正月の6日、7日の両日、「新春ドラマスペシャル白虎隊」が放映された。
もう10年ほど前にもなるが、秋の会津を訪れた。
鶴ケ城、藩校日新館、家老屋敷、白虎隊記念館、飯盛山を見学、会津戦争の悲惨さと会津武士の礼節・忠義心を深く感じた。
そんな思いとドラマを重ね合わせ見ていた。
要約すると、家の伝統的教育方針に素直に従った隊士、その子に向けた母親の愛情を描き出した作品だった。
十代の若者が、あのような背景のなか自ら命を絶ったのであるが、このような悲劇は太平洋戦争にもあり、まさに歴史は回転木馬のようだ。
鹿児島県・知覧町にある「知覧特攻平和会館」にその史料が数多く展示している。
幼顔の飛行兵が出陣前に家族に宛てた手紙は涙を誘った。
戦時中であるから粗末な紙にぎっしりと書かれた最後のことば、笑顔の写真。
帰りの燃料はない飛行機に、体当たり用の爆弾を抱え、南方沖にたった一人でで飛び立った心境を考えると涙が頬を走った。
現在の「平和な国日本」は多くの人達の犠牲・苦労の上に成り立っていることを忘れてはならない。
安易に人を危める事件が多くなっている近頃は、先人達の心を踏みにじるようで恥かしい思いがする。
飯盛山で自決した隊士のうち、ただ一人蘇生した「飯沼貞吉(1854~1931)」は、
どのような人生を送ったのか?まとめてみた。
「貞雄」と改名し、72年工部省へ入省し電気通信技術の研修を受け、下関を振り出しに全国各地で勤務した。
50歳の時、逓信省(旧郵政省)仙台から札幌郵便局工務課長に赴任、1910年仙台逓信管理局工務部長に栄転、1913年に退職、同地で余生を送ったが77歳で死亡。墓地は同市北山の輪王寺にある。
通信技術者の道を選んだのは、城下火災を鶴ケ城火災と誤認し、それが自決原因になったことから、正確な情報伝達の大切さを痛感したからではないだろうか?
札幌勤務時、ハイカラーワイシャツ、ネクタイ姿は喉の傷跡を隠すようにしていたのでは?とも憶測された。
好奇の目で見られる事を避け、生涯昔のことは語らなかったとも言われる。
号を「孤虎」といい短歌を詠んだ。
「すぎし世は夢かうつつか白雲の空に浮かべる心地こそすれ」
ミカエル
大型低気圧の被害はありませんでしたか?
函館は満潮と強風が重なって、赤レンガ倉庫群前道路が海水で15センチほど冠水しました。
今朝は静かな青空が広がり、雪もすっかり消えアスファルト路面が顔を出し、新成人の門出を祝っているようです。
ミカエル