あぁ、湘南の夜は更けて

腱鞘炎やら靭帯断裂やら鎖骨骨折やら…忙しいッス。
自転車通勤往復100kmは、そんなこんなで自粛してました。

『多様な価値観』印度旅行記-その6

2005年01月02日 | 印度旅行記
僕らは日々の生活を相対的な価値観で生きている。

全てのことがらを、善と悪、美と醜、聖と俗、右と左…、
そんな風に分けて一方を切り捨て、隠し、忌み嫌う。
メジャーとマイナーという基準があって、
誰もがメジャーの枠の中に居たがり、マイナーを追いつめていく。
生きるための基準は他人の目と、その時代の常識だろう。
絶対的な世界に生きることは難しいのだ。

相対的にしか生きられないシステムはいつも誰かを傷つけ、追いつめて行くのだ。
メジャーの枠のさらに内側にはより一層の安心がある。
そこに近づくためには、また1つマイナーを創り出し、追いつめていけばいい。
このシステムの中では自分がメジャーの枠にいないことに気づいた瞬間、
自分自身を傷つけていくのだ。
精神的にもいいわけがない。

常識って何だろう。常識って真理とはイコールでない。
常識はその時代の中での「体制」あるいは「メジャー」の枠組みでしかない。
戦時中は「人(敵)を殺せ!」といい、それが常識だった。
常識から外れれば非国民と呼ばれ、迫害、投獄…。戦争が終われば、今度は。
僕自身を含めた常識の枠の中でしか生きられない人たちはカワイソウだな、と思う。
本当の自分がない人は、常識に寄りかかって生きるしかないのだろう。
たくさんの納得できないこと、そんなことを何故かと聞かれれば、
「そういう時代だ」とか「慣習だ」とかつぶやいて納得したような気になる。
22歳のときにインド社会に出会った。
それまでの生きる基準は常識だけだった。
常識とスクエアな枠の中から世界を見て、他人を判断していた。
自分の絶対の信念もなく、当時花形産業だからとリース業界に就職を求めていた。


インドでは人々は自分の絶対真理の中で生きていた(ように思う)。
あらゆる二元対立がそこにあった。
生も死も、聖も俗も…。
インドでは死は決してマイナスのイメージではなかった。
病気もマイナスではないかも知れない。
死は生の反対概念でしかない。
コインの裏表のように死は死だけでは成り立たない。
誰かが善行をしようと思う。
と、その瞬間にその頭の中には「悪」という価値観が入り込んでいる。

1枚のコインには裏と表がある。
表だけのコインなんて存在しない。
ところが僕らの住む世界(日本)は、まるで表だけで存在するかのように装う。
マイナスのイメージはいつも何処かへ追いやられる。
あるいは存在しないものとされるのだ。
だけどそんな世界はいつまでも存在できない。
僕らの世界には様々な歪みが表出している。

インドでは違った。
表と裏という二元対立を超えて、コインそのものを見ていたような世界だった。
地面にコインをばらまいて、表と裏に散らばった。

ただそれだけ。

コインはコインなんだ。
僕らのように裏返しのコインを表向きにしたり、隠したりする必要なんてどこにある?
そう言っているようだった。
真理を理解するというのは表裏に囚われずに
コインそのものを理解することなんだ、と思った。

インドには不具者がたくさんいる。
失明した人、クル病の人、ライ病で手首や足首のない人、
事故か何かで腰から下をまったく失ってしまった人。
彼らはインドの中で隠された存在だっただろうか。
僕は彼らと目が合うと、いつも何かが負けていると思った。
僕に何かが欠けていると思った。

カルカッタのサダルストリートは安宿街。

マリアホテルの屋上から@サダルストリート、カルカッタ

世界で最も邪悪な都市と言われるカルカッタの、その中でも過酷なストリート。
宿の前には路上生活者や不具者が座り金を乞うていた。
その中の1人の少年(17歳くらい)と親しくなった。
彼には腰から下が全くなかった。
彼は毎朝僕が散歩に出掛けると、路上に手をつき身体を起こして声をかけてくる。
「ハロー、ジャパーニ!」
その声が信じられないくらい明るいのだ。
「僕に何かくれるものはない?」
「何もないよ。」
「じゃあ、煙草を1本くれよ。」
「OK」
これが毎日繰り返された会話。
僕は煙草を差し出し路傍に彼と並んで座り、一服する。
最初の頃は恐ろしかった。
僕の価値観では到底理解できなかった。
しかし、彼と並んで一服する日が重なるに連れ、
簡単なことかも知れないと思うになった。

彼は主役だったのだ。

他人と比べる必要のない世界、インドの寛容さ。
誰もが絶対者で自分のために生きていた。
自分の思いが世界を創っていくのだ。
インドでは誰もが生きていた。
金のない人はそのことを武器に。
目の見えない人はその見えない目を武器に。
天が与えてくれたものが彼の武器だった。
それは決してマイナスではないし、隠すべきことでもないのだろう。
病気という考えは健康という言葉から生まれる。不具者は健常者から。
インドにもそういう言葉は確かにあるが、
それによって自分を規格化しない世界がある。
「何、病気だって? そうか、それはそれでトータルじゃないか」って。


僕は1度目のインド旅の途上、カルカッタで倒れ、死ぬかと思った。
そして、その時にこのことが少しだけ理解できた。
(wrote in 1990)

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2 コメント

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その6 (モミアミモ)
2006-09-06 08:45:43
お怪我をされて大変でしたね。退院おめでとうございます。一日でも早いご回復をお祈りします。



『真理を理解するというのは表裏に囚われずに

コインそのものを理解することなんだ、と思った。





いい文章ですね。表裏にとらわれないってこと、とても大切だと思います。数年前に悩んでいた時に相談した先輩の言葉を思い出しました。「あなたが悩んでいることは光を物体にあてできた影にすぎない。だから光の当て方を変えることに拠り、当然影の形も変わる。」

物体である自分の個性は変わらないけれども、光の当て方ひとつで価値も変えることができるということを知りました。「理解」したといえないところがまだまだ発展中ということです。



ということで、オヤジギャグを言うときは私は主役です。

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先輩の言葉も (masa)
2006-09-06 23:23:39
>あなたが悩んでいることは光を物体に

>あてできた影にすぎない。だから光の

>当て方を変えることに拠り、当然影の

>形も変わる。



いいですね。最後には光と影をも抜けた先にある

物体そのものを見ることなんでしょう。



と書きながら…、

当時の感性が消えかけている自分がいました。



ということで、だらだらとだらしなく飲むとき僕は主役です。
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