日本で日本語教師

東海地方で、日本語を教えている。

4月25日 いまのわたし

2021年04月25日 23時19分32秒 | 日本
子ども三歳、保育園。
日本語学校勤務。

先天性心疾患についてコメントへの返事は何度も書こうとして、
でも、どうしてもどうしても、かけませんでした。
ごめんなさい。

いま、どうしてるのかな。
笑っている時間が少しでもありますように。

7月4日 妊娠中の「困ったこと」

2017年07月05日 17時21分13秒 | 日本
1)つわり
大体6週目ぐらいから「うっすら気持ち悪い」が始まり、
16週すぎたあたりに「まったく気持ち悪くない!」という状態になった。
わたしのつわりは軽いほうだろうが、
それでもこれまでの妊娠生活で一番つらかったのはこのつわり期間だった。

常時付きまとう吐き気(無理をしてはいてしまうことも)、げっぷ(食後にとまらなくなった)、
胃痛や膨満感(そのせいでまったく食欲はなく食事が楽しくない)、
疲れやすい(体力がなく何をするにもすぐに疲れる)、眠気(とにかく眠い、とくに夕方から夜)…。
これらはつわり期間中ずーっとつきまとわれたが、
何度か頭痛や背中の痛み(腰ではなく背中が痛くなった)もあった。

1回目の妊娠の時より2回目のときのほうが吐き気や胃痛の程度がひどく、つらかった。
ただ、前回同様食べられないものは特になかったのは幸いであったとは思う。

食べ物については、食欲はまったくなかったが、コーラや柑橘系のジュース、
カップヌードルしょうゆ味、マクドナルドのフライドポテトが食べたくて仕方がなかった。
一方、なぜかわからないがルイボスティー、クッキー、チョコレートがだめになってしまった。
クッキーやチョコレートは別にだめになってもいいのだろうが、
妊婦におすすめのルイボスティーがだめになってしまったのは不思議である。


2)体重管理
つわりが明けてから、体重が食べた分だけ増えるようになり驚いた。
私はもともと痩せており、食べても太らないほうだった。
それが外食でパスタを食べてデザートセットを食べたり、
実家に帰って寿司とピザを食べたり、
韓国料理店でサムギョプサルとパジョンとチャプチェを食べたりしたら、
見事に感心するほどに体重が増えた。
炭水化物パワーをこれほど実感したことはない。

検診の際に、医師に体重増加もやはり妊娠しているからだろうかときいたところ、
ごくあっさりと「そりゃ摂取カロリーが消費カロリーを上回っているからだろうね」と。
そりゃそうだ、太ると言うことはそういうことだ。

今思えばなのだが、体重がこの時期に増えるようになったのは、
仕事がひとつ終わったことも関係があったのかもしれない。
通勤に1時間かかり、3時間ほぼたちっぱなしの授業はそれなりのカロリーを消費していたのだろう。

最初は食べることをもうちょっと控えようかともおもったのだが、やはりそれはつらい。
それなら消費カロリーを増やす以外にみちはない。
というわけで、とにもかくにも歩きまくった。
通勤先にも遊びに行くときにも買い物にいくときにも歩いていった。
このときは冬でよかったと思う。
夏なら暑さに躊躇していただろう。

このときは毎日ほぼ1万歩近く歩いていたのだが、それなりに体重は増えていった。
なんだかんだいっても時々外食してしまい、それでがーんと体重が増えて戻らない、
というのを繰り返していった。

しかし、途中から体重の伸びが鈍化し、そのまま妊娠後期に突入した。
今のところ体重増加は6キロちょっとである。
もともと体重があまり増えない体質だったこともあるのかもしれない。

それにしても、だ。
私はもとがやせていたから中期に体重が増えても大して指導はされなかったが、
それでも一言言われたりした。
そりゃ外食を時々はしていたが、普段から食事は健康的なほうだと思うし、
意識して歩くようにしていた。
これ以上私はなにをしたらよいのでしょう、という気持ちになった。

しかし、後期に入ってなぜだか知らないが体重があまり増えなくなって、
「体重管理が上手にできていますね」とほめられるようになり、不思議な気持ちになった。
とにもかくにも増えてなければほめられるらしい。
私が通っていた産婦人科では10キロは増えすぎで、7キロ以下に抑えるようにと言われたが、
適切な体重増加は必要だと読んだこともある(厚労省のHPによると標準で7~12キロとのこと)。

がんばっても体重が増えてしまう人もいるだろうし、がんばらなくても体重が増えない人もいる。
体質も関係しているような気がするので、体重の増減についてそんなに厳しく言われなくなるといいなあと思う。
そりゃ、増えずぎは問題だろうけどさ。


3)足がつる
仕事が立ち仕事なので、夜になると足が少しむくむような感じがした。
そのうえ妊婦はむくみやすいというので、「メディキュット」を購入し、
寝るときにつけるようにした。
が、それと同時に夜に必ず足がつって目が覚めるように・・・。

妊婦は足がつりやすいときき、足がつるのも仕方がないのかと思っていたが、
あるときメディキュットをつけ忘れて、寝たら足がつらなかった。

それ以降メディキュットをつけるのをやめてみたら、足は一回もつっていない。
何がどういう因果関係なのかよくわからないが、
とにかく足がつった原因はメディキュットだったらしい。

妊娠してない時にメディキュットをつけたら足がつらないのか実験してみたいと思う。


4)便秘と痔
私はもともと快便である。
基本的に毎日出る。
が、妊娠していつごろからだろうか、初期からだったと思うが便秘になり、痔(おそらく切れ痔?)になった。
産婦人科で相談したところ痔の薬を出してくれ、それを塗るようになったらだいぶ楽になった。
同時に、つわりが明けて体重が増えだしたので、歩き回るようになったところ、
便秘もあっさり解消された。
この初期、中期の頃の便秘は運動不足が原因だったらしい。

そして便秘にはそれ以降とくに悩んではいないのだが、後期に入って突然「いぼ痔」になった。
肛門にぷっくり大豆のような「いぼ」がある。
またもや産婦人科に相談、薬を塗るようになったのだが、
「いぼ痔」の痛みはなくなったものの、「いぼ」が小さくなる気配は一切ない。
それどころか最近「いぼ」が二つくらいあるような気がする・・・。

妊婦は痔になりやすいという。
出産したら小さくなるのかと期待していたのだが、最近出産した友人にこのことを話したところ、
彼女も痔になったこと、それが出産の際に飛び出して悪化したこと、
そしてそれ以降治る気配は一切ないという話をしてくれた。
あとはもう手術しかないらしいのだが、入院が必要とのことで、
とりあえず今は痛みもないし放置しているという。

わたしの「いぼ痔」ももしかしたら今後長い付き合いになるのかもしれない・・・。
今は出産して「いぼ」が小さくなることを願うばかりである。


5)頻尿
妊娠すると、初期と後期に頻尿になると言う。
初期の頃は夜中に必ずトイレに起きる生活だった。
しかし中期に入ってそれはなくなり、夜にぐっすり眠れるようになったのはよかったのだが、
冬になってまたもや頻尿に悩むようになった。
私はもともと寒くなると頻尿がひどくなるほうで、それが妊娠でひどくなってしまったのだ。

季節があたたかくなるにつれだんだん解消されたのだが、後期に入りまたもや頻尿(ついでに頻便?に)に。
臨月に入り、歩き回ったほうがいいと言われたので歩いているのだが、
途中で必ずトイレに行きたくなる。
これも出産したら治るのだろうか。
いや、治ってくれないと困る。

母が特に外出先などでことあるごとにトイレにいくのをみて、
どうしてそんなにトイレに行く必要があるのか不思議だったが、
出産後の女性は頻尿、尿漏れに悩む人が多いという。
そんなことも、自分が妊娠して初めて知った。

頻尿だの痔だの、そんなことで悩むなんて、妊娠前には思いもよらなかった。

6月30日 妊娠中に買ったもの

2017年06月30日 18時32分30秒 | 日本
妊娠中にかったもの。

1)ユニクロのブラトップ
わりと早い段階(つわり中だから3か月ぐらいか…?)にブラがあわなくなり、購入。
胸がむくむくと大きくなったため。
しかしなぜか、臨月になり少ししぼんできた。
なぜあんな妊娠初期に胸が大きくなる必要があったのだろうか。
これもホルモンパワーなのだろうがふしぎ。

2)カフェインレスコーヒー
カフェインは多少はとってもいいらしいが、気兼ねなく飲むために購入。
私はコーヒーにとってもこだわるタイプでもないので、カフェインレスでもおいしく飲めた。
ちなみにルイボスティーも買ってみたが、なぜかつわり中にうけつけなくなってしまった。
(前に妊娠したときもそうだった)
なぜだか、わからない。

3)小林製薬の鉄分葉酸サプリ
貧血予防のために鉄分サプリを買いに行ったら、袋に妊婦の絵がかいてあるこのサプリを発見。
なんとなくよさそうなので、このサプリを飲み続けた。

4)妊婦用のズボン、スパッツ。
ぎりぎりまで腰回りがゆるっとしたズボンやスカートで生きていたが、
限界を感じはじめて西松屋や無印で購入。
履いてみて感動、こんなに楽ならもっと早くに着ればよかった。

上に着る物は、昨今の流行がだらっとした余裕のあるものであったので、
それを適当にあわせてすんでいる。
特別に買ってはいない。

それにしても臨月が夏でよかった・・・と思う。
服装に関しては冬より楽な気がする。
いや、冬に臨月を経験していないからわからないが、
コートとかニットとか、ふつうの服では臨月のお腹はカバーできないのではないだろうか。
少なくとも、私がもともともっている冬服はわりと体にぴたっとしたものが多いので、
もし冬に臨月だったら、買い足す必要があっただろうなと思う。


特別にかわなかったもの
1)妊娠線予防のクリーム
ふつうのボディーローションをぬっていたが、それで十分だった。
妊娠線予防にはとにかく保湿保湿!とのことだったので、お手ごろな値段の物を買い、
それを十分に塗る、という方針でここまでやってきて、今のところ妊娠線はできていない。
ただ、今が初夏で冬より乾燥していないからできなかっただけ、ということかもしれないが。
個人的には、高ーい妊婦用のローションなどは必要ないように思う。

2)腹帯
実は知人にもらったのだが、結局つけたのは2、3回くらい…。
つけてもつけなくてもいっしょだったので、つけなくなってしまった。
知人の中にはつけると安心した、腰痛が楽になった、という人もいたし、
あってもなくてもどちらでも、というものなのかな、と思う。

ちなみに母親(も義理の母も)は、腹帯は必須という考えで、
私が使用していないことを知って心配そうではあった。

3)マタニティショーツ(下着)
生理用ショーツやふだん使っていたショーツで私は間に合っている。
ただこれを友人にいったら驚かれたので、私はお尻があまり大きくならないタイプだったのかな、と。

6月28日 いろいろと驚いた日本語学校

2017年06月28日 11時49分48秒 | 日本
このブログ、日本で日本語教師、だった。

去年の11月から今年の5月まで家の近所の日本語学校で週に2回、働いていた。
日本語学校での、進学目的のクラスレッスンは初めてだった
(これまでは企業で働く社員へのプライベートレッスンや、在住外国人への小規模クラスレッスンのみ)

私が働いていた日本語学校ではベトナム出身の学生がほとんどで、
20歳前後の人ももちろんいるが、20代後半、30代前半という人もいた。
進学先は専門学校なのだが、大変おせっかいであるが、
あの年齢で、あのつたない日本語で進学するのか…と思った。

留学生はみな、アルバイトをしていた。
アルバイト先は製パン業や飲食店のホール、キッチンスタッフが多かった。
多くは早朝や深夜に働いており、授業中は眠気と戦っていた。
日本のサービス業(サービス業にかぎらないだろうが)は、
留学生によって支えられている!と思った。

学生たちは仕事で見慣れているからか、「和食」をテーマとした読み物を扱ったとき、
いろいろな煮物をパワーポイントで紹介したのだが、イカだの大根だの食材について非常によく知っていた。
肉じゃがの写真を見せたときも、初級クラスなのだが肉じゃがだ!と料理名をあてていた。

あるネパールからきたヒンドゥー教徒の学生は、アルバイト先で食べたかつ丼が好物だという。
「あ、そっか、ヒンドゥー教徒は豚肉が食べられるんだね」と学生に言ったら、
学生曰く、本来は食べない(「私の父や母は食べません」と)が、自分たちは食べてる、と。
ただ、牛丼は食べないらしい。

日本の料理名や食材についてくわしい一方で、
留学生たちは日本文化のことはほとんど知らない人が多かった。
嵐のこともAKB48のことも、ワンピースもナルトも、
人気のあるドラマ(今なら「逃げ恥」とか?)も、しらなかった。
マリオやピカチュウは一部の学生が知っている、という程度だった。
(ドラえもんは知っていた。おそるべし、ドラえもん!)

これまで私は中国や韓国、また欧米からの交換留学生たちに教えていたが、
日本のポップカルチャー、例えばドラマや音楽、アニメや漫画にくわしく、
それがきっかけで日本語学習を始めた人が少なくなかった。
私のほうが教えられることのほうが多かったくらいだ

もちろん、まったく興味のない人やあまり知らないという人も珍しくないが、
それでも日本の文化には多少は興味はあったように思う。

それとは対照的に、教えていたベトナム人留学生たちはほとんど日本文化に興味を持っていなかった。
夜な夜な韓国ドラマを見ているという学生もおり、韓国文化に対するあこがれのほうが強かったように思う。
留学生たちがなぜ日本にきたのか、日本語を勉強しているのか、いまいちわからなかった。

一度、ベトナム人留学生を理解したいと思い、
ベトナム人留学生をテーマにした講演会に行ったことがあるのだが、
そのときの講師は、現在のベトナム人留学生の急増はブームのようなもので、
数年後には減少に向かうのではないか、と言っていた。

ブームだからなんとなく日本にきているのだろうか。
なぜそんなブームが起こったのだろうか。
そしてベトナム人留学生が減った後はどうなるのだろうか。


もう一つ、この学校で働いて感じたこと。
進学目的の留学生なら、これまで大学付属の留学生別科でも教えていたので、
それと日本語学校はにたようなものかと思っていた。
しかし、大学付属の機関はやはりその大学に進学する人が多かったが、日本語学校では違った。
「大学で勉強したい!」という学生と、
「とにかく日本にいたい、どこかに進学できればいい」という学生では、
やはり学習態度や意欲が違っていたように思う。

どこでも進学できればいいや、と、早い段階であきらめてしまう人や、
日本語学習も「やらされている」という感じで、学習に対して受身である学生が多いように感じた。

また、これは私が勤めていた学校がこじんまりしていて事務の人と近かったためかもしれないが、
学生募集から寮の管理、アルバイト先の把握、病気やその他さまざまなトラブルへの対応などを
間近に見聞きしたことで、留学生がおかれている状況についてよく知るようになった。

これは大学という大きな組織で働いていたときにはわからなかった。


日本語学校での授業も、おもしろいといえばおもしろかったのだが、
いかんせん時給が大学の3分の1程度!!!!
いや、大学は年俸制で長期休暇中も給料があったし、
それを考えると日本語学校はそれ以下かもしれない…。

そう考えると、出産して働けるようになったら大学のほうに戻りたいなあと思う。
働いていた日本語学校、人間関係はよかったし何よりとっても近かったのでそれは魅力なんだけど。

6月27日 左心低形成症候群のこと2

2017年06月27日 08時44分40秒 | 日本
1回目の胎児心エコーから2回目の胎児心エコーまでの一週間はとても長いものだった。
そのとき20週で、2回目の胎児心エコーの日はちょうど21週に入る日。
お腹の中の子どもをあきらめるのか、産むのか、決心がつかなかった。

インターネットで先天性心疾患の子どもを産み育てている親のブログをよみ、
単心室症にせよ左心低形成症候群にせよ、非常に大変なものであることがわかった。
自分にそんな苦労や覚悟が背負えるのか、まったく自信がもてなかった。

一方で、中期中絶をした人のブログも読んだ。
お腹の中の子どもの染色体異常や先天性疾患などが主な理由で、中絶を決めた人たちの文を読み、
子どもをあきらめたつらさ、悲しみ、そして中期中絶の処置の痛みに
自分が向き合えるのか、その重さや恐怖、罪悪感に押しつぶされそうになった。


このときは夫以外には、両親にしかこのことを言っていなかったのだが、
母には自分の気持ちがわかってもらえたこと、それが救いだった。
母には「子どもをうんで苦労する覚悟か、あきらめて後悔する覚悟か」だと言われた。
どちらも選びたくないし、選べないと思った。
自信をもって生んで育てると言いきれない自分もいやだったし、
お腹の中の子どもを自分の決意ひとつで殺してしまうこともいやだった。

街中でみかける妊婦や子どもを連れている人がうらやましかった。
どうして私なのだろう、どうしてこの子なのだろう、と思った。
そんなこと思っても仕方がないのに、そんなことを思ってしまう自分がいやだった。

夫ははっきりとは言わなかったが、今回はあきらめるしかないと思っていたようだった。
そんな夫に対しても不信感が募り、孤独感だけが募った。


専門病院での2回目の胎児エコーの前夜、夫が診察に備えて質問事項を準備していた。
質問の内容は、単心室症と左心低形成症候群、それぞれの出産や、手術と予後について、
またターナー症候群であることがわかったがその影響についてなどだった。
そのとき初めて、夫が「うんで育てる」ということも選択肢に入れていることを知った。
あとで夫にきいたところ、最初は「あきらめる」以外の選択肢はありえないと思っていたが、
私があまりに毎日さめざめと泣いているので、
「うんで育てる」となった場合も考えようと思うようになったらしい。


その日の夜、夫と二人でお腹をさわりながら寝た。
もしかしたら今日が3人で過ごす最後の夜かもしれないと思いながら。


次の日、専門病院で2回目の胎児心エコーだった。
その日は大雨だった。
診察は先週と同じ医師、同じ看護師だった。
エコーの最中、私が見えるのは医師の表情だけだったが、
医師の表情がかたく、何度も唇をかんでいた。
厳しい結果なのかなと思った。


エコーのあと、夫と説明をきいた。
左心低形成症候群でほぼ間違いないとのことだった。
大動脈が極度に狭窄ないし閉鎖しており、血液も逆流している、と。

医師によると、ターナー症候群だから左心低形成症候群になったとは断言できない、
しかし、ターナー症候群では大動脈の疾患が多いが、左心系の疾患もままみられるとのことだった。

医師は丁寧に、左心低形成症候群の手術について、
うまくいく可能性といかない可能性について、
うまくいった(とはいっても「完治」はしないが)ときはどうなるか、
手術ができない場合はどうなるか、説明してくれた。

そして最後に、よくご夫婦で話し合って考えてお決めになってください、と、
男女で考えは違うと思いますが、と言った。
この医師も夫婦の葛藤をたくさん見てきたのだろうなと思った。


考えてみれば、この専門病院は私たちのような夫婦と子どもが集まって来るところなのだ。
あのときはそんなことは思う余裕はなかったが、あの医師も看護師もすごいなあと思う。

新生児の心臓はくるみ大らしい。
左心低形成症候群(に限らないが)は産まれてすぐに血管の手術をしなければならないのだが、
この医師たちはそんな心臓から出ている血管の手術をするのだ。
また、21週の胎児の心臓の大きさはどんなものなのか、
そんな小さな、小さな心臓の異常を診られるなんて。


話を元に戻す。
胎児心エコーを受けた後、専門病院の中にある産婦人科で診察を受けた。
診察といっても、「産むならどうするか、産まないならどうするか」の相談だった。
この産婦人科の医師(彼女はクリニックの医師と違い、とても丁寧に話をしてくれた)は、
ターナー症候群についても詳しく説明をしてくれた。
この産婦人科医師は左心低形成症候群をもつターナー症候群の人には初めて会った、とのことだった。
(しかし、ターナー症候群は羊水検査をしなければ出産前にはわからないし、
 羊水検査をしなければ、ある程度成長しなければ気づかないだろう。
 一方左心低形成症候群は、治療を行わなければ1か月も生きられない疾患だ。
 治療法が向上したのもここ近年のことであることを考えると、
 そもそもターナー症候群で左心低形成症候群の人がいても気づかれなかったのではないか、と思う)

また、クリニックでの19週の検診の際、単一臍帯動脈であることも指摘されたのだが、
これは多くもないが珍しいものではなく、左心低形成症候群の原因とは言えない、とのことだった。

この医師は、エコーなどの技術や出生前診断の発達により、胎児の父母が決断できることが増えたが、
こんな過酷な―つまり、産むか産まないか―の決断を親に任せていいのか…と最後に言っていた。


産婦人科の診察を受けた後、夫にこの子のことをあきらめると伝えた。
涙が出た。
そのあとクリニックに電話を入れ、その旨を伝えた。
クリニックには、事前にあきらめる場合の中期中絶の処置について相談していた。


この経験を通して、知らなかったことを知った。

中絶のつらさ。
いろいろな意見があるだろうけど、周りには決してわからない事情や理由や思いが妊婦にはある。
それを妊「婦」だけが背負わなければならない重み。

たくさんの先天性心疾患と、それをかかえて生きていく患者本人や家族。

コウノドリという漫画(ドラマがあることは知っていたが見たことはなかった)。
そこのNICU編と、無脳症や中絶を扱った話は、今でも読むと胸が震える。


そして、今回の妊娠では無事に38週まで来られたことのありがたさ。
無事に産まれてきますように。

6月15日 左心低形成症候群のこと1

2017年06月15日 16時48分16秒 | 日本
去年から家の近くの日本語学校で週に2回、
小学校のボランティアを週に2回、やってきたが
ボランティアが4月で終わり、日本語学校が5月で終わった。
6月からは毎日何をしよう・・・という日々。
いや、このありあまる時間を生かして、出産や育児の準備をしたり、
今しかできないことをするべきだとは思うのだが、
眠くて眠くて昼寝で一日が終わったりしている。

今回の妊娠は特に問題がないまま臨月を迎えられ、ありがたいことだ。
もし今回の妊娠が初めての妊娠だったら、妊娠なんてこんなもの、というか、
何もなくて当たり前、と思っていた気がする。


前回の妊娠では、19週の検診でお腹の中の赤ちゃんの心臓に異常があることを指摘された。
そのとき通っていた産婦人科(以下、クリニック)の医師
(彼は産婦人科医としては有能なのかもしれないがビジネスライクな人だった)
エコーを終えてから、心臓の形に異常があり、もしかしたら左心低形成症候群ではないか、とあっさり述べた。
ただ、このクリニックでは詳しいことはわからないので、小児循環器の専門病院を紹介された。

クリニックの医師が私達夫婦の目の前で「胎児エコーの見方」みたいな題名の本を
見ていたのをよく覚えている。
(左心低形成症候群は、1万人に一人という割合らしいので、
 その医師にとっては初めてみる心臓の形だったのかもしれない)

まったく聞きなれない病名に、私も夫も言葉がでなかった。
待合室でその名前を検索をしたところ、
「難病情報センター」「小児慢性特定疾病情報センター」のサイトが最初にでてきた。

内容は専門的なことばが多くよく理解はできなかったが、
「先天性心疾患の中では最も重症度の高い疾患である」
「手術成績も良好とは言えない」
「依然予後不良の疾患」
ということばを見たときの衝撃は忘れられない。

そのあと、クリニックから紹介された専門病院で2回、胎児エコーの診察を受けた。
1回目のときは単心室か左心低形成症候群のどちらかであることはほぼ確実であると言われた。
よって出産は、通っているクリニックではなくこの専門病院の産婦人科で行い、
産まれた後にすぐに手術になること、またそれはどんな手術を受けることになるかについて説明を受けた。

そのときは単心室のほうが可能性が高いとのことだったので、
単心室の場合の手術について説明がメインだった。
医師はとても丁寧に説明をしてくれ、こちらかの質問にもわかりやすく答えてくれた。
私は話を聞きながら泣いてしまったのだが、
診察に立ち会っていたNICUの看護師がすぐにティッシュを差し出してくれ、
看護師は私のことをずっと見守ってくれていたのだということに気づいた。
この看護師は最後見送ってくれ、あたたかく励ましてもくれた。

その翌週に2回目の胎児エコーと、あわせて産婦人科の予約を取った。
翌週―つまり21週―になればまた心臓が大きくなっているだろうし、
単心室か左心低形成症候群かの判断がつくかもしれない、とのことだった。


専門病院からの帰り道に、クリニックから電話がかかってきて、
羊水検査の結果が出たので時間があるときに病院に結果を聞きに来るようにと言われ、次の日に病院に行った。
そこで、お腹の中の子どもがターナー症候群だと言われたのだった。
重度の先天性心疾患に加えて、染色体異常という重さに、どうしたらいいかわからなかった。
涙がとまらなかった。

夜、帰ってきた夫にそのことを伝えたところ、もう終わりではないか、と怒った口調で言われた。
なぜこの人はこんなことを言うのだろう、しかも何を怒っているのだろう、と思った。
夫と悲しみや不安を共有できず、孤独感が深まるばかりだった。
(あとで夫にきいたところ、夫は理不尽さに怒りが先に沸いたと言っていた。
 夫なりに、くやしく悲しかったらしいがそのときの私はわからなかった)

12月3日 仕事のこと

2016年12月03日 12時15分13秒 | 日本
週に一度の大学の仕事だけでは昼間の時間を持て余してしまったので、
市がやってる小学生、中学生対象の日本語教室でボランティアを始めた。
こちらは週に二回。
そして求人サイトで近所の日本語学校が募集をしていることを知り、応募。
ありがたく採用された。

ボランティアと日本語学校を始めたそのちょっとあとくらいに、妊娠していることがわかった。
とても嬉しかった。
無事に育ちますように!

今はつわりの真っ只中なのであるが、授業準備も授業もしんどい。
前は今より仕事してたことを思うと、我ながらよくやってたなーと思う。
子育てしながら、仕事している妊婦さんもこの世にたくさんいるはずだが、本当にすごい!

8月26日 中絶後遺症候群

2016年08月26日 18時31分23秒 | 日本
赤ちゃんとお別れしてから4週間が経つ。
その間、泣くことはあっても身も心も回復しているのだと思っていた。

が、おととい爆発してしまった。

赤ちゃんも仕事もうしなって、もう自分には何もない、と思った。
赤ちゃんをうしなったといっても、それは自分の決断でそうなったのだ。
後悔と罪悪感につぶれそうになる。
こんな自分が妊娠を望んでいいのか、セックスをしていいのか、許されないのではないのかと思う。

前向きになろうと思っても、次の妊娠はこわい。
また同じ先天性疾患の子が生まれるのではないか、
もしくは、そうでなくてもほかの疾患や異常があるのではないか。

楽観的にいいほうに考えようとしても、神様に祈っても、こちらの願いや希望と反対の結果になってしまった。
次もそうなるのではないか、と考え出すとこわくなる。

夫はすっかりふつうにもどったようにみえる。
赤ちゃんを失ったことを、いまはまったく悲しんでないように見え、
また、わたしが次の妊娠がこわいとうったえてもそれを理解してもらえない。

夫は赤ちゃんのことを悲しんでない、すっかり忘れてしまった、そして中絶のつらさ、かなしさをわかってないから、次の妊娠にたいするわたしの恐怖がわかってくれない。
そう思うとひたすら自分が孤独に感じ、死にたいとすら思った。

なぜ夫に対しこんなに不信感をもち、孤独を感じ、前向きになれないのか。
夫はもともとかなしいとかさびしいとか、そういった負の感情を出さない。
よくもわるくも、そういう人なのだ。
冷静にかんがえれば、夫が悲しんでない、わたしのつらさをわかってない、そう思ってしまったのはわたしの見方の問題だ。
夫にたいする不信感と孤独。
この理由はなんだろうと書き出して考えた。

わたしは、自分の決断でお腹の中の命を絶ったことを、許せていないのだ。
許せないと言っているのも、そして許さないと言われているのもわたし。
だから、こんなにつらいし、許されないと思ってしまう。

いまのわたしにできるのは、赤ちゃんが次は五体満足で健康に生まれかわれることを祈るだけだ。
四十九日のあいだ、たましいはこの世にいるという。
それなら、まだわたしの近くにいる赤ちゃんに話しかけようと思う。

中絶は女性の権利だと思う。
ただただ、いまかかえている自分のつらさの原因が、わたしはわたしを許せないからだ、とわかって腑に落ちた。
許せるまでには時間がかかるだろうけど、いつかは受け入れられますように。

8月 24日 死産届

2016年08月24日 12時35分26秒 | 日本
死産届を記入した際、非常に疑問だったのが、
・嫡出児か非嫡出児かを記入すること、
・父母の婚姻直前の本籍地を記入すること、
だった。

なぜ、戸籍にも載らないのに、嫡出子か否かを明らかにしなければならないのだろうか。
同じくらい疑問なのが「婚姻直前の」本籍地。
なぜに婚姻直前??
ちなみに現在の本籍地を記入する欄はない。

厚労省のサイトに死産届に関する法律があったので見てみたのだが、
死産届記載すべき事項として上の二点があげられていた。

ちなみに死産届は父親がだすもので、父親が出せない場合に母親が出すとある。

わたしたちの場合も夫が記入したのだが、助産師さんが「お母さん(つまりわたし)が書くのは辛いでしょうから…」と言ってくれたので、わたしが書いてもいいのだけど、あくまで配慮で夫が書くことになったのだと思っていた。

なんとこの法律、昭和二十一年施行。
ふるいよ〜〜。

参照サイト
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S21/S21F03601000042.html

人口妊娠中絶 その後

2016年08月19日 13時00分57秒 | 日本
悪露、というか出血(赤、赤茶色のもの)は3週間でおさまった。

気持ちの方は、日常生活にもどり、自分が妊娠中ではないことに慣れてきたとおもう。
ただ、親しい友人にはなしているときに感情が高ぶってしまったときや
あれから2週間、3週間などの節目の日など、
赤ちゃんとの別れを思い出したときなどに、まだ少し涙が出てしまうことはある。

体も心も回復には時間しかないのだと思う。
一方、こうして元に戻ってしまうことに罪悪感はあるが、
自分がくよくよしていたところで何も生まれない。

かなしみを、苦しみやつらさを忘れない、でも前を向いて生きていく。

今の問題は今回のことを人にどう伝えるか、と、仕事のこと。
私は安定期に入れば安心だと呑気に思っていたので、妊娠したことは親しい友人には話していた。
また、職場には切迫流産で休みをもらうために伝えていた。

赤ちゃんとお別れしたことについて、親しい友人に話すのはもちろんだが、
職場の人でもお世話になった人やプライベートでも遊ぶ人には伝えたいとおもう。
が、何をどこまでどのように伝えるか、、、について考えている。

あとは仕事。
今年はふたつの大学で日本語の非常勤講師をしていたのだが、
妊娠したため来学期の契約はしないということになった。
つまり来学期、10月から無収入になってしまう。

また仕事をしたいのだが、次の妊娠もしたいと思う。
いつ妊娠できるかはわからないが(無事出産までいけたとして)出産まで働けるなら、働きたい。
が、また切迫流産にならないという保証などなく、
妊娠をのぞんでいる状態で新しく仕事を探して始めるのがこわい。

とりあえずは語学や日本語教育の勉強をしつつ、3ヶ月くらいは休もうかなぁと思うのだが。。。
今の時点ではやくも昼間の時間を持て余している。
うーむ。。。どうしよう。