イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「見る―眼の誕生はわたしたちをどう変えたか」読了

2017年07月20日 | 2017読書
サイモン・イングス/著 吉田 利子/訳 「見る―眼の誕生はわたしたちをどう変えたか」読了

以前に読んだ「眼の誕生」を探していた同じ頃、この本のタイトルも見つけていた。
「眼の誕生」は、生物はどうやって「眼」を発達させてきたかということに主眼をおかれていたが、この本は、生物はどうやって世界を見ているか、もしくは見てきたかに主眼が置かれている。

眼の発生初期、単眼といわれるものは単に明るいか暗いか、それを複数使って光のやってくる方向だけがわかる程度であった。その後、節足動物が持っている複眼はそれぞれの複眼が動くものに順番に反応してゆくことで見ているものが動いていることを見ている。止まっているものは見えないそうだ。

そして脊椎動物が持っているカメラ眼に進んでゆく。
タコやイカもカメラ眼を持っているが、脳の構造からみてやはり動いているものしか見えないではないかということだ。
魚はどうだろう。形や色は見分けることができるがそれが何であるかはわからない。だから魚はルアーに飛びつく。

では、人間は・・・。
人間の眼というのは他の動物に比べてもかなり高性能にできているらしく、分解能や色の識別、暗順応、どれを取ってもかなりのレベルらしい。他の動物はどれかの能力だけが突出しているだけなのだそうだ。それというのは、樹の上で食物を採る行為や大きな敵から身を守るために眼の能力は大きく進化した。果物の色を見分けるために識別力が高められ、敵から逃れるために夜の行動が増えたことで暗い所でもよく見えるようになり、手を使って道具を作れるようになってからは小さなものを識別する能力も伸ばしてきた。
そして、もうひとつ、眼の周りの筋肉。これも発達して上下左右かなり自由に動かせる。これも樹上という立体的な世界で生きてきたからだそうだ。草原に生活する動物たちはほとんど水平方向しか眼が動かないし、魚や鳥、トカゲは目がほとんど動かないので首を振って視線を変えるそうだ。
そしてそれは感情を表すことにつながる。悲しみや喜び、集団の中での意思表示。
眼というのは見るだけではなくて人間にかぎってはコミュニケーションの手段になりより一層の繁栄の礎になったというのだ。

ただ、人間の脳は眼から入ってくる映像をすべて吸収して分析するほどの解析力を備えてはいない。
色の違いや物の輪郭というのはおしなべてそのコントラストの違いで判断する。そしてたくさんの経験値から眼に映っているものを判断する。だから錯視という遊びが生まれてくる。そういう意味では意外と人間の眼というのは世間を正しく見ていないということになる。自動車の自動運転システムのほうがすべてを見ているようである。

この本はこのように、眼というものはどうのように物を見ているか、そしてそれを解明してきた哲学者や学者、医者の物語ではあるが、副題の、「わたしたちをどう変えたか」についてはほとんど言及されていない。
眼の誕生というより見えるということは私たちをどう変えたかということを僕なりに考えてみると、見えなくてもいいものまでも見えるようにしてくれなんて誰が頼んだのだ!と神様に言ってやりたいのだ。

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