天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

『コンクリートから人へ』が「ハードからソフト」の比喩なら福沢諭吉著『西洋事情』を熟読すべし

2009-10-31 18:48:42 | 日記
私の日記に対する批判書き込みがネット掲示板にありました。その投稿をここに転載します。
『やっぱアスペだ。何を言わんとしてるか理解出来ないのだな。「コンクリートから人へ」とは、「箱物行政を止める」って意味じゃ無いのか?歴史的建造物を否定してる訳じゃ無いだろ?どうやって考えたらそんな答えが出るんだ?』『アスペルガー患者が比喩表現を理解できないってマジだったんだな。鳩山が箱物行政の比喩として使ったコンクリートという言葉を、コンクリートという建築素材を否定されたと思い込んで反論する某客。』
その投稿に対して、私は反論します。
私は自身の日記で「『コンクリートから人へ』のキャッチフレーズは『官から民へ』をパクッテ「箱物行政(ハード)から人間を豊かにするサービス(ソフト)へ』と首相は訴えたかったのでしょう。しかし、行政機関によって創り出された建物や構築物が無機質の単なる物質(コンクリート)だけを生み出した訳ではないです。それを有効に使う『人間』のために、計画・設計者や施工者が英知を結集し、様々な思いの篭ったインフラ完成品です。」と述べています。この投稿者はその部分を完全に無視をし、自己の間違った論理(何ら知識も無しにアスペルガー患者と自己判定)を展開しています。
私は『箱物行政(ハード)から人間を豊かにするサービス(ソフト)へ』の間違った「比喩」であると認識し、その比喩表現の言葉「コンクリート」と「人」が不適切だから、鳩山首相の演説を問題にしたのです。そして、本来の「ハード」と「ソフト」の概念が判っていないから、私はその過ちを自己の日記で指摘したのです。私はその「ハード」と「ソフト」の概念がとても良く判る名著『西洋事情』福沢諭吉著を鳩山首相に紹介します。私がその名著を勧める確固たる根拠を、藤原正彦著『名著講義:最終回・福沢諭吉「福翁自伝」』(文藝春秋2009年9月特別号)よりすこし長文になりますが、一部を抜粋します。
「諭吉は幕末に三度洋行している。二度目の1862年には遣欧使節の下級通訳としてヨーロッパへ行った。・・・皆が汽車の速さに感嘆している間に、彼は鉄道会社の構成や経営者について尋ねまくり、皆がヴェルサイユ宮殿の絢爛に肝を潰している間に、進行中の南北戦争やヨーロッパ外交の現状などについて研究していたという。それまでの日本における洋学すなわち蘭学が医学、砲術、兵法、航海術、地理などに限定されていたことに諭吉は疑問を抱いていた。これら技術はなるほど必要不可欠だが、それを運用するための組織を研究しなければ、日本にこれらを根付かせ文明開化することはできない、とすでに悟っていたのである。・・・使うあてもない蘭語を死に物狂いに勉強し、蘭書を通じ19世紀中頃までの科学技術にかなり通じていたから、欧米に行っても眼前の技術的驚異に幻惑されなかった。諭吉だけが『ハード』を超え『ソフト』を見つめていたのである。このような実地調査を経て『西洋事情』という十万部を超えるベストセラーが生まれた。明治の先覚者達は皆これを熟読したうえで日本を作り上げた。・・・諭吉が筆一本で国家への最大級の貢献をしたというのは、私のような非才にとっても勇気付けられることである。」
この自称「アスペルガー患者判定可能投稿者」と鳩山首相には、福沢諭吉著『西洋事情』を熟読して、政治家の責務について深く理解してほしいです。
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『コンクリートから人へ』は建築遺産を否定し文化を愛でない政治を科学するだけの理系政治家の象徴

2009-10-30 22:16:44 | 日記
本日も鳩山首相の所信表明演説の私的所感です。鳩山首相の政界入り前の前歴は、1969年に東京大学工学部応用物理・計数工学科を卒業し1976年スタンフォード大学大学院博士課程を修了した専修大学助教授です。そして、1986年の初選挙では、その選挙運動スローガンが科学者を志望していた自身の経歴をアピールした「政治を科学する」でした。鳩山首相はその理系出身の政治家だからか?その人間性に関してまったく文化的素養の無い品性が、今回の所信表明演説『コンクリートから人へ』に、私は如実に現れていると思います。
前の日記で私が書いたように、建築材料の「コンクリート」は無機質の単なる構成物質で留まらず、総合的に造形された優れた建築物では、後世に伝えるべき建築遺産となっています。鳩山首相にその素材の「コンクリート打放」が生んだ素晴らしい宗教施設の建築物・3作品を以下に私は紹介します。
1.『ロンシャンの礼拝堂』1955年竣工・ル・コルビュジェ作:フランスのフランシュ・コンテ地方のロンシャンにある教会でコンクリートにより独特なファサード造形が可能になり、柔らかい光が差し込む内部空間が暖かい祈りの場を創造
2.『東京カテドラル聖マリア大聖堂』1964年竣工・丹下健三作:コンクリート打放の内壁が静謐で深遠な宗教的な内部空間を造り出したカトリック東京大司教区の司教座聖堂
3.『茨木春日丘教会(光の教会)』1989年竣工・安藤忠雄作:大阪府茨木市にあるプロテスタント系の教会で、外壁はコンクリート打放で「光の十字架」以外装飾は一切ない質素で安らぎの空間を創造
このように、20世紀の素材「コンクリート」は素晴らしい建築文化遺産を後世に残してします。私は学んだ理科的知識により「コンクリート技士」の資格を取った建築技術者ですが、その3作品を見た時、コンクリート素材が、人々の安らい真摯な祈りが出来る空間を巧みに生み出したことに、深く感動しました。単なる素材は料理するシェフにより、優れた芸術品にまで昇華されるのです。
鳩山首相には、「アニメの殿堂」(国立メディア芸術総合センター)を短絡的に「税金の無駄遣い」と一方的に批判する前に、私はもっと優れた現代の建築物を見てほしいです。
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鳩山首相所信表明演説『人間のための経済』『コンクリートから人へ』は日本語の造詣の無さを露呈

2009-10-28 22:38:08 | 日記
鳩山首相が26日臨時国会で所信表明演説をしました。その演説の中で、首相が施政方針のキャッチフレーズとして『人間のための経済』『コンクリートから人へ』と訴えて、アインシュタイン博士の名言『人は他人のために存在する。何よりもまず、その人の笑顔や喜びがそのまま自分の幸せである人たちのために。そして、共感という絆で結ばれている無数にいる見知らぬ人たちのために』とも述べています。それら日本語表現に、私はとても強い違和感を持ちました。以下に、首相の所信表明演説の日本語表現に対する疑問点を具体的に指摘し、私の感想を率直に書きます。
1.『人間のための経済』での『経済』という言葉の由来は、中国の古典(隋代の王通『文中子』)に書かれた『経世済民』です。『世を経(おさ)め民を済(すく)う』という意味です。明治時代の初期、英語"Economy"を福沢諭吉がこの『経世済民』を引用して『経済』と翻訳しました。ですから、本来の日本語の『経済』には「人間を豊かにするシステム・動き」という定義が含まれています。確かに全世界に蔓延している『金融マネー至上主義』は本来の意義から大きく逸脱しています。ならば、その本来の『経済』の意味『経世済民』に、首相は言及するべきでした。これにまったく触れなかったのは、首相の日本語の造詣の無さを如実に示していると私は思います。
2.『コンクリートから人へ』のキャッチフレーズは『官から民へ』をパクッテ「箱物行政(ハード)から人間を豊かにするサービス(ソフト)へ』と首相は訴えたかったのでしょう。しかし、行政機関によって創り出された建物や構築物が無機質の単なる物質(コンクリート)だけを生み出した訳ではないです。それを有効に使う『人間』のために、計画・設計者や施工者が英知を結集し、様々な思いの篭ったインフラ完成品です。また、首相は何故『人間』とは言わず、『人』という単なる生物種を表現する言葉を使ったのでしょうか?首相には『人間』も『人』も同じ意味に思えるから使ったのでしょうが、その意味はまったく違います。『人間』という言葉は、日本文化の崇高さが生んだ傑作品です。それを外国人聖職者であるヨゼフ・ピタウさんが、私達に思いも依らず明快に指摘しています。今日の読売新聞『時代の証言者:教育と信仰』からその該当する「答え」を抜粋します。「まずは、神奈川県横須賀市でイエズス会が運営する日本語学校に入りました。・・・この学校で『人間』という日本語を習った時には、素晴らしい発見をした気分でした。『人間とは人と人とのかかわりだ』『お互いを大切にしているから人間になる』という定義を聞いた時には、驚きました。イタリア語の『人間=uomo』に、そういう意味はありません。中国からの輸入ではなく和語だそうです。この言葉からも日本は良い国だなあと思いました。」これを読んだ時、日本の最高指導者が自国文化の崇高性をまったく知らず、外国人聖職者の方から教えを請う哀れな姿を思い、これからの日本の行く末に私は絶望しました。
3.だから、アインシュタイン博士の名言の日本語訳では、『人間』という言葉を使わず、『人』という言葉を使っているのです。そして、日本では『人間』であるかぎりアインシュタイン博士の名言は至極当然なことでもあり、声高に訴える言葉ではないのです。首相には、日本の文化をもっと良く知ってもらいたいです。
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『他人の不幸が蜜よりも甘い』狂った閉鎖的社会で起きた内部告発騒動の『隠された真相』の私的推理

2009-10-26 23:25:04 | 日記
私が、劇場演技者の親衛隊員により身元調査を密かに行なわれて、家族・勤め先会社へ中傷密告までされ、社会的な抹殺や隊員達の劇場世界から完全排除・粛清されてから、もう早くも半年以上経ちました。でも、これら劇場演技者の悪質親衛隊員は、何ことも無かった如くまったく反省もせず、その劇場に我が物顔で跋扈し自分達の気に入らない人間の粛清に、未だに血眼になっているみたいです。私がそれをはっきりと自覚したのは、ネット掲示板に投稿された劇場内部告発騒動が起きたからです。そして、その劇場内部告発騒動の『隠された真相』が、私にははっきりと判りました。その投稿された内部告発文を一部消し修正掲載して、今、私が確信している「ある推理」を述べます。
「夜のススキノを○○(注:劇場名)の従業員と○○○(注:劇場演技者)が腕組んで歩いてた、それを○○(注:劇場演技者の芸名)が社内で大騒ぎして香盤を替えた(自分の出番を増やした)って話し、2ヶ月経ってないけど札幌ぢや有名だお 」
そして、この投稿真偽に疑問を投げかけた書き込みもありました。
「不自然に見えるのを承知で劇場側が断固として香盤変更をしたんだから、○○(注:劇場名)のルールでは○○○(注:劇場演技者)と従業員が付き合うのNGってことでしょ。まるで、野球部員の犯罪を告発したら甲子園出場が駄目になって、逆に告発者が叩かれる、みたいな変な流れですな。」
では、この『他人の不幸が蜜よりも甘い』狂った閉鎖的社会で起きた内部告発騒動の真相を私なりに推理してみます。まず、何故、仲間を売るような行為を劇場演技者が取ったのか?それを投稿者が言うような自分の劇場出演を増やす為とするには、まったく説得力がない理由です。この投稿者は若い女性の気持ちをまったく判っていないです。私は、劇場に目撃証言の告発をしたのは、内部の劇場演技者ではなく、この狂った世界の応援隊の一員(注:ストーカー行為でもしていて、たまたま目撃した?)であると思っています。その目撃者を他の劇場演技者にし、仲間を売る卑劣な行為と印象付けて、この二人の劇場演技者の名誉をを一遍に傷つける「一石二鳥」のとてもずる賢い悪質な犯罪だと私は思います。悪質応援隊員には、私の事例が示す通り、ストーカーや告発行為はお手のものです。悪質応援隊員は、自分の応援行動を思い通りに認めてくれないこの劇場演技者二人を、悪意で陥れる為劇場関係者に偽って告発(注:その告発文の行動真偽に関わらず、騒動を起こした責任はこの目撃された劇場演技者には有る。この事例責任は、私の時とまったく同一)したのでしょう。その騒動の犠牲になったのは、今回は私のような客ではなく劇場演技者であった違いだけです。
『他人の不幸が蜜よりも甘い』社会のまったく懲りない面々のとても卑劣な悪行です。
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『ローマ法王と昭和天皇の出会い』でのヨハネ・パウロ2世の『浄化の祈り』に私は衷心より感銘

2009-10-25 23:00:58 | 日記
今日も、ヨゼフ・ピタウさんが書かれた『ローマ法王と昭和天皇の出会い』(文藝春秋2008年3月号刊)での、法王ヨハネ・パウロ2世の功績に関する私の所感です。以下にその文章の一部を抜粋し掲載します。
<法王は2000年の「大聖年」を迎えるための積極的な外交を進めていました。そのひとつが、カトリックがこの二千年間に犯した罪や間違いに対しての謝罪です。まず、地動説を支持して宗教裁判にかけられた天文学者ガリレオ・ガリレイの名誉を、1992年に回復しました。さらに、ダーウィンの進化論に関しても「仮説以上のもの」として、これまでの教会の過ちを認めました。・・・1998年3月には、第二次世界大戦中にナチスドイツの大量虐殺に対してキリスト教が十分な抵抗をしなかったこと、さらにユダヤ人への差別迫害の責任の一端はキリスト教会にもあると、ヴァチカンが初めて認めました。・・・ヨハネ・パウロ2世の法王としての一貫した立場は、人間を中心にするということでした。神を敬うことは、同時に神が創造された人間を守り尊敬すること。神が否定される所では、人間の権利も否定される。これは彼自身の個人史から出た結論です。ナチスドイツの独裁主義とソビエト共産主義という二つのイデオロギーが、どれほどの人を不幸にしたか。身をもって、人間の尊厳のかけがえのなさを体験したからこそ、教会の一致を、諸宗教の和解を訴え続けました。・・・法王は2000年の扉を開けてすぐに、『浄化の祈り』を行いました。この二千年間にカトリックが犯した罪ーフィリピンや中南米でのスペインの征服、そして十字軍の戦い。十字架によってではなく剣によってキリスト教を拡大した罪の許しを祈るのです。サン・ピエトロ広場の十字架の前に、すでに病で歩く事も困難になった法王は、倒れこむように跪いて、神に赦しを乞うて祈りました。・・・肉体の衰えで口から出る涎を側近が隠そうとすると、『多くの者はこのようなことで苦しんでいるのです。見せなさい。私も彼らと同じだということを。これが人間の姿だ』と拒み続けました。>
今までの歴代法王が何も考えもしなかったことを、真摯に取り組んだ法王の姿勢に私は敬服しました。そして、病のヨハネ・パウロ2世が二千年間にカトリックが犯した罪の許しを祈る『浄化の祈り』に、私は衷心より感銘しました。ただ、この『浄化の祈り』など「空念仏」としか思わない不逞の輩が、日本のある社会に存在します。とても悲しいことです。
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