シニアー個人旅行のかわら版

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神威岬灯台とニッカウヰスキー余市蒸留所・・積丹半島日帰りドライブです

2014-08-17 13:51:55 | Weblog
札幌を午前8時に出発、帰着午後4時、200キロのゆったりドライブでした。
訪れたことのある小樽を素通り、積丹岳、余別岳の原生林の裾野を走り、夏の海岸を走る素晴らしいドライブとなりました。

まず、神威岬灯台です・・・

今まで訪れた灯台、伊豆・石廊崎灯台、茨城・塩屋岬灯台、出雲・日御碕灯台などと較べても最も印象に残った灯台です。

○ 駐車場から灯台に至る30分の遊歩道は、余別岳から連なる岬の急峻な尾根道を下り、山道を散策する楽しさがあります。馬の背を行くような道ですが、歩道両脇には手すりが設置、安全は確保されています。



○ 東に積丹岬、南に沼前岬までが見通せ、背後に聳える積丹岳、余別岳など360度広がる景観は、灯台までの往路と復路で異なる姿を見せてくれ、同じ道を行き来していることを忘れさせてくれます。

     

○ 歩道より左右の海を覗き込めば、積丹ブルーといわれる青く輝く海が広がり、透明な海の底が手に取るように揺れています。



○ 灯台は昭和35年(1960年)無人化されるまで、明治21年(1888年)から90人の職員とその家族によって守られて来ました。歩道途中にある説明版「念仏トンネルの由来」は、灯台長と灯台補員の家族に大正1年12月(1912年)に起きた悲劇を伝えています。

      

○ 灯台直前の尾根道の鞍部にかつて灯台職員と家族が使っていた海岸まで下りるジグザクのコンクリート歩道がわずかに特定できます。ちょうど、カヌーで着岸した若者が下りていました。




帰路に訪れたニッカウヰスキー余市蒸留所です・・・

 2014年の「行ってよかった工場見学&社会科見学ランキング」(トリップアドバイザー)のトップにランクされました。トヨタ産業技術記念館を抑えての堂々の第一位でした。人々を魅了してやまないのは次の理由からではないでしょうか。

        

その一です。
 建物に工場らしさを感じさせない美しさがあるのです。入り口はまるでスコットランドの古城に入るような趣があります。外部から見ると石造りの工場は人を寄せつけない印象ですが、ひとたび中に入れば情景が一変、建物が芝生や木々の間に点在するメルヘンチックな世界なのです。

その二です
 竹鶴正孝が妻リタへの思いを込めた工場であるからでしょう。大正7年(1918年)ウヰスキーの製造技術を学ぼうと単身スコットランドに渡り、そこで知り合ったリタ・・・リタの家族の猛反対を押し切って結婚、遥か遠く未知の国・日本へ正孝とともに渡ってきたリタへの思いと感謝がこの工場には満ち溢れています。
 リタの墓を工場を見下ろす地に建てたことにも正孝の思いを知ることができます。

その三です。
 竹鶴正孝のスコットランド・ウヰスキーへの情熱が余市蒸留所創業の昭和8年(1934年)以来、綿々と受け継がれているからでしょう。正孝が壽屋(現サントリー)に迎えられウヰスキー蒸留技術を根付かせた後、本来の伝統的なスコッチ・ウヰスキー作りを目指し、余市蒸留所で頑なに少量生産のシングルモルト・ウヰスキーを守り続けた姿勢に心打たれます。17年もののシングルモルトを惜しげもなく試飲させる姿勢にも社是と信念が見て取れます。

スコットランドと余市
 正孝は我が国でのウヰスキーの製造はスコットランドと気候風土が似通った北海道で行うべきだと考えていました。故郷スコットランドから遠い異国で暮らす妻リタへの思いやりもあったでしょう。函館本線が通り、小樽港にも近い海辺の町余市に蒸留所を建て夢を実現しました。
 (次の写真はスコットランド北海に臨む海辺です



「ニッカ」の名の由来です
 正孝が余市でウヰスキー蒸留所を建てた際の社名を「大日本果汁株式会社」としました。ウヰスキーの製造は時間がかかり、その発売までリンゴの果汁も製造したからです。会社の通称名「日果」が「ニッカ」となりました。果汁製造でも正孝のものづくりの姿勢は変わりませんでした。混ざり物のない100パーセントの果汁を目指したのです。その結果、他社の製品より割高になり、売れ行きは芳しくなかったようです。

今秋からNHK朝ドラ「マッサン」が始まります
 竹鶴正孝とリタの物語です。リタが正孝を「マッサン」と呼んでいたことがタイトルとなりました。今後も間違いなく、ニッカウヰスキー余市蒸留所が「行ってよかった工場見学&社会科見学ランキング」を飾るでしょう。
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早朝の札幌市内を散策、屯田兵村の歴史に出会いました

2014-08-11 20:25:01 | Weblog
中島公園近くに滞在、山鼻地区を散策しました。山鼻小学校と山鼻公園を目指しました。屯田兵村の中心地と聞いていたからです。



 山鼻地区の東西を走る一直線の平坦な道路です。かつては広大な原生林が広がり、アイヌの人々は「鹿の住む林・ユクニクリ」と呼んでいました。開拓者は南に聳える藻岩山に因んで「山の端(鼻)」と名づけました。
 写真右手に山鼻小学校、正面の突き当りが豊平川、左手方向に札幌駅が、右手に藻岩山が見えます。この辺りに屯田兵村本部が置かれていました。



1876年(明治9年)東北の元士族239戸、家族を含めて1114名が山鼻に屯田兵村を開村します。3500坪の耕地と敷地150坪に屯田兵屋(写真は北海道開拓村保存兵屋)が、本部と練兵場の周辺に配置され、更に各戸一万坪の開拓地が供せられました。3年間は給与と食料が支給され、兵役と開拓に専念できる体制となっていました。



 練兵場であった山鼻公園の巨木に当時の屯田兵村の様子をうかがい知ることができます。公園を散策されている方のお話では20年前までは開拓当時の家並みが残っていたそうです。今では路面電車・地下鉄が通り、四つの高校、マンション、スパーマーケット、商店、駐車場などのある札幌の中心的市街地となっています。



 公園の隣にある山鼻小学校は開村の翌年1878年(明治11年)に開校、創立136年の歴史を誇ります。1881年(明治14年)明治天皇北海道巡幸の折、屯田兵村を視察され、小学校にも立ち寄られ休息されました。小学校の一角に「明治天皇御駐蹕(ごちゅうひつ)之地」碑があります。
「山鼻」の由来は「山の端」と同意語で、この地が背景に見える「藻岩山」の近くにあることからきています。



当時の北海道への交通事情です

 上野駅・青森間の鉄道が完成するのが1891年(明治24年)ですから、当時の国内での移動は徒歩か馬車が基本でした。北海道への定期航路はなく輸送船で海を渡りました。山鼻屯田兵一行は小樽に上陸、徒歩や荷馬車で40キロの道程を山鼻へやって来たのです。

 1881年(明治14年)の明治天皇北海道巡幸では、幌内炭鉱(現三笠市)と小樽港を結ぶ石炭運搬鉄道敷設が着工され、前年に小樽・札幌間が完成しており、明治天皇はお召し艦で小樽に入られた後、北海道初めてのお召し列車で札幌までおいでになりました。


 札幌から八代、人吉、延岡へ・・・屯田兵・西南の役へ

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