ミカエルの函館散策記

美しい夜景と異国情緒溢れる町・函館。
名所・旧跡・食べ処をご紹介していましたが今や万屋。
ご訪問に謝々。

第760号 二人旅、再びを夢見て手術

2012年10月24日 | 我が家のもろもろ
ミケの持病・リューマチは、休むことなく進行中。
痛みが強くなり、その範囲も広がってきた。
室内歩行は、家具や壁につかまりながらなんとか。
外は、杖をたよりに・・・。

手指にも痛みが走り、簡単な手作業にも「お父ちゃん、
これやって!」「はいよ!」「ありがとう」。

ベッドや椅子から立ち上がるとき、10分ほどかかっている。
すぐに起きれないのは、足が痛むから。
通院中の院内移動には、車椅子をお借りしている。

ドクターからは、これまで手術を数度勧められていた。
しかし、本人は気持ちの整理がつかずに、返事が延び延びになっていた。

今月の初め、私も同席し手術をお願いした。
右足の膝関節に人工関節を埋め込むもの。そして、11日に入院し、12日に手術を。

当日、9時30分に手術室へ移動。全身麻酔。
病室へ戻ってきたのは12時15分だった。
術後ドクターから、膝の状態について説明があった。
「ボロボロでしたよ。あれでは痛みがひどかったことでしょう。
右がそんな状態ですから、左にかかる負担が大きい。
でも、まだ左は大丈夫。貧血治療が必要ですから、明日から輸血をします。よくなりますよ」。

現在、ミケは約一時間のリハビリ中。
「よくなったら、また二人で旅に出ようね!。最後の旅は平成21年初夏の富良野・美瑛だったものね」。
「家事は私に任せて、ミケはトレーニングに専念して欲しいなぁー」。

新婚から定年まで、共働きで頑張ってもらった。
ゼロ歳で保育園に預けながらの、子育てもしてもらった。
私は土、日勤務が多く、また札幌事業所への出張も多く、ミケには色々と負担多くかけてきた。
私はミケにすっかり8あまえてしまった。深く反省している。

ミケとさよならして、病院から我が家へ戻ると、実に寂しい。
ミケだって私が帰ると、きっと寂しいにちがいない。

夫婦はやはり同じ屋根の下で暮らさなくてはね。
一人での夕食は、いやだなぁー。


ミカエル




第759号 ブラみかえる

2012年10月21日 | 公園
意味不明なタイトル。
今、流行りのショートな単語並べ遊び。
妥当なタイトルは「ぶらり五稜郭」だろうか。(ぶらタモリをひねってみた・笑)

目的を持たずに、ただひたすらに何も考えずに五稜郭をぶらぶら。
平地の木々が色づき始め、歩く女性の姿はお洒落を楽しんでいるようで、シックな装い。
お化粧も実によく決まっている(MAXファクター?資生堂?コーセー?ちふれ?)。

最初の被写体は、道立函館美術館。
力強い像を見ていると、我がスケールの小さいことに、肩を落としてしまう。



空、タワー、美術館、街路樹との色彩競いも季節感を与えてくれる。



堀に架かる一の橋手前で、散歩中のワンちゃんと顔合わせ。
飼い主も幸せそうだった。





二の橋を臨んだ。
堀の水がかなり汚れていて、緑がかっている。現在、新鮮水は雨のみ。
砂ぼこり、落ち葉、落ち花、風に飛ばされた一般ごみ、信じられないが自転車なでも
堆積している。
五稜郭完成時には、亀田川の水を引き、飲料水や堀水として利用。




明治初年から堀水を活用して製氷業が起きた。
船便で横浜まで運び、「龍文氷」として人気があった。

奉行所が建っている中央広場。
郭内の目隠しのために植えられた佐渡島産の赤松。
雪の重みでご覧のとおり変形。
下の枝は、完全に地面に接している。
「人」という文字を思い出してみた。「互いに支えあって生きよう」と、教えてくれているようだ。



奉行所が復元される前、郭内に博物館分館があった。
その前にあった大砲二門。どちらも箱館戦争で使われた武器。
右側細い砲身のがドイツ製で、明治政府軍の艦載砲。
左側メタボ砲身なのが、イギリス製で旧幕府軍が使った陸砲。

右物は、北斗市七重浜で撃沈された「朝陽」から引き揚げられたもの。
左物は、市内豊川町赤レンガ倉庫群一角にある「ぎょれん」の建物新築中に発見された。
性能は、ドイツの勝ちだった。



奉行所を見学するとき、裏に回るのがくろうと。
変わった角度から新発見。それと、天候のよい日は、雨戸など開放しているので、
内部をタダ見ができる。(せこいなぁー)







タワー横にある「箱館戦争供養塔」。
いつも花が絶えないのは、タワーのご好意によるものと思われる。



ここは神山町にある浄土宗・大円寺。五稜郭北約2キロに位置する。



ここには、郭内で亡くなったお奉行の家族のお墓(一人一基)がある。



また、、五稜郭建造時に殉職された身元不明の方々の慰霊碑がある。



これらは、市民の目にあまりふれることなく、ひっそりと眠っている。
ご住職が霊を弔っているので安眠できるのだろう。
有難いことだ。

半日の「ぶらり五稜郭」は、これでおしまい。
書き残しがあるけれど、あまり長くなるとね・・・。

また、ポカポカ陽気日を選んで歩きたいと思う。
その際には、今回の不足文も含めたい。

朝晩の冷え込みが応えるようになってきましたね。
どうぞ、体調を崩しませんように!


ミカエル





第758号 帆船の貴婦人・日本丸が寄港 

2012年10月18日 | 町の話題
15日、独立行政法人・航海訓練所に所属す練習帆船・日本丸が海岸町の中央埠頭に接岸した。
目的は物資の補給とか。

その美しい姿を見に出かけた。
風が強く、帽子が飛ばされそう。

長い船体、高いマスト。私が持っているコンパクトデジカメでは
一枚に収めることは無理だった。

 

 







甲板下にある居住区の丸窓の多いこと。驚いた。
今回は、実習生112人と教官なども含めた総乗船人員は166名だ。

船体の全長約110m、全幅約13m。総トン数2,570。
マストは4本。40m級3本、38m級1本。
1984(昭和59)年の建造で2代目だ。
最大速度は14.3ノット。通常は13.2ノットで走行する。
(1ノット=毎時1,852m)
帆船の正装は、帆を張って走行するときで、この船はその姿が
美しいことから「貴婦人」とも呼ばれている。

出航は19日。
船内公開もなければ、マストセレモニーもない寂しいお別れ。

世は「省エネ」を奨励する時代。
天然の風の力を巧に活かす帆船は、ルネッサンス期を迎えている。

ところで、帆船を見ると思い出すのが、箱館戦争の際に江差沖で破船沈没した開陽丸。
明治元年のことだった。
この船は、江戸徳川幕府がオランダに建造依頼した木製軍艦。
どのような性能を持っていたのか?

排水量2,590トン。全長約72m。全幅約13m。マスト3本。高さ43m級。
最大速度12ノット(動力使用時) 定員303名。
荒っぽい表現をすれば、日本丸を長さ38m切った位の大きさ。

天気予報、通信手段が確立されていない時代。
蝦夷地の荒海に消えていった開陽に、涙を流した「榎本武揚」の心境が浮かんでくる。


ミカエル

第757号 さて、今日のランチは?

2012年10月15日 | 美味満足技処、買い物処
先週のこと。親戚が手術を受けた。
年齢は私とほぼ同じ。

今日は良いお天気。お見舞いに出かけた。
「では、お大事にしてください」「わざわざ来てくれて有難う」。

時計を見たら11時半。
ここの病院には、レストランがあるのを思い出し、
ランチタイムとすることに。

ランチ調理見本を見て、「これがいい、いいなぁー」。

 



「お待たせしました!」
「今日は絶対完食だ!」と意気ごんだのだが・・・。

600円はお得なランチだった。

「ご馳走様、また来るね!」


ミカエル


第756号 非情なカミナリ!

2012年10月12日 | 町の話題
昨日の当地の天気予報は、「雷雨」だったが、
軽い雨のみですんだのは幸運。
今年は全国的にカミナリの出没?が多かった。

江戸時代の絵画を見ると、彼は頭に角2本を持った鬼で、
虎皮パンツを穿いて、背中には豆太鼓を背負っていた。
この頃でも、恐ろしい存在であったのが証明されている。

数ヶ月前、大阪郊外のライブ公演会場に雷鳴が響いた。
開始前とはいえ、観客は相当数。
大方は近くの既設公衆トイレに逃げ込んだが、
入れなかった人たちは、このトイレ近くの木の根元に避難。
雷雨から身を守ろうとした。

しかし、カミナリは容赦なくこの木を襲い、2人の人命を
奪ったという。
人生は紙一重で、幸、不幸に分かれるものだと、改めて思い知らされた。

函館での落雷による死者は、ここ十年はなかったような。
しかし、今から20数年だったと思うが、信じられない落雷死者が出た。

新婚旅行に函館を選び、楽しんでいた若い二人。
函館山麓にある函館公園で悲劇は起きた。
雷鳴が鳴り響いたために、公園内にあった「東屋」に避難。

「東屋」の構造はすごく簡単。
外壁兼内壁は腰の高さまで。
カミナリは、ご主人のズボンベルトバックルに落ちた。
即死だったと新聞は伝えていた。

美しい夜景、ロマンあふれる町並みをご覧になりたくて、
楽しい記念となる新婚旅行に函館を選んで下さったのに・・・。
お見舞いの言葉がうかんでこなかった。


ミカエル

第755号 いっきゅうさ~ん!

2012年10月02日 | 教会、寺院、神社、墓地、碑、像
五稜郭タワーの向かいにある「最上寺」。

 

こちらの境内に入って、珍しい工作物を発見し驚いた。
それは窓なのだが、まるで「日本昔話」に登場する味のある構造。

 

 

だから「いっきゅうさん」が出てきても、不自然さを感じさせない。
この窓「かとうまど(火灯窓)」と呼ぶ。

おもに寺社建築・城郭建築・住宅建築などに見られる。
上枠を火炎形(火灯曲線)または、花形(花頭曲線)に造った特殊な窓。
ほかに、華頭窓、架灯窓、瓦灯窓などと表記する。

歴史的あゆみ。
元は、中国から伝来したもので、禅宗の窓として使われていた。
しかし、安土桃山時代頃にそのデザイン性から、
禅宗以外の仏教寺院でも、また、仏教建築ではない神社や天守などにも採用。
城郭建築、書院造の邸宅に使われていった。
また、仏教建築以外にも、
イスラム教やキリスト教の宗教建築にも見ることができる。

国際的ブランド建造物で、この窓を見ることができるのは、
①円覚寺舎利殿(15世紀前半)
②慈照寺銀閣(1489年)
③松江城天守(1607年)
④西本願寺書院対面所(1632年)
⑤姫路城小天守(1601年)

近代化建築が隆盛となればなるほど、
哀愁を感じさせるこの窓の存在が大きいと思う。


ミカエル