

(了)


三神工房 「面舵一杯」⑦-2

2007-05-28 | 作品発表

「吉田さん、L/Ⅰまでは交わしましたよ」
「ああ、そうだってな。おめでとう」
「ありがとうございます。本当はこのことを伝えたく
て電話を入れたんですけどね」
「無理な要求を乗り越えてここまできたんだ。新船型
がある限り会社は潰れやせん。だからこの修羅場を乗
り切って本契約までもっていかねば、これまでの苦労
が水の泡になる。そのために俺たちがいるんだろ山上」

「そう…。私がひるんではいけませんね」
「君の後ろには、うらやましいほどの人材が待っている
んだ。彼らのためにもな…」
「はい、じゃあ東京はお願いします」
「ああ分かった。それじゃあ…」
 山上は吉田の電話が切れるのを待って受話器を置いた。

山上はベットに腰を下ろしたまま天井を見上げた。一
度大きく深呼吸すると、立ち上がって窓のカーテンを開
けた。ガラスから伝わる冷気に逆らって外を見ると、ま
だ朝を知らない夜景が冷たく光っていた。
 ほんの二三時間前、高揚した気分で見た夜景がまるで
違って見えた。アネクッスとの打合せから始まり覚書に
サインをするまで、決して負けてはならないと自分を追
い込んできた。それが終わった。そして束の間の安らぎ
を得たと思った瞬間、一夜も待たずにして奈落の底へ突
き落とされたようなものである。目の前に広がるマンハ
ッタンの夜景が、本当の現実を映し出しているようだっ
た。

 山上は窓際のアームチェアーへ体を預けると、そのま
ま窓の空が茜色になるまで動かなかった。常に冷静に人
に弱みを見せずに生きてきた自負が、山上の体を動かな
くしてしまったのかも知れない。誰にすがる訳にもいか
ない。まして日本から遠く離れたニューヨーク。黒木や
山尾を不安にさせたまま残しては、せっかく築きかけた
アネックス社との信頼関係を揺るがしかねない。山上は
考えつづけた。 

 夜が白みはじめる頃、山上の不安は消え、また忙しく
頭が回転し始めていた。
 

(以下次号)