ひまわりママの脳腫瘍闘病記2

~ひまわりのように いつも おひさまのほうをむいて~
28才で発症した2人のママ。4度のオペを経て身障1級になりました

入学式と久しぶりの入院

2009年04月09日 | ターミナルケアのつもりで転院・草津へ
なかなか続きが書けなくてスミマセンm(__)m
決して引っ張ってるわけではないのですが…
大量の抗けいれん薬と麻薬(パッチ)のせいですぐ眠くなっちゃいます…。

今後の方針を決めるのに与えられた時間は一週間。
わたしとダンナは主治医の示してくれた5択からテモダールを選びました。二人とも一致した意見でした。

「この一週間、僕もよく考えてみました」
一週間後の外来で、主治医はそう切り出し、もう一度5つの選択肢とリスクを丁寧に説明し、カンファレンスでの先生方みんなの反応も教えてくださいました。

その上で「さて、ご本人たちは決まったかな?」
「わたしたちもテモダールがいいかなぁと。
ただ、半年間ずーっと白血球・好中球の値が低いまま変わってないでしょ?好中球なんて下限値の半分以下、3分の1近いし、そんな状態でテモダール投与して大丈夫ですか?
いくらテモダールは白血球減少しにくいとはいえ、以前も3~4週間後に少し下がったかと思います。
白血球や好中球が下がると感染を起こしやすくなると言われましたが、具体的にどんな感染が考えられますか?」
「そうだね。膀胱炎や肺炎になりやすいことが多い」
え~(>д<)ただでさえ膀胱炎しょっちゅうなってるのに…
「抗菌剤って?」
薬剤名忘れちゃったけど、テモダール投与中に肺炎予防に抗菌剤を合わせて飲めば入院しなくても外来でも可能だ。

「先生、わたしはそんな血液状態でテモダールするのは怖いから、白血球の下がる2、3週は病院に置いてもらいたいと思ったんですけど」
「それじゃあ5日テモダール飲んで、その後の一番下がる3週間を病院で過ごしたら、退院してる間がないよ」「あっ、そっかぁ」
だから再開の初めは2週間入院し、一番下がる3週は見ておきたい。大変だけど、受診して採血して、と言われました。


そして4月6日の月曜日。
いーたんの中学入学式がありました。
もちろん出席するつもりでいつもより早く起き、朝食後の薬を飲んだら、何ということ、クラクラになってしまい、ちょっと横になるはずが、カチャカチャと食器の音。パパといーたんの喋り声。
ハッと目覚めた時すでに遅し。
「起きたか」
「なんで起こしてくれなかったの」
「ひまわり卒業式と謝恩会で疲れたみたいだったから。テモダールが控えてるんだから無理しちゃいけないよ」
身支度に時間のかかるわたしはもう間に合わない!悲しくてポロポロ涙がこぼれました。
「ゴメンね、いーたん。ママ間に合わないや」
「うん、ママ仕方ないよ」
バタバタとパパと娘が出かけたあと、呆然としたわたしにほどなくパパが携帯にかかってきました。
「いずを送って帰るよ。式が始まるまであと1時間あるから。親は控室待機だし。だからできるところまで自分で着替えしておきなよ。駐車スペースは校長が確保しておいてもらった」
隣家の友達が帰って着替えを手伝ってくれ、急いで中学校に向かいました。…と言っても、ひまわり、車の乗り降り何にも時間がかかります。

いーたんの入学式は何とか間に合いました。
卒業式以上に泣き通しでした。中学校入学式でこんなに涙してる母親も少なかったと思います。

入院の前日は、続く便秘で苦しいので、夜には出てくれるかと午前中思い切ってラキソを15滴。何の下剤を使うか、量をどれだけにするか、スケジュールとにらめっこで予測しますが、まだ何が効くか把握できません。

夜にめでたく『難産で開通』しましたが、まだスッキリ感がないうちにお腹が痛くなって下痢になってしまいました(>_<)

8日、そんな調子で入院し、6年半、別の病院に出ていた先生に苦労して採血してもらい、お久しぶりのチームの先生とこの半年間のことをお話しました。

明日に始めるテモダールはなんと信じられないことに、白血球が3500あり、好中球2000で今まで通りのやり方で投与可能に!
半年間ずっとできなかったのに。
2週間前の採血でもNGだったのに、まったくまったく信じられない!(@_@)

体重は8kg減りました。テモダールの量も変わるかな?と思ったけど、それは変わらず。
再発が進行しないよう、体重に対して薬の量を少々増やすことにしたようです。

朝、薬を飲むこと以外やることもないので、病棟で歩く練習を、短い入院期間中だけれど整形受診してリハビリ室に行けるようにしてもらいました。
少しでも維持しなきゃね。

こうしてテモダール1日目が無事飲めています。
左半身、特に足のしびれが気になりますが。

決断を求む

2009年04月02日 | ターミナルケアのつもりで転院・草津へ
25日、半年ぶりの大学病院の外来。(スミマセン!更新までに1週間かかってしまいました)
八ヶ岳に帰ってきて初めての再診。再診受付機がちょっと変わっていて、半年の年月を感じます。

待ち時間が少なくて済むように、終わりの頃を狙って行きましたが、まだまだ混んでいました。

番号を呼ばれて診察室に入ると、懐かしい主治医の先生がいました。
半年ぶりだというのに、いつものように淡々としていてまるで1ヶ月しか経ってなかったかのような接し方でした。

「MRIは後にして…」
半年間の様子を草津の病院からのサマリーを見つつ、あの9月以降のけいれんや薬や痛み、麻痺の具合、それから話題はビュアーに並べてある最新のMRIに移りました。

3月に草津で撮った最新のMRIは、全部はいらないよね?!と抜粋して持参してきたんです。
主治医は「さっき見ていたんだけど間違いなく再発しています」「そうですよね」うなずくわたし。ちょっと大きくなったかな、と草津で言われていたので。

「先生、場所は?」
軽く考えた質問に「恐らく運動野だね。切った腔がここだから、脳のシワが左右少しずれてるけど、たぶんここが中心溝。以前中心溝ギリギリに切ったし、全部の画像がないからわからないけど、このスライスを見ると運動野に出てる」

運動野!!
これは初耳でちょっとびっくり、ちょっとショック。。。
だから先生の表情、お久しぶり~って笑顔じゃなかったのかも。

まぁ今までが後ろへ後ろへと再発してすごくラッキーだったんだ。
2回目に中心溝ギリギリ(手前が運動野になる)の感覚野を切って半身麻痺が出たけど、4ヶ月ほどのリハビリで克服できた。
今回は中心溝より手前に出てるという。草津では切ったところより更に後ろと言われたのに、読み誤ったのか、それとも敢えて黙っていたのか…
わからないけど、読影の技量を云々言う気はない。

ただ運動野に再発なら、残りの手は少なくなってきます。

①オペ=左半身完全麻痺は免れない。わたしは優位半球が左だから、今も喋りにくさや言葉の出にくさがあるけれど、オペで失語症が出る可能性も大きいし、前回抑えるのにあれほど苦労した痙攣がまた出るのも大いに考えられる。
②サイバーナイフ③ガンマナイフ=これは当院にはなく、それぞれ県外の病院にお願いしている。強い線量を3日とか5日でかけるが、腫瘍が大きすぎて(今は造影剤を使わないと腫瘍は写らないが、造影剤を使った取り方ではかなり広範囲)グリオブラストーマには効果はあまり期待できない。すでに60グレイ=MAXかけてるから半年1年後に放射線壊死も可能性が大きい。放射線壊死は切除と同じダメージがある。

④リニアック、これは当院で初発にかけた放射線。少ない線量(2グレイ)ずつ5週間かけてかける。その間に腫瘍の増大が気になり、効果は同じく期待できない。放射線壊死の危険性も同じ。

⑤テモダール、血液状態は半年前と比べたら、面白いほど変わっておらず、かなり悪い。特に好中球はテモダール使用推奨値の3分の1に近く、本来テモダールは使用できない。

抗菌剤併用しつつ、白血球が下がったらグランで上げながらテモダール。外来でできる。そのかわり感染が心配だから毎週採血に来てもらう。

⑥何もしない。見守るだけ。

どうするか来週までによく話し合って決めてきて、と。

1週間後の昨日、わたしたちが昨日選択した治療は・・・

卒業式

2009年03月24日 | ターミナルケアのつもりで転院・草津へ
19日、いーたんの卒業式に無事行って来られました♪
いーたんの卒業証書授与は一番最後!なんせ3月に転校してきたわけですから。トリなら時間が読めて、わたしにとっては助かる!
長時間になると大変かなぁと前日に、ママ友に卒業式の流れを聞いて、だいたいの時間の予測をつけ、いーたんの卒業証書授与授与に間に合うように後から行くことに。
前夜、担任の先生に電話すると、式場の体育館前に駐車スペースを確保するとのこと。ありがたいことです。

当日、なるべく早く家を出ようと気持ちは急きますが、不自由な身には着替えやトイレをはじめ、何事も時間がかかってしまいます。

すっぴんでいいやと時間短縮したのに、あろうことか生理に(☆o☆)うわぁタイムロスだぁ。なんか予感はしたけど、まさか~(泣)

メールや写真OKの卒業生の後方の保護者席にいる友達のパパが進行状況をメールしてくれます。
『卒業証書授与が始まりました』
わたしたちはまだ車で走行中。
え~ん、間に合わないかも。

到着すると、進行状況をメールしてくれていたパパがすぐに飛んできて、
「最後のいーたんがさっき証書をもらったところでした」
あぁ、タッチの差で間に合わなかったか。なんせ35番目がトリだもんね。いくらも時間かかりません。残念(泣)

行ってみると、後方のの保護者席の最前列に2席、ウチの名前を貼って確保してくれてありました。先生感謝。

卒業証書授与の場面を見逃しちゃったけど、呼びかけや合唱を聴けて、感動で涙がひっきりなしに流れました。

よかった。
いーたんの卒業を見られて本当によかった。

卒業生親子の集合写真に並んでいる時、ちょっと離れていたけど、
「ゴメン、いーたん、見られなかった。間に合わなかったよ」
と言いました。
記念写真を撮り、先生方やママ友に再会し、とてもうれしくて、体調は当日になるのとわからないからといーたんだけ申し込みしておいた謝恩会も、幹事さんが当日参加OKと手紙をくださっていたので、途中いけるところまで出よう!と決めて出席、次々にサプライズもあって楽しかったから中座なんて考えず、結局最後まで参加できました。
気も張っていたからでしょうね。家に帰ってベッドに横になるや、どっと疲れが出て、疲れる夢を見、夜も身動きできないほどだったけど、もちろん後悔はありません。
後悔はいーたんの授与の場面を見られなかったことだけ。

入学式は午後だから、ちゃんと間に合うように行くからね。

新たな出発

2009年03月16日 | ターミナルケアのつもりで転院・草津へ
去年の6月の手術、重積痙攣を越えて、オペはもうたくさん、終末期医療を考えて、9月に草津に転院・転居したひまわりですが、この度、元住んだ地に帰ることにしました。
病院で言えば、元の大学病院で元の主治医にお世話になります。

半年で戻る最大の理由は、何と言っても『淋しかったから』。

「早くしないと冬になっちゃう」と衰弱してまだ移動もままならないのに、布団を敷いて急いで転院・転居したのは雪国の早い冬を思ってのことでした。
が、間に合わなかった。
4月に転勤した地はまだ残暑厳しいというのに、転院先の病院にはもみじが真っ赤に色づき、短い入院の間に秋は足早に過ぎ去っていきました。

浅間山を眺めながら仲良くお散歩する…半年前幸せそうに逝った姑の姿と病院が、自分の終末期とダブって思えたのです。

転院して来るには来たが時期が悪かった。
衰弱した身体には寒さが辛くてお散歩どころはなく、外に出るのは受診の時だけでした。

そうなれば10年住んだ元の地、遠く離れてしまった友人たち、8年間お世話になった大学病院の先生たちばかりが想い出され恋しくて、毎日涙にくれているようになりました。
草津に転居してそう経たないからのことです。

自分の意思で今後を考えて選択したはずだったのに。
3ヶ月の入院で、ここから出たい、眠らされ(セデーション)、目覚めたら長い絶飲食の日々に、苦しい治療に疲れた、もういい、積極的治療にはやめよう…その頃は覚醒していても、よく考えたつもりですが、そこは人間の思うようにはいかないもの、無治療でも思った以上に再発までの時間はあったのです。

近くに住まう舅には大変お世話になりました。
2~4週間ごとの外来で会う主治医はちょっと馴染めず、(玄関前の階段を雪で阻み、車椅子を出せないから行かない時もあり)今になってこの先生もいい先生だったと感謝しています。
週2回の訪問リハビリ(理学療法士と作業療法士)の女性たちは毎週会って話しできる貴重な人たちでした。

身体が(心も)もっと元気なら近所の人や子供を通して新しいママ友もできただろうけど、学校行事にも行けず、けいれんや手術で取ってしまった平衡感覚やふらつきがあるから車椅子の乗り降りがちゃんとできれば屋内を移動はできても、トイレなど絶えず危険が隣り合わせなので、一人で留守番も危険でした。

それでも転院当初に比べれば、薬もけいれんも減り、ずいぶんよくなったと思います。

人のいのちは人間には計り知れません。

膠芽腫で4度目のオペの結果がこんなで、ターミナルを考えてのことなのにすぐには再発しないから、じゃあ前向きにテモダールくらいやってみようかと思ったのに、ずっと採血結果が悪くて無治療を余儀なくされても、膠芽腫とは思えぬ遅さでゆっくり増大してくれています。

自分でここが最期の場所として決めたことなんだから仕方ない、と諦めかけた時、友達のいる、10年暮らした地に帰りたい心とダンナの仕事のフィールドはここじゃ難しい、と相まって、再度の引っ越しをすることになりました。
せっかくいい友達ができてこれから広がっていく1学期毎に転校した子供たちにはかわいそうなことをしたと思いますが…

今度は何かと頼りにしていた舅が近くにいない分、わたしも大変になるのかもしれません。
わたしがまだほとんど動けなかった秋から介護が中心で、なけなしの貯蓄を取り崩す生活をしていたので、そろそろダンナも仕事しなければ家族を養えませんから、友達の助けを借りつつなんとかやっていこうと思っています。

膠芽腫グレード4なのに生きすぎた、のかもしれません。
それも人知を超えたこと。

いーたんはこの春から中学生。卒業式、入学式には何とかして出たいと思っています。
『いーたんが小学校を卒業するまで、意識もしっかりあって生きてること』が目標でしたから。

結局行き着く最期は、住み慣れた友達もいる地で、馴染みの主治医の元で最期を迎えたい望みを叶えそうです。

子供らは3月から家族ぐるみの一番親しい友達宅で居候してます。
いーたんの卒業は保育園から5年生までいた小学校でさせてあげたいねと友達や先生も言ったから。
たくさんの友達の助けがあって、子供先行でスタートしています。
今、引っ越しの山場です。明日は退院。そのまま移動して、中1日休養して、卒業式にはわたしも出たいって思います。

わたしが散々家族を振り回してしまったけれど、一つの家族のひとつきりの人生、まだ残っています。

救急車初体験

2009年03月11日 | ターミナルケアのつもりで転院・草津へ
一昨日のMRIの結果はまたビミョーに増大。
でもそのくらいですごくホッ。
去年ビミョーに増大し始めたのも2月、その後毎月MRI撮って再発確定が5月。
だんだん再発までののスパンが短くなってきて、3回目のオペからは毎年ほぼ同時期再発疑い。
だから今回2ヶ月以上経っているからバーン!と増大しちゃってたら…と少しコワかった。
医大では手術対象になりそうな大きさ。前回のオペはもしかしたらこのくらいだったかも…

でも今回はオペする気なしです。5回目をすると、また重積痙攣になりそうでコワいから。

病院にMRI撮りに行った日の夕方、胃がすごく痛くなって、胃けいれんかな?とけいれん止め飲んでみてもよくならなくて、そのうちどんどん39.7℃まで上がっちゃいました。
トイレに動いたらゲーゲー吐いちゃってもう大変でした。
朝まで待って病院に電話し、マイカーで連れて行く手筈をつけたのですが、2食抜いてて胃は空っぽなのにちょっと動こうとするだけで、胃液胆汁の緑ゲロをたくさん吐くし(失礼)でどうにもならず、初めて救急車のお世話になっちゃった!
救急車内でも吐きました。

急患の処置は手早いです。吐き気止めを点滴し、主治医の先生に夕食後と寝る前のけいれん止めが飲めなかったと自己申告したら、朝の分も含め1日分、痛~い懐かし~いアレビアチン(痙攣止め)の注射をゆっく~り打たれました。ゆっくりじゃないといけないから。
もぅ半泣きです。
鼻の奥にはインフルエンザの検査をされました。

吐き気止めと水分の点滴して、だんだん落ち着き熱も下がってきました。
採血に心電図にレントゲン、基本検査をしました。
インフルエンザは陰性。よかった!これが一番心配だったんです。

原因は特定できなかったけど、炎症反応も上がってるし、毎度お悩みの白血球もおかげさまで8000以上まで上がってるし、何かの菌?が入ったんだろう。
昨日はおかゆちょっとしか食べられなかったけど、今朝からは食べられたから(嫌いなおかゆも食べてます)、明日は普通のご飯にして点滴やめてもらおう。
お腹の左がずっと痛かったけど、それもかなりよくなってきました。

フクロウ

2009年02月20日 | ターミナルケアのつもりで転院・草津へ
「ママ~、雪だよ!」
昨夜の雪は久しぶりに今朝はちゃんと積もった。
今もまた降り出してる。

先日の早朝、舅が出かけるのを軽井沢に送って行く途中、ダンナが道路でもがくフクロウを保護した!
舅を送った帰りならまだしも行く途中のこと。タオルに包んでビニール袋に入れて帰宅。
「わっ!フクロウ!」

びっくりして「パパ電話帳、電話帳」
動物病院あった!
なんだ、ダンナが見つけた近くだ。ひかれたのだろうか…
ダンナ曰く、この時期は子育ての季節なんじゃないかと。
子供にやる餌を取るのに無理したんだろうか?

翼の肩がポキンと折れていて、他は大丈夫そうに見えたから、消毒薬吹き付けて、バタバタしないようにタオルの上に包帯巻いて、電話帳に載っていた北軽の動物病院に、まだ8時前だったけど電話した。
「やってるかなぁ」とダンナは言っていたけど、わたしは「救急で診てくれるさ」そんな気がした。
電話したらOK!もし野生に帰せなくても保護施設あるからと聞いて、ダンナは40分くらいかけて折り返し連れていった。

わたしの受診日だったけど、何とか間に合うんじゃないかなと。そのかわりわたしも長時間悪戦苦闘して一人で着替えしなければなる羽目になったけれど。

フクロウは真ん丸い目がくりくりしてかわいかった♪(写真では眠そうに写っちゃったけど)
時々半眼になるので痛いからかな?と気にかかる。
早く早く連れてって!とダンナを急かし、助かって・・・という感じだった。

自分の病院の予約ギリギリに帰ってきたダンナに「どうだった?」と聞いたら、左翼切断したって(T_T)
見た目は翼の付け根の骨折だけと思ったんだけど、左肋骨までけっこうザックリ傷ついてたから、パパを助手に大きく縫合したそう。

トリって身体を軽くするために体内や骨の中に空気をためてるそうで、外傷が大きいと中にためていた空気がだんだんしぼんで、さらに肺も傷ついてたから、かなり厳しいらしいと。

翼のつけ根がポキンと折れているので、骨からも始終空気が漏れるわけだから、骨ごとというか肉で包むようにして縫合したんだって。
そうと知っていれば、軽井沢から直行したろうし、ダンナももっともっと急いでたろう。
なるべく空気が逃げない工夫したろう。

普通1キロくらいある体重も、その時点で600gしかなくて、弱ってたみたい。
元気になって野生に帰せるかなぁ、と心配してたけど、それどころか生命がかかってた!
がんばれ、フクロウ!

翌日の夕方、どうしても心配で、ダンナは昨日の動物病院に電話してみたそうだ。
フクロウは生きてはいた。
・・・が餌(冷凍保存のネズミ!)も食べようとしないらしく、今夜は山場とのこと。
フクロウは免疫がないということもはじめて知った。

翌朝。
動物病院が電話があり、あのフクロウは天に帰ったと。
餌を受けつけなかったから厳しいと思ったが、あの状態でよくがんばった、と言っていたそうだ。
「そう・・・かわいそうだったね。でもいい獣医さんに看取ってもらえてよかった・・・」

苦しかったろうな。
片翼でもいいから、飛べなくていいから一命を取りとめて欲しかった。
それって人間的なエゴかな・・・
わたしの頬に一筋の涙が伝った。
子育て中の親だったら・・・ひな鳥はどうしたろう?

苦しい便秘と歩きたいキモチ

2009年01月18日 | ターミナルケアのつもりで転院・草津へ
毎度おなじみ、久しぶりの更新です。
こんないい加減な更新でいつも申し訳なく思っているのですが、辛抱強く待っていて下さる皆さまにはいつも感謝しています。
ありがとうございます。

セデーション(気管挿入して人工呼吸器を使って意識をなくす=脳にリセットをかける)してもう半年も経つというのに、1ヶ月強制休養させられた胃腸はサボりグセがついたのか(苦笑)、なかなか以前と同じようには働いてくれません(或いは感覚野をほとんど切除したことが原因か)。
特にイタリアンが大好きだったわたしだけど、よくて7割、悪くするとほとんど食べられない状態に。未だにこんな腸が元気に働いてくれないのかホント困る。

当然お通じにも影響が。
食が進まないから出ない?
身体が動かないから腸も動かない?
便を柔らかくするマグミットという薬を飲んでいるけどおなかが痛くなるだけで、きちんとお通じがありません。
仕方なく下剤を飲むと腸の中ですでに硬くなってしまってひどく苦しんでトイレに滞在すること2時間…「なんとかして~」とダンナに助けを呼ぶことになってしまいます。

訪問リハビリの先生に相談したら、横になっている時間が長いとどうしてもね…車椅子に座っているだけでも重力は下にかかり、それでも少しは腸は動くんだけど…と言われました。

だから便秘に凹んでいたひまわりサン、便秘解消にトイレにはできるだけ、ダンナに付き添って歩いてみることにしました。けっこう距離があるので、体調によっては帰りはマイカー(車椅子)や迎車(笑)。手すりがつけられればいいんですけど、借家ですから。

オペで体性感覚(平衡感覚や立体感覚)が欠損しているので、ダンナに支えてもらってもあっちこっちへふらふら。
それでも転院時はまだまだぶらぶらになっていた足首も、トイレやお風呂という生活の中から徐々しっかりしてきています。
ただし、寝たきりからリハビリもせずダイレクトに転院して車椅子生活になり、運動していなかったので、足や膝の筋力が衰えて細くなりました。

淋しい毎日に目標が見つかった。
ダンナが家にいる時でトイレに行く時は、なるべく歩くようにがんばろうと思います。

MRIと採血

2008年12月23日 | ターミナルケアのつもりで転院・草津へ
またまたご無沙汰、申し訳ありません。

セデーションの「もう何もしたくない」という気持ちの上での後遺症や、両親の気持ち、わたしの気持ちが絡まって、わたしのものすごく大きなストレスでブログどころでなかったんです。
ゴメンナサイ。

今までへっちゃらだったMRIも、着替えはしてもどうしても行けなくて、ドタキャンしてしまったのは20日ほど前のこと、やっと撮る気になって、3ヶ月ぶりにMRIを撮りました。

結果、一応パスしました(^0^)よかったぁ。
なんだか初発の昔に、いやそれ以上のドキドキでした。

今回切除部の辺縁(頭頂葉の後部)に少し造影される場所がありました。
ちょっと気にかかるなぁと新しい主治医は言いましたが、手術の何のと考えるような問題ではないので大丈夫。
3ヶ月無治療(G4で4回目のオペから半年)にしてはなかなか優秀でしょう。

ホッとしました。
正直一番怖いMRIでした。
画像説明の前に「自分で聞いていく?」と聞かれたので、当然のようにハイと答えました。
怖いけど、結果は当然自分も同席するつもりでした。
自分で聞けなかったのは身体的に身動きならなかった時だけで、自分の意思で、自分の意思で『聞かなかった』のは、ダンナに転院を切り出してもらった一度だけ…でした。


受診後採血しました。
今年の学会でもテモダールの有効性を認められたものが多くあったと聞きます。
ほとぼり覚めた今は、テモダールならできるならやってみようと思うようになっていました。

そして採血の結果を待ちましたが、残念ながら相変わらず最悪…テモダールどころではありませんでした。
白血球1960、好中球960。これじゃ感染に気をつけないといけないくらいです。

はぁ~。
治療フルコースオプション付きで今までさんざん自分の身体をイジメてきたんだってことだからなぁ。
白血球たちも相当疲れてなかなか復活できないのかもしれない…


ひとついいこと。
先日6輪の車椅子『室内用マイカー』が納車されました。
座面の高さが40cm以上の車椅子ってなくて、長身のわたしに合う車椅子はありません。
車椅子に乗って麻痺膝を長時間曲げているので、立ち上がる時に立てるほど痛くなります。骨盤がずれて足のつけ根が痛いので、5cm以上ある高反発のクッションを置いてかさあげしています。それでも膝が直角にならないの。
低床がウリの車椅子はあれど、長身の人の車椅子はありません。それこそ完全オーダーメイドするんじゃないかな?市場がおばあちゃんサイズなのよね。
今の若者が老人になったら、車椅子も高くなることでしょうネ。
ちなみにわたしの車椅子は身障1級のめいっぱい補助を受けて、クッションも同時購入してもらって、低額で買えることができました。
背景が雑多で申し訳ないですが、車椅子らしくなくて気に入ってます。
ただし、6輪はおうち使い専用です。

落っこちた

2008年12月02日 | ターミナルケアのつもりで転院・草津へ
車椅子から落っこちた。
何回目?4回目?
さっきは左足をフットレスト(弱い足)に乗せたまま、だいちゃんがお風呂に入って、次わたしだから濡れた綿のバスマットを手をのばしてひっくり返そうとしたら、わたしが前のめりにひっくり返った。
ダンナが「どうした?!」と飛んで来た。
「一人で動くと危ないよ」
ごもっとも。
でもパジャマ出してシャワーの準備くらい自分でしてたんだ。

あぁ痛かった~。特に左足。
自分で起き上がれないからパパに「せ~の!」って引っ張り上げてもらった。
幸いひねったりはしてないみたい。
危ない、危ない。

けっこうショック…
衝撃でしばらく頭がボケボケしてるから、セルシン飲んでベッドに横になる。
いーたんを先に入らせて、自分の復帰を待つ。
シャワーはしたいんだよね。麻痺側はいつも冷えてるからさ。
さ、もう大丈夫かな?