シニアー個人旅行のかわら版

国内・海外旅行の話題を中心に、アップデートな情報とともに、シニアーのための手作り旅行を発信する。

電車と路線バスで行く奥日光・湯元温泉

2010-07-31 11:27:14 | Weblog

ドライブでは何度も訪れていますが、電車と路線バスの旅は50年ぶりです。
 東京・浅草・北千住から特急電車1時間30分で日光へ・・・
 ゆったりとした特急の座席に座り、会話が弾みます。
 日光から路線バスで1時間15分、湯元温泉へ・・・
 いろは坂、中禅寺湖、竜頭の滝、戦場ヶ原、湯の湖、男体山、日光白根山の山々を
バスの車窓から心置きなく眺めることができます。
 車社会にどっぶり浸かって、ずっと忘れていた昔の旅の良さを再発見いたしました。

アクセス
 :浅草・北千住⇔東武日光駅 {東武特急けごん}
    * 鬼怒川温泉行の{東武特急きぬ}の場合は{下今市駅}で乗り換え
    * http://www.tobu.co.jp/special_express/timetable/special_ex.html
 :東武日光駅⇔湯元温泉
    * 1時間に1~2便
    * http://www.tobu-bus.com/pc/area/nikkou.html
料金:7,000円      
    *まるごと日光東武フリーパス4,400円+特別料金2,600円
    *http://www.tobu.co.jp/riding/docs_tobu/a02.html

湯元温泉の紹介です



 東武日光駅前のバス停留所から湯元温泉行のバスに乗車、1時間15分で終点の湯元温泉に到着・・・バスを降りるとゆで卵の腐ったような硫黄泉独得な匂いで、温泉地に入ったことが実感できます。しかし、遊技場やみやげ物店が並ぶ温泉地らしい雰囲気は、まったくありません。我が国最初の国民保養温泉地に指定された指定された静かな温泉地なのです。
 緑の中の静かな「湯の湖」にボートを浮かべて釣りを楽しむ人がおり、ウダイカンバなどの広葉樹と、ナナカマドなどの落葉樹、コメツガ、ウラジロモミなどの針葉樹の原生林の中に、ホテルや旅館が点在、屏風のように立ちはだから日光白根山の前山と荒々しい山容の金精山、その裾野にスキー場とキャンプ場が広がっています。

小学生が林間学校を楽しんでいます

 夏休み直後の一週間は首都圏の小学生で賑わいます。古くから当地の旅館・ホテルは林間学校と一般観光客の両方を受け入れてきました。
 湖あり、滝あり、牧場あり、湿原ありと変化に富んでいながら、高低差の少ないハイキングやオリエンテーリングを楽しみながら自然の中で身を置くことができ、疲れた体を温泉で癒し、海抜1470メートルの、真夏でも25度を越えることのない澄んだ大気の中での2泊3日を過ごす林間学校は、首都圏の子供たちに貴重が体験となっています。
 また、冬休みには中学生のスキー学校が開かれます。まさしく、我が国最初の「国民保養温泉地」と指定された温泉地であることが納得できます。



奥日光高原ホテルに泊まりました
http://www.okunikko-kougenhotel.com/
 
 林間学校の生徒と一般客の両方を受け入れています。二泊しましたが、ちょうど林間学校の東京の小学生70名と一緒になりました。ロビーで開かれた開校式に居合わせましたが、ホテル側から一般客が70名ほど同宿しているとの連絡が子供たちにありました。
林間学校の生徒は2階に、一般客は3階に宿泊、物音などはほとんど聞こえてきませんでした。食堂はアコーデオンカーテンで分けられ、子供たちが食事をする姿を見ることはありませんが、声は聞こえてきます。「静かにしてください!いただきます」の声で子供たちは食事を始めますが、この時、一般客も一瞬食事の手を休め、静かになるというほほえましい場面もありました。

 部屋は林間学校の生徒も収容するため、広めで簡素な作りになっていますが、清掃は行き届いており、快適でした。従業員が部屋のドアのノブを一つ一つ丁寧に拭いている姿に、徹底した衛生管理がされていることが分かります。
 一緒に旅行した孫娘が到着早々発熱・・・二日間寝ていましたが、アイスノンを準備したり、氷水やお粥を部屋に運んでくれるなど配慮をしてくれました。三日目にようやく元気になった孫に、客室係、食事係、売店係からも声を掛けていただき、従業員全員が顧客の情報を共有している姿にホテルの経営方針の確かさを感じました。

 このホテルで最も快適であったのが風呂場と温泉です。よく清掃された浴室で、加温・加水なしの掛け流しの硫黄泉で森林を眺めながら、至福のときを過ごしました。
 食事については、日本人の口に合うようサラダ油で揚げるフォンデユは楽しみながら頂きました。ハイキング用に作って貰ったおにぎり弁当は、竹かご風の入れ物がシャレていて、味・量とも満足しました。

天皇陛下は皇太子時代に湯元温泉で疎開生活を過ごされました

 太平洋戦争が激しくなり日本国内への空爆が現実味を帯びるようになると、東京など大都市の小学生は学校ごと地方に避難する学童集団疎開が始まります。学習院初等科の児童であられた皇太子殿下も学友とともに静岡県沼津御用邸に疎開されます。しかし、海岸にある沼津は艦砲射撃の危険もありましたので、日光市の田母沢御用邸に再疎開されます。
戦況はさらに悪化、連日のように日本の各都市はB29の空爆にさらされ、昭和20年7月12日には宇都宮、鹿沼が空爆を受け、600名の死者、1万軒の家屋が焼失します。日光市も安全とは言えなくなり、殿下とご学友は7月21日、湯元温泉の南間ホテル(2003年廃業)に移動され、終戦もここで迎えられ、11月になってようやく帰京されています。殿下はイチゴ摘みを楽しまれたという記録があります。戦場ヶ原農園でしょうか・・・
 
三本松と開拓集落

 昭和29年の夏、高校の友人と光徳沼でテントを張ろうと、湯元温泉手前の「三本松」でバスを降りました。現在ではお店が並ぶ三本松ですが、当時は文字通り背の高い松が3本だけの原野でした。だれ一人歩く人のいない光徳牧場への道を進んでいくと、追いつこうとする足跡が聞こえます。振り返るとねんねこで幼児を背負った女性が近づいてきます。「熊が出るので、途中まで一緒させてほしい」とのことでした。途中で女性と別れましたが、「牧場の人ではなさそうだし、どこに住んでいるのだろう」と不思議に思ったのを覚えています。
 今回の旅で、「戦場ヶ原農場」を訪ねましたが、ここは昭和21年に旧満州からの引揚者の開拓地からその歴史が始まったことを知りました。あの時の女性は、開拓集落の方だったことを50年以上経った今、ようやく気づきました。

戦場ヶ原とイチゴ



 8月から9月にかけて戦場ヶ原でイチゴの苗を育て、それを下界の農家に運ぶという映像が、よくテレビで放映され、この時期の風物詩となっています。
イチゴは通常5,6月頃の収穫ですが、高冷地の低温に晒した苗をビニールハウスで栽培すると、冬でも収穫できるのです。その「山上げ地」(高冷地にいったん苗を運ぶこと)が、戦場ヶ原農場であることも今回初めて知りました。
現在の私たちが口にするイチゴは江戸時代に南蛮船で日本に到着、そのため、当時は「オランダイチゴ」と呼ばれていたそうです。栃木産のイチゴにも「日光イチゴ」という呼び名があったそうですから、戦場ヶ原から降りてきて育てられたことに由来しているのでしょう。

「戦場ヶ原農場」は三本松の駐車場から5分ほど山よりに入ったところにあります。関係者以外の入場は禁止されているようですが、入り口から、広大な農園を見渡すことができ、入植者の方々のご苦労に思いを馳せるのもよいでしょう。

戦場ヶ原農場を紹介する次の方のブログをご覧ください。
http://www1.gifu-u.ac.jp/~fukui/03-1-027.htm
http://fifabakutyouou.cocolog-nifty.com/nikkousannsou/2009/07/post-83e5.html

ハイキング情報は次のブログを・・・
http://blog.goo.ne.jp/masa4439er/e/a1dbd3823259949f7f227c97fc19dd8d


 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閲覧数

閲覧、ありがとうございます