今日の日記は、札幌行きを中止して晴天の藤沢本宅から書いている、私の血のルーツ時宗の開祖・一遍の講話のことです。この宗教家・一遍を紹介している今井雅晴著『一遍 日本人のこころの言葉』に、私が強く共感した講話『一遍上人語録・下巻44』の記載がありました。以下に、その記述の一部を、引用・掲載します。
『一遍は、「人間は、極楽往生への基本的能力で三種類に分けられます。最も能力がある人(上根)は妻子があり家があって生活していても、臨終の時にはそれらに執着することなく、往生します。中くらいの能力の人(中根)は、妻子は捨てておいたほうがいいのですが、ふだん家があってきれいな着物を身に付け、豊かな食事をしても、いざという時にはそれらに執着することなく、往生します。全く能力のない人(下根)は、最初から全てを捨て、それらから離れることによって往生するのです。」と述べています。そして、一遍自身は、自分を下根の者であるとし、全てを捨てるよう努力して毎日生きている、と述べています。阿弥陀信仰の基本的な経典の一つである「無量寿経」に、「人は、世の中の執着心や欲望の中で、たった一人孤独で生まれ、一人孤独のうちに死ぬ」と記されています。だから、一遍は、悩む人たちに対して、「ほんとうにたった一人ではありませんか、それが私たち本来のあり方ではありませんか。」と説いているのです。』
この著書の表紙には、国立国会図書館所蔵『一遍上人絵伝』での一遍上人と妻子(超一・超二)が描かれていますが、遊行の途中でこの同行していた妻子と別れて、己一人だけで布教活動を始めました。一遍自身は、謙遜して自らは下根(最初から全てを捨てなければ往生できない)とみなして、それを強く実践したのでしょう。宗教の開祖が自分自身を卑下する大衆仏教である時宗の特徴が良く顕れている逸話だと得心しました。また、肉親への情愛を捨てた宗教であるとも分かりました。
私自身は、この「極楽往生への基本的能力で分類された三タイプ」の内、中根(いざの時、執着心無し)ではないか?と今は思っています。でも、本宅は妻子に渡し、セカンド・ハウス(別宅)を終の棲家とする将来構想がある私は、限りなく下根(最初から全てを捨てるタイプ)に近いかも知れません。
私は今、何か、自分が生きてきた人生の不可思議さを、強く実感しています。
『一遍は、「人間は、極楽往生への基本的能力で三種類に分けられます。最も能力がある人(上根)は妻子があり家があって生活していても、臨終の時にはそれらに執着することなく、往生します。中くらいの能力の人(中根)は、妻子は捨てておいたほうがいいのですが、ふだん家があってきれいな着物を身に付け、豊かな食事をしても、いざという時にはそれらに執着することなく、往生します。全く能力のない人(下根)は、最初から全てを捨て、それらから離れることによって往生するのです。」と述べています。そして、一遍自身は、自分を下根の者であるとし、全てを捨てるよう努力して毎日生きている、と述べています。阿弥陀信仰の基本的な経典の一つである「無量寿経」に、「人は、世の中の執着心や欲望の中で、たった一人孤独で生まれ、一人孤独のうちに死ぬ」と記されています。だから、一遍は、悩む人たちに対して、「ほんとうにたった一人ではありませんか、それが私たち本来のあり方ではありませんか。」と説いているのです。』
この著書の表紙には、国立国会図書館所蔵『一遍上人絵伝』での一遍上人と妻子(超一・超二)が描かれていますが、遊行の途中でこの同行していた妻子と別れて、己一人だけで布教活動を始めました。一遍自身は、謙遜して自らは下根(最初から全てを捨てなければ往生できない)とみなして、それを強く実践したのでしょう。宗教の開祖が自分自身を卑下する大衆仏教である時宗の特徴が良く顕れている逸話だと得心しました。また、肉親への情愛を捨てた宗教であるとも分かりました。
私自身は、この「極楽往生への基本的能力で分類された三タイプ」の内、中根(いざの時、執着心無し)ではないか?と今は思っています。でも、本宅は妻子に渡し、セカンド・ハウス(別宅)を終の棲家とする将来構想がある私は、限りなく下根(最初から全てを捨てるタイプ)に近いかも知れません。
私は今、何か、自分が生きてきた人生の不可思議さを、強く実感しています。