あぁ、湘南の夜は更けて

腱鞘炎やら靭帯断裂やら鎖骨骨折やら…忙しいッス。
自転車通勤往復100kmは、そんなこんなで自粛してました。

『路上のメッセンジャー』印度旅行記-その7

2005年01月02日 | 印度旅行記
何度も何度も子供たちや不具者や物乞いに道を塞がれ、金を乞われた。
そして、その目を見るたびに、僕は負けていると思った。
どうしてだか判らなかった。


(行きつけの飯屋はこんな感じ、「サブジー、ドゥーチャパティ」)

1度目の旅の終盤、僕はカルカッタの安宿街サダルストリートの奥、
モダーンロッジに泊まっていた。
そのカルカッタでは路上で生まれ路上で死ぬだけの人々や不具者を、
それまで滞在したどの街よりも圧倒的に目にする。
だからカルカッタでの日々は混乱の連続だった。
5歩歩けば混乱にぶつかる。

日本にいるときの価値観では、彼らは同情の対象だった。
しかし、ここで僕はいつも負けていると思っているわけで…。
この混乱は自分自身への懐疑だったのだ。
自分のどこかが間違っているんじゃないのか、って。

KUNGI食堂の子供たち@カジュラーホ

カルカッタを去る4日前、僕は倒れてしまった。
いつ頃からか生水を飲むようになっていた僕は、その宿の水も飲んでいた。
そして、倒れた。
同じ日に2人の旅行者が病院に運ばれたらしい。
40℃近い高熱、下痢と嘔吐でのたうち回った。
赤痢かチフスか…。本当に死んじゃうかも…。
その2週間後、日本に戻れば会社の内定者健康診断が待っている。
運良く内定が出ていた金融業界だったから、「失いたくない」とあの時は思っていた。
僕は1人、宿のベッドで天井を見上げながら不安になっていた。
考えることは健康だった自分のことばかり。
水を飲んだ自分を悔いた。

何も食べられず、ミネラルウォーターを飲んでは吐いて、
苦しみながら3日が過ぎた。
いいことないな、と思っていた。
3日目、僕はフッと諦めてしまった。自分の現状を認めてしまった。
“今僕は病気だ。だけどそれがすべてだ”と。
“宇宙の大きなバランスの中じゃ大した問題じゃない”と。
その時僕は二元対立を超えられたのだと思う。
「常識」が僕に恐怖や不安をもたらしていたのだ。
職を失ったっていいじゃん。
そうしたら金を貯めて、またインドに来よう!
世界中の旅人と話をしよう!

そう思えた。

僕は心が軽くなって、カルカッタの強烈な雑踏の中へ、
人の海の中へと再び入っていった。
気づくと今までの混乱は「Who am I?(僕は誰なのだろう)」という問いかけだったのだ。
その答えが出なくて僕はまごついていた。
インドは僕の着ているもの(常識)を脱がし続け、問いかけ続けていたのだ。

カルカッタの雑踏の中、歩道に1人の男が座り、路上に何かをチョークで書いていた。

彼には両足がなかった。
義足を傍らに英語とヒンディ語とベンガル語(カルカッタの方言)で、こう書いていた。
僕は7年前まで、幸せな家族と健康な体を持っていた。
7年前のバスの事故で、僕は家族と両足と聴力を失った。
僕は生きなくてはならない。金をください。

と。
僕はその場を動けなかった。
すべての混乱が理解へと変わっていった。

そうだ、彼は生きているんだ。生きていることそのもの。
与えられたものが武器だった。
7年前までは幸せな家族と健康な体が…。
そして、それからは義足とカルカッタの街が武器だった。
彼はポジティブだった。
僕にとって彼は路上のメッセンジャーだった。

象皮病で3倍にもふくれあがった脚を見せ、震えながら路上に立つ人。
渋滞の交差点を手だけで渡る少年の手足は異常な角度で曲がっていた。
歩道のカラスと生きる人。
みんなのことが少しだけ理解できた。
彼らは絶対的な世界で生きている。
僕らのように相対的な世界で他人と比較しながら、
スクエアな枠を基準に生きているわけじゃないんだ。
隠された存在じゃない。

僕の路上のメッセンジャーは、このカルカッタでたった1人、
同じやり方で7年間も生きてきたんだ。


そのとき以来、僕は負けているとは思わなくなった。
彼らと僕は同じなんだって漸く思えた。
僕は今まで彼らに同情していた。同情は優位の裏返し。
彼らのように自分の世界を生きるために生キテイル人たちに、
本当の自分がなかった僕がどうして優位に立てるのだろう。

僕らは記号だらけの世界に生きていて、本当の自分を見ることは難しい。
病気で倒れ、死ぬことを思い、次にすべてを認め諦めた時、
僕に僕から『○○○○(僕の本名)』を脱ぎ捨てた自分が見えたのだと思う。
裸の自分は頼りなかったが、肩の荷が下りたという感じ。
世界が優しく見えだした。

宿に戻り体温を測ると37℃になっていた。
3日連続40℃近くで続いた高熱が下がったのだ。
自分の思いが世界を創っていく。自分の見方で世界は見える。
自分の見方でしか世界は見えない。

次の日、まだ下痢と嘔吐は続いていたけど、しっかり飯を食い、
ふらつく身体にアタックザックを背負ってチェックアウト。
夜行列車でパトナーに向かった。
何もない街だったけど気持ちよかった。
3日間ガンジス河を見て過ごした。

アイス売りのオヤジさんが握りしめた派手な色のアイスキャンディが何故か美味くて、
下痢をしていたけどそればかりを食っていた。
自分の身体で実験をしていたような日々だった。何があっても怖くなかった。
下痢だって楽しめるようになった。
だって自分が世界をどう感じられるか、ということなのだから…。
自分が世界を創っていくのだから。
(wrote in 1990)

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2 コメント

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Unknown (モミアミモ)
2006-09-09 05:56:46
「生きる」



シンプルな言葉を深く体験された経験、素敵な時間だったのですね、印度旅行は。
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「イキル」 (masa)
2006-09-10 18:34:29
そうですね。

「絶対的な世界に生きる」ということを学びました。

さらに、生きることと死ぬことは対立する概念ではない、ということ。

とてもスピリチュアルというか宗教的な時間でした。



トータルという言葉がよく浮かんできました。



今のインドはどうなのだろう。

今の僕が随分変わってしまったのと同じように…。
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