天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

『昭和天皇実録第八』天皇は支那広しも太平洋はさらに広しと叱責し無謀なる師を起こせば皇祖皇宗に相済まぬ

2016-12-11 17:52:24 | 日記
今日の日記は、今自宅で読んでいる『昭和天皇実録第八(自昭和十五年・至昭和十七年)2016年9月・宮内庁刊』で、書かれている大東亜戦争開始に関わる昭和天皇の御言葉の事です。添付した写真は、その著書です。
この第八巻には、いわゆる太平洋戦争(注:当時の正式名称は大東亜戦争)開戦(1941年・今年が75周年目に当たる)に至る際の、それを未然に防ごうとした生々しい昭和天皇のお言葉が書かれています。以下に、その記述の一部を引用・掲載します。
・昭和十六年九月四日(杉山参謀総長を御叱責):天皇は納得されず、従来杉山の発言はしばしば反対の結果を招来したとされ、支那事変当初、陸相として速戦即決と述べたにもかかわらず、未だに事変は継続している点を御指摘になる。参謀総長より、支那の奥地が広大であること等につき釈明するや、天皇は支那の奥地広しというも、太平洋はさらに広し、作戦終了の見込みを約五箇月とする根拠如何と論破され、強き御言葉を以て参謀総長を御叱責になる。・・天皇は、無謀なる師を起こすことあらば、皇祖皇宗に対して誠に相済まない旨を述べられる。
・昭和十六年十月十三日(宣戦詔書渙発の際の御希望):万一開戦となる場合には、宣戦の詔書を渙発することとなるべき旨を述べられる。その上で天皇は、国際聯盟脱退に際する詔書や日独伊三国同盟に際する詔書において述べた世界平和の考えが、国民に等閑視されていることを遺憾とされ、・・十分に自分の気持ちを取り入れてもらいたき旨の御希望を述べられる。・・さらに戦争終結の手段を最初から十分に考究し置く必要があり、そのためにはローマ法王庁との使臣の交換など、親善関係を樹立する必要がある旨を述べられる。
・昭和十六年十月二十日(木戸内大臣の東条内閣奏請理由):内大臣より、不用意な戦争突入を回避する唯一の打開策と信じて、東条を奏請した旨を詳細にお聞きになり、いわゆる虎穴に入らずんば虎児を得ざる旨の御感想を述べられる。
このように、昭和天皇や木戸内大臣等身近に使える重臣たちは、無謀な戦争には反対の立場でした。しかし、この杉山元参謀総長(陸軍大臣も経験)や東条英機陸軍大臣(天皇の認可により首相を兼任していまうが)は、何ら勝算の無い戦いを始めてしまったのです。さらに、天皇が戦争終結の手段を深慮されていたにも関わらず、ズルズルと泥沼に嵌まって入ったのです。
杉山元参謀総長が作戦終了の見込みを約五箇月とする根拠は、海軍のミッドウェー海戦(昭和十七年六月五日・島空襲開始)の大勝利を指していたかもしれないですが、その勝敗は日本海軍の大敗北でした。愚かな陸軍や海軍の政治的指導者(山本五十六聯合艦隊長官等一部開明派は存在)により、日本国民は塗炭の苦しみを味わうことになったのです。特に、天皇が、逆に陸軍を抑えて不戦行為を行うと大いに期待した東条英機首相の戦争責任は、極めて重大です。
だから、昭和天皇の戦争を防止できなかった自責の念は、如何ばかりであったかと今御推察しております。そして、このような当時の昭和天皇の聖慮を全く無視して、太平洋戦争の天皇責任を声高に訴える国内外の不逞な輩には、私は強い憤りを抱いています。

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