伊達靖宗

伊達靖宗公記

精神病は高知能者とアスペルガー症候群に多い。

2007年06月15日 | 伊達靖宗の意見
アスペルガー症候群など、自閉症と正常の中間地点にいる人間は、自分を理解でき分析できる。その為、自閉症ならば気にしない問題点に気づき、自尊心を病んでいく事が多い。理解できる事が精神を病むポイントである。高知能者も同様であり、低脳な凡人達は物事に対して非常に単純かつ鈍感に生きている。それは思考能力の低さから、パターンが少なく細かな所までみえていないという事である。しかし、高知能者は細かく物事を見る事ができ、思考回路の細かさと処理能力の高さからも解るように、非常に敏感だ。低知能者が思っている以上に低知能者を無様でみすぼらしい視線で見ている。あの様には見られたくないという意識も強い。ここで言う低知能者とは、管理職や企業の中でのポジションの高い反面、当たり前の事をこなしているだけにしか過ぎない人間などの事である。その低知能者は自分よりも下に馬鹿、アホが居るという意識が存在し、普通であるか、普通と比較して知的だという勘違いが多いのも特徴である。また、自分自身もまだまだという意識を理解できない低知能者は、下にアホ、馬鹿が存在するというポジションである事を心の中では理解している為、自分よりも劣ったと感じた場合、即見下すという行動が非常に多いという特徴がある。一般的に低知能者は自分の現状をより大きく捉えている事が最も問題であり、その事が高知能者のストレスになるポイントでもあるのだ。低知能者は低脳なモノの見方をしている為、時には高知能者を下に見るという勘違いも多い。低知能者やそれ以上の低知能者もその能力値を理解している場合は大体の場合問題にはならない。人は自分よりも下の者の様に見られたくないという考えがあるが、低知能者がそう思う相手というのは、基本的に外からの評価も頭の悪い人間と言われている人が多く、その様な相手を相手にしている為、問題は無いであろうが、高知能者の場合は、外からは馬鹿とされていない人間の問題点や、未完成な理論やものの考え方などが敵となる為、非常にストレスになっている。また、低知能者の勘違いほど高知能者のストレスになるものもない。これは学校一運動が出来る人間は弱い者や運動の出来ぬ者を馬鹿にしなくて良い心理状態なのに対して、中途半端な者ほど劣っているものに対する優越感が強いのと良く似ている。自己の問題点を突き詰める事無く単調に理由を付け納得できる低知能者は精神病になりにくいという事である。
精神病患者には知的な人物が多いという事の理由もそこにある。

問題行動を単純に判断する低知能者こそがアホなのである。

2007年06月15日 | 伊達靖宗の意見
問題行動を起こす者がいた場合、他者に対する攻撃行動を起こす問題を持つ者に対していは死の制裁により裁くべきであり、死という制裁によってその者を救う事が出来るであろう。しかし、他者への攻撃行動とは別に、非常に自分勝手で臆病に見える人間が存在する。その場合、その問題行動の引き金になる理由を追求しなければならない。すぐに逃げる、すぐ怒るという人間がいた場合、それを簡単にアホや馬鹿と言う人間がいたならば、それは低知能者である。逃げるという行為は恐怖からの脱出行為であり、ある程度のレベルに達すると誰もがその場を後にするか、敵に刃を向く行為のどちらかを選択する。恐怖は生命を守る上で必要な行為であり本能である。トラウマや精神的な問題を抱えた者の場合、その恐怖を感じるレベルが非常に低い所から始まる場合には、小さな事でも逃げる、戦うという行為に出る事があるのだ。その様な人に対してはその精神構造の組み立てを安定化させる経験や、その恐怖に対する防衛作を与える事で問題行動はある程度収まるのだ。問題行動=アホな人馬鹿な人ではなく、問題行動=精神的なバランスの欠落、不足である。

人の心は城と同様に複雑に設計されている。柱が不足城に対して、柱を作る事は簡単ではない。その場合それに変わる外的な支えなどが必要になってくる。

また、その様な状態は軽いものから精神病と言われるものまで数多く存在し、何処からをはっきりと精神病と判断するかというのは非常に曖昧である。しかし、その問題行動を分析出来きぬのならば、それはアホであり私のような低知能者には理解できないと言わなければ、より悪影響を与える人間になるであろう。

低脳極悪犯の授業 『黒田 恭史は低脳な極悪犯である。』

2007年06月08日 | 伊達靖宗の意見
ある小学校教師黒田は、パック詰めにされた肉などを食べている今の子供達に、その命の重さを教えたいを言う考えから、実際に豚を飼育し皆で食べるという授業を行った。黒田のクラスでは豚を飼いだした。名前をPちゃんとつけ、小屋を作り、生徒が皆で協力して作業を行う。家族のように解けこんだその豚を、殺して食べる日が近づく事で会議が行われる。その結果豚を殺す事はやめるという結果になる。下の学年の生徒達はその豚の飼育を引き継ぐという結果になっていた。しかし、生徒の保護者が、飼育して食べるという事で飼ったのではないか?という発言から、生徒達は豚を殺す側と、殺さない側に別れ、激しい意見をやり取りをする事になる。意見は半々に割れ、黒田の判断で全てが決まる状態になる。その結果、黒田や生徒は涙を流しながら、食肉として殺す事にした豚を見送った。

この出来事には致命的な問題点がある。


1命の大切さを教えると言っているが、教える側がその事を理解しているならば、結果を予測する事は簡単な事である。


2一度は殺す事が出来ないと、命の重みを優先した結果になったが、生徒の保護者が言った言葉によって、命の大切さVS筋を通す事という構図に変化してくる。


3助かる状態があり、またその状態を作り出す事をせずに、殺す側に投票した生徒達は奇麗事や理由を付け、殺す選択している。命の大切さを超えるモノを優先した形になっている。


4殺害に向けて出発する日、殺害する選択をした黒田と生徒は、涙を流しながらもその命を奪っている。筋を通す事を優先した、または命よりも大切なモノがあったという証である。


5筋を通す様な振る舞いをしたにも関わらず、殺す側に投票した人間はその肉を食べていない。自らの手で殺していない。その二つを自ら実行する事こそが、大切なモノの命の重みであり、殺すという事である。他人任せの殺害ほど馬鹿げた事はない。


6筋を通す、言った事を守るというのは、判断の出来ない人間を縛り付ける鎖であり、本来は儀や道徳によって守るものであり、縛られるものではない。その事が理解できぬ馬鹿が中途半端な人任せの殺害を選んでいる。


7小学生の年頃の10歳前後という時期は、人生の中でも記憶力が高い時期であり、その行為を実行しなければ理解できないのであれば、それは重度の知的障害かあほでしかない。


8学校の教師となる者には、それ以上に教えるべき事が数多くある。人間が肯定的に事実を捉えるために必要な自尊心の確立こそが、悲しみ、思いやり、優しさ、いじめ問題肯定的な結果に結びつく事すら頭に無い。心理学すらまともに理解できていない低脳な行為である。


9やった事が良かったのか悪かったのか解らないと言うあまりに低脳な馬鹿としか言いようの無い発言をしている。


10当時の日本の環境では病気などで命を落とす子供が多く、そこで命の大切さを学んだというが、それは事故である。このクラスでは彼らが自ら殺すという選択をしている。


11泣きながらも大切なモノを殺害する選択は、非常に恐ろしく残虐である。オウム真理教の地下鉄サリン事件の実行犯のメンバーには泣きながらその残虐な犯罪行為を行っていた。


道徳心は自尊心が健康な状態の人の素直な感情である。しかし、その素直な感情に甘えや都合ができる事で形を変えてしまう事がある。それを防ぐ為に、決まりや規則、筋を通すと言う事を教育している、しかし、この規則に縛られる事で本来の道徳心自体に悪影響を与えてしまう事もあり、それが今回の結果の現れである。
また問題なのは、この授業の講義を教師の卵の集まる大学の現場で行い、その中の学生にはこの授業をやりたいと言う者がいた。
もし、その教師の卵が、生徒達が自ら意見を出し合い奮闘する姿をみてそれを思ったのならばその人間には死の制裁を与えるべきである。なぜなら、それはせざる得ない、命を教材として利用しているだけに過ぎないのだ。
アホは何をするかわからない典型的な例であり、教育には信念と確立された理念と目的、計画は最低限必要である。
また、このテレビや本を見た主張者は軽はずみな意見や、物事を理解し、自分の意見で説明をつける事の出来ない様な状態での発言には意味が無く馬鹿の手助けであす。

この様な理解と計画なき、低脳な意識なき極悪殺人犯である。

日本はアジアの一員は良し、同化は別次元の話である

2007年05月25日 | 伊達靖宗の意見
日本はアジアの一員であるという事はよく言われている。それは地域、文化としての関わりの中で考えた場合、悪い事ではない。
その中でも馬鹿げた発言の一つがあり、アジア人として誇りを持つという低級であり誇り無き意見がある。西洋人の知識の無さから、アジアの国々を皆同じと考えるという事を知り、アジア人として意識を持ち、誇りを持つなどといっている無知かつ馬鹿な人間が存在する。西洋人が東洋の国々の区別が出来ないという、外からの目に振り回され、自国の事や優れたモノを無視して、他国と同化するような考え方をするという事は、誇りや自国の利点を知らないだけであり、自信なきモノの考え方である。西洋人の評価に囚われいるだけの、日本の敗北者の負け犬らしい意見でしかない。アジアは一つではなく、歴史ある国の集まりであり、繋がりや共通点はあるにせよ、それぞれが違い、それぞれに個性があるのである。一つという事は無いのである。自国の個性や誇れる文化や伝統、歴史的人物などを知る事で、その様な惨めな考えを持った人間になる事は防ぐ事ができるのではないである。ただ。己に本当の自信の無い者が自己に都合良く考えるというのは対象外である。日本は最も進んでいると優越感を持った考えがあるのは確かである。能力、才能に恵まれない能無しである人間が、都合の良い思考で他のアジア諸国を下に見る行為は無能で愚かな行為である。上下付ける安っぽい考えでは意味が無いのである。自信として他のアジア諸国とは違うという意識を持つ事を決して悪い事ではなく、これを否定し日本はアジアという発言するのは、農民の皆一緒という敗北的思考でしかないのだ。
自国の事を知り、誇りを持つことで、プラスの意味や尊敬するスタンスで国を見れ、その見方を他国を見る時に応用できるのである。西洋諸国を日本人は同じように捉えがちであるが、それはアジアを同化してみる西洋人と同じであり、彼らには最高位のアングロサクソンからスラブ系民族まで存在し、アジア諸国以上に強い不快感を感じるという事実もある。個のレベルから、重んじて考えなければならぬという事である。

出る杭は打つを使いたがる西洋の負け犬達

2007年05月25日 | 伊達靖宗の意見
日本人は出る杭を打つと言われる。また、欧米の知識を持った人間の使いたがる言葉のなかでも、日本に対しては出る杭は打つがある。確かにこれは一理あり、名を残す事なき集団作業の社会では、協調性を重んじ、人の問題点を指摘する事でしか自分の優位を示す事ができない農民はそうであったであろう。嫉妬や妬み、皆同じでなければいけないという、日本のプライドの高いタイプの農民の子孫には、その農耕民族の遺伝子が今でもしっかりと生き続けているのであろう。
しかし、日本人だけが出る杭を打っているわけではない。例えば、欧米人は、日本という国が突出する事をすると反発するものである。レースの世界では、日本車の性能に対抗できなくなる事でルール改正を行い、オリンピックでは常に自分達に有利に働くルールを作り出す。当時はバレー、最近では柔道、スキージャンプなどだ。基本的に戦っている土台が欧米の国々主催のものだという事も関わっている事実はある。F1の世界でフランスのルノーが勝ち続け、WRCではプジョーとシトロエンというフランス勢が勝ち続けるという事が起っていたが、フランスの自動車メーカーにそれほどの技術があるのだろうか?と非常に疑問を抱く風景である。そのくせ、日本の出る杭は打つと言う言葉を知り、使いたがる欧米人の安っぽい知識人は多い。日本では優れたものはなかなか登場しない、それは出る杭が打たれるからである、という安っぽい意見である。これは自動車雑誌や、日本の問題点をつく意見としてよく使われるものだ。日本という出る杭を打っているみすぼらしい欧米人の負け犬のたわごとでもある。まず出る杭になる事は無いであろう西洋社会の負け犬ほどその言葉を求め、自分を出る杭に見立てたがるのも事実であるのかもしれない。出る杭は打たれるの逆は、脳ある鷹は爪を隠すという言葉であり、西洋では沈黙は金という言葉が存在する。その違いを見極める事が出来ないようであればそれはただの馬鹿でしかないのだ。日本という出る杭は、西洋の嫉妬を買っているということであろう。

F22購入すべきか?

2007年05月24日 | 伊達靖宗の意見
日本の空を守っている戦闘機はF-15戦闘機。世界的見て非常に高価であり戦闘能力も高いこの機体は、ロシア、中国から日本の領空を守っている。
そんな中でも、軍の近代化を続けている中国、また経済が安定するにしたがって活動を活発化させているロシア機は、日本領空近辺には頻繁に出没する。そしてそんな状態のなか、アメリカはステルス性能をもつ、F22戦闘機を日本に売るか売らないか?日本は買うか買わないかという話題が巻き起こっている。自衛隊のF15戦闘機は対空戦闘機であり、飛んでいる機体を打ち落とす為に戦闘機である。これは国の領空を守る為の最も重要な防衛の為に必要不可欠なものである。このF15は世界的にみ非常に高い能力を持つが、F22はこのF15と戦ったばあい、たった1機で4機のF15を相手に勝つ事が出来る程の能力を持っている。自国の空を、中国、ロシア、その他の国から守る為には、強き鉄の壁は絶対必要なものである。F22は非常に高価であり、金銭的には大きな出費になるであろうが、国の空、国の命を守るべき機体である為、その価値はあるであろう。中国や韓国は文句を言い出すかもしれないが、敵国を攻撃する兵器でなく、自国を防衛する兵器に文句をつけるなど、わがまま極まりない発言である。特に日本領空近辺を飛行する中国が発言するほど筋違いな話は無いであろう。台湾問題を抱えてる背景があるにしても、彼らは攻撃の邪魔になるものを否定しているだけでしかない、自己中心的野蛮国家である事にかわりはない。また、アメリカは日本にF22を輸出する場合、イージス艦の機密情報を簡単に漏らすようないい加減な日本の情報意識に条件をつけなければ、このF22の機密データも漏れ日本は防衛ではなく、ならず者国家に情報提供という事にもなりかねない。
高価な額を抑えたいならば、一時的に非常に高い出費を覚悟し、自国で生産するも手であるが、アメリカは圧力を掛けてくるだろう。ここは残念なところある。
戦争をしていた時代と今の時代の世界を取り巻く状態は全く違う。そこを理解したうえで、この様な問題を考えなければ行けない兵器=悪という時代ではない。

裏社会にも秩序が必要

2007年05月24日 | 伊達靖宗の意見
日本の裏社会、特に恐ろしい場所として認知されている地域に、新宿歌舞伎町がある。この地域には中国や韓国、ナイジェリアなどをはじめ、世界各国の犯罪者が入り乱れている。しかし、なぜこのような状態に危険な状態になったか?というと、国や市、警察が地元に根をさしていたヤクザを追い払った結果、裏社会の秩序が失われ、弱小な勢力が蔓延したに他ならない。確かに日本におけるヤクザは良き存在ではない。しかし、ヤクザには歴史と伝統があり、この伝統の中には堅気などの言葉があるように、裏社会にも裏社会なりの秩序や決まりが存在していた。
ヤクザを追い払う事でより達の悪い連中が徘徊する様になっただけであり、やはりヤクザを排除するのであれば、その他の小規模なグループい大しても徹底的な行うべきである。また、犯罪に対して徹底した環境の整備も盛り込んだ街づくりが出来てた上で行うべきであった。スペースを与えた状態では意味が無い。簡単に言えば、ヤクザだけを狙うのではなく、犯罪に対して徹底的な取り締まりを行わなくては意味が無いのではないだろうか?
また、メディアでは外国、外国人を脅威的に捕らえ、強烈な毒素を持ったバイ菌の様に見せる演出を行っているのも問題である。例えば、歌舞伎町を外国マフィアがヤクザから奪い取ったなど、圧倒的に上の力を持つかの様な報道である。しかし、現実問題として、関東のヤクザ社会で最も大きな問題は外国人犯罪組織ではなく、山口組の関東進出である。発砲事件がその大きさを物語っている。中国マフィアと言われる殆どは、巨大組織としてではなく、小さなグループの集まりであり、お互い力を貸しあうといったものである。だからこそ秩序が無いのであり、組織力もなく、すばしっこいが強い組織とはいえないのだ。また、ヤクザとの関係においても、海外ではそういった三合会と言われる組織はヤクザと関係も決して悪くない。日本のメディアはヤクザが海外で何をしているか全く知らないのである。メディアは外からの攻撃をより大きく書きたて、フィリピン人女性の問題で、日本に対して起ったデモの事などは報道されていない。日本国内では大きな脅威として報道されている、外国マフィアが脅威なのであれば、発砲事件位は起るであろう。マフィアを封じ込め、より裏に潜らせたアメリカの法律をヤクザに適応し、ヤクザを裏に潜らせマフィア化させるのは決して良い方法ではないであろう。山口組が巨大な規模の犯罪に身を通じ、麻薬、強姦などの低級犯罪に処罰を下しているうちは良いが、その様な組自体が無くなれば日本中が、日本人組織も中国マフィア同様になってしまう様に思える。速球にヤクザを消し去るのでは裏社会の秩序は無くなり、凶悪事件が起るであろう。やはり、残すべき所は残し、いたちごっこを行いながらも時代の変化を待つ事が良いのかもしれない。在日、、貧富の差などの差別問題を徹底して改善する事が国内の犯罪の減少につながる事は確実である。事実、ヤクザ社会では高齢化も進んでいる。ヤクザ業以上に彼らが経営するフロント企業が収入のメインになる時がいつくるのであろうか。

日本車に歴史を与える

2007年05月24日 | 伊達靖宗の意見
日本の自動車は、安く壊れないから始まり、現在では高級車の世界でも世界へ進出している。アメリカではトヨタのブランドレクサスは大成功を収めているが、ヨーロッパでは成功していない。特に、自動車大国として知られるドイツでは全くレクサスは成功していない。歴史、個性から生まれるブランド力が劣っている事や、新しいモノを受け入れる事に抵抗のあるヨーロッパでは難しいであろうし、東洋という格下と思える国というのもネックになっているかもしれない。ベンツやBMW、ポルシェ、アウディー、大衆車ではフォルクスワーゲン、オペルを抱えるドイツは自動車に対してのプライドも高く、高級車のジャンルで日本メーカーが成功する事は難しいであろう。日本車の弱点の一つは、個性の無いデザインと言われるが、その反面日本製のデザインはバランスなどもよく、評価の高い側面も持つ。特に日本製の電化製品などの多くは、その性能や壊れない以上に、デザインの良さが評価されている。自動車に対してもその評価はあるものの、日本メーカの万人受けを狙ったデザインがその評価を下げているのも事実でる。ドイツの自動車ジャーナリスト達は日本とドイツの自動車の歴史に50年の差があり、その差は永遠に縮まる事がなく、勝ち続けるかの様な理論を長々と語るものである。しかし、これは自国が勝ち続ける為に、永遠に勝ち続ける為の理由を付けているにしかすぎない。日本の自動車メーカーが持つ50年のハンディは、圧倒的な技術と、圧倒的なデザイン、伝統と歴史を使い、個性を作る事でいくらでもヨーロッパの自動車を越える事が出来るように思える。

トヨタは長々とベンツの後を追いかけてきただけに過ぎ無いであろう。その中で本場を越える技術なども作り上げたのも事実である。しかし、ベンツから自立し、今の自動車メーカーも気づきだした日本的な個性を持った車作りを行いだしている。ここで重要なのは、今の日本のメーカーは自分達流の自動車を作るだけでなく、世界で最も自国の歴史や伝統を車に注入し表現しているイギリス車に目を向ける事が大切なように思われる。ジャガーにはイギリスの伝統的な文化であるレザーや、ウッドパネル、などのデザインには上流階級の文化が多用されている。室内はまるでイギリスの豪邸のような印象である。イギリス車は、国の文化と個性が強く出ているのだ。日本の歴史に目を向け、日本の伝統に目を向けるとその様な個性は多様にあり、ヨーロッパの自動車の中でも全く引けを取らぬ車を作れる事は簡単に理解できる。例えば、日本建築、日本の城、漆塗り、特に参考にすべきは日本の鎧、兜であろう。あのようなデザインは世界的にはあまり類がなく、一目で日本的と理解できる個性的かつ力強いデザインがある。この様な日本の伝統を出来る限り車に注入する事で、世界に類を見ない独特な車を作る事が出来るのではないだろうか。日本の歴史、伝統がそうであるように、自動車もその世界に乗せる事がヨーロッパでの成功の鍵であるように思える。ヨーロッパのメーカーと日本の自動車メーカーの歴史の差は約50年であるが、このような文化を注ぐ事で、宣伝文句に『この自動車には日本の歩んできた2000年の歴史が収縮しています。この車は2000の歴史が生み出した、伝統の一つです』とでも言いえば、50年の歴史の差など20年で無に近づける事も出来るのではないだろか。自動車ジャーナリストの中には、外車を褒める再に、ヨーロッパの町並みに触れ、このような環境で育った事がヨーロッパ車のデザインの良さで日本では勝てないと言う様な発言をする者もいるが、日本の城の前で絵になる車を作る事が良いのではないだろうか。石を積み上げるヨーロッパ建築に対し、木で作りあげた日本のデザインや力強さを理解し、中国や韓国とも違う日本的要素を見つける事の出来ない目を持つ自動車ジャーナリストは正直ただのアホな農民であろう。また、ガンダムは日本の鎧を元にデザインしている。この様な所にも伝統は生きているのだ。自国の利点を知る事が世界での戦に勝つ事につながるのでる。それが出来ない者は自国で負け続ける敗北者であり、外に出た場合に恥さらしになるだけなのである。
欧米のジャーナリストの中には日本文化を理解せず、出る杭は打つと言う言葉を使いたがる者もいる。それと車作りを結びつけ自分達の優位を語るものもあるが、日本でフェラーリやランボルギーニに乗る者はいくらでもいる事と、伊達政宗、豊臣秀吉、武田信玄などの鎧兜文化を見れば、無意味な意見だと理解できるであろう。また、この戦国の3者こそ日本車のあるべきデザインの道を示してくれている様にも思える。

日本人の美意識

2007年05月24日 | 伊達靖宗の意見
一部の人間の間では、美意識は支配階級への憧れであり、当時は先進敵な国であった中国的な顔立ちが良く、現在は進んだ欧米的な美意識が強いというが、そう単純なものではないのである。日本という国には、当時、縄文人が暮らしており、彼らは非常に立体的なマスクをしていた。縄文人は旧モンゴロイドといわれている。そこに大陸から寒さに適応し平坦な顔に進化した新モンゴロイドが、弥生人として列島に渡ってきたのだ。
この当時の絵は皆一重でおたふく顔というが、彼らが中心として築づかれた京都や奈良は弥生文明であり弥生人の世界観しかないのだ。しかし、その当時、東日本では縄文人は狩猟を行い生活をしている。その東日本では当然縄文人達の間で、また違う美意識が存在する事は当然であり、その当時の美人像はその当時の日本列島の一部の美意識にしか過ぎないのである。その後、数百年たった江戸時代で花開いた世界的文化としてしられる浮世絵を見ると、またもや平面的な細い目の女性が描かれている。これは弥生文明が全国的に広がっただけではなく、その当時の絵の書法を受け継ぎ出来たものであり、江戸に住む人々の美意識や美人像と簡単に言ってしまうのはあまりにも単純な馬鹿人間の意見である。例えば、男性であるが、その時代に知られる新撰組の土方歳三は、非常に現代の美意識に近い容姿をしている。その土方歳三は当時非常にモテたと言われている。この時代、その様な顔立ちが非常に良いとされているのにも関わらず女性は平坦な顔が良いというのは、少し矛盾が生じるのである。たとえば、顔にはその人間の3代前までの先祖が現れると言われるし、現代の夫婦などには共通のバランスが存在するなど、自分と遺伝的に近いものを判断すると言った要素が顔には含まれており、単に時代や流行とは別次元な遺伝的要因による異性への魅力という要素が組み込まれている。そうなった場合、この土方歳三が自分と近い遺伝を持ったものを捜し求めた場合、平坦な顔立ちをしたおたふくであろうか?また、夫婦やカップルは良く似ているというが、これはマッチングや類似説という心理学的な要因が絡んでくるのだ。その様なものをトータルとして考え場合、単に支配階級に対する憧れと言ったようなあまりにも単純な意見では無い様に思えてくる。また、当時は現在と比べ人の移動がたやすい時代ではない。だからこそ地域差が顔には強く出ているし、縄文系弥生系の遺伝的差も現在に比べ地位差が根付いているはずである。弥生文明から距離のあった江戸には、京都や奈良にくらべ堀の深い顔が多いという事は確実であり、現在以上い差がある可能性も高い。その場合、浮世絵顔が美人とされていたかと言えば、絵の文化と生の人の美の文化には違いがあるのではないであろうか。また、現代の日本人は西洋人の顔に憧れる言うが、そのれ一部では確かな事だが、それは数多くの要因の中の一部でしかないのだ。美の多様性を見ずして一部を見て決め付けるのは、現代で例えれば、浜崎あゆみが美人とされていると言っているようなものである。一国の歴史ある国の美を語る上で、憧れ真似をする側の、その国の誰もが認める代表的な美を持たぬモノが美を語る時点で、それは間違っている様に思う。

織田信長と右脳の力

2007年05月24日 | 伊達靖宗の意見
日本の歴史の中で、最も人気があり、常識に囚われず己の頭の中で新しい時代を作り出し、実現させていった人物と言えば織田信長と坂本竜馬であろう。
織田信長は幼き頃より大うつけと言われ、女物の着物を独自にアレンジして着こなし、道の真ん中でモノを食べるなど、その他の多くの行動は人とは違っていた。理由としては母親が信長を可愛がらなかったという事への反発や、周囲を欺き己の知性を隠していたとされているが、やはり信長の多くの行動は、右脳のヒラメキや発想を素直に実現させていた様に思われる。農民、町人に関係なく付き合う事が出来たのも常識や身分以上に右脳の感覚やモノの見方、血統の良い家系に生まれたのにも関わらずその利点を実感する事が出来なかったなどの理由であろう。優秀な家系に生まれ、その流れに従うことで利点を生み出す幼少期を過ごしてしまう場合、それは作り出す事ではなく従う事で生きているも同然である。その過度では自分で作り上げ独自の価値観は必要ないからである。また、わざと馬鹿をやり周囲を欺いたという発想も、常識的なモノの見方しか出来ない人間の考えであり、信長の幼少期の行動の意味や発想を理解したうえで語ることの出来ない右脳未発達者の言い分のようにも聞こえる。その証拠に信長は大名になってからも基本的な行動はそれほど変わっていない。右脳派の特徴であるイメージとして全体を作り上げる事は、左脳派には理解できないのは当然である。左脳派に文章で右脳派の作り上げた広大なイメージを理解させる事は非常に時間がかかり、右脳派にとって最も厄介な作業であるからこそ、信長は周囲の人間に自分の考えを理解させる事に関心が無いなどと言われたのであろう。一瞬映し出される映画のコマーシャルを文章で伝えるには、コマーシャルの15秒では無理と言う事である。パソコンの画像データの要領と文章データの要領の差であり、意味の無い起った出来事を延々説明する発想なき会話を得意とするようでは馬鹿でしかないと言う事であろう。また、若き頃の信長は南蛮鎧を身につけ戦場に行く行動や、マントなどその当時珍しい西洋モノを身に着ける行為、第六天魔王と名乗るなど、旧来の貴族や高い身分や血統、伝統や常識に対して独自に作り出した世界観や思想で対抗していたように思われる。
また、戦の場、特に武田軍との闘いでは過去に前例の無い事を成し遂げている。過去に前例のある事を応用して作り上げるのが左脳派であれば、右脳派は自分で作り上げると言う証拠である。そして信長が天才でなく右脳派だと言う証は信長の性格に現れている。右脳は状況判断能力の速さ、感情、イメージ、発想をつかさどっている。信長の短気な性格には、過去の問題もあるであろうが、相手の発言や行動を即、右脳のイメージ→判断→感情に結びつければ理解できるのではないだろうか。
やはり天才と馬鹿は紙一重と言うが、馬鹿は右脳をあまり使う事の無い左脳派であろう。左脳派は本来右脳派の作り出す事をロボットの様に粗探しを行い、実行していくべき人間なのかもしれない。

日本は異民族が混血して誕生した

2007年05月22日 | 伊達靖宗の意見
日本人というのは、古くから住んでいた縄文人、その後、大陸から渡って来た弥生人の混血であり、縄文(アイヌを含む)、弥生の中にも数多くのグループが存在している。
縄文系は背は低く、堀が深く、体毛が濃いなど数多くの特徴がる。弥生系には平面的な顔、背が高い、体毛が薄いなどの特徴がある。日本人は弥生系優勢で混ざり合っていると言われている。日本人は平面的な顔だと言いたがる平面的な顔をした日本人や、日本人は農耕民族でコツコツやるのが良いという、運動の出来ない負け犬の遺伝子を受け継いできた農民の子孫達などの発言は、日本の大多数に当たるとしてもそれは全てではないとういう事を考えておかなければならない。日本人はこうだと全体を語るが、それは非常に単調に周囲を見ているだけであり、自分に合う周囲の人間をみて発言しているだけの意見である。東日本特に東北に縄文系の遺伝が強く、縄文人に多かったB型の比率も上がってくる。近畿地方には奈良時代、京都の朝廷など弥生系の移民文明が花開いた土地だけあり、弥生系の遺伝が強いと言われている。東北を見た場合、秋田美人の特徴や、仙台の伊達政宗などの特徴を調べると、縄文系あるいは縄文系の子孫とされているアイヌ系の遺伝子を強く受け継いでいる事がわかる。その様に多様な民族である事も理解せず、『日本人はこうだ』と自分を中心に考え劣っているような発言をする負け犬農民の恥さらしは日本に住む差別されるべき負け犬民族の一派である。日本人は平面的で目が細い顔と言う人間はその様な顔をしているのだろう。私はその民族の遺伝を引いているからそういう顔をした日本人だと言ってもらいたいものだ。

人種差別との闘い

2007年05月22日 | 伊達靖宗の意見
アメリカ社会に潜む人種差別。
この人種差別は、アメリカ社会に存在する民族による階級社会が原因であろう。
差別とは、自分よりも弱いものに対して行い、優越感を得る行為である。
差別の背景には人間としての弱さ、劣等感が隠れている。

アメリカ社会で最も地位のある民族はイギリス系のアングロサクソンという民族である。ドイツのゲルマン人、そして彼らからは純粋の白人ではないとされるが地位のあるフランス系アメリカ人。低い身分としてポーランド系、イタリア系、アイルランド系、奴隷のイメージが強いロシアや周辺諸国に暮していたスラブ系などだ。白人と言う定義も、色ではなくそのアングロサクソンの様な最高位のグループという意味でもあるのだ。WASPというのは、ホワイト・アングロサクソン・プロテスタンの略で、民族宗教などで最も血統の良いとされる人々のである。これはイギリス系の国の人がそうであると言うだけでもある。アメリカ社会の複雑な上下関係のストレスが差別の続く理由であろう。差別の中には自分たちが上や、自分自身が上に立つ為の言い分が多く、能力なきアピールに意味は無くこれは犯罪行為である。その様な差別意識を理解し、相手の言い分を理解する事で相手がコンプレックスを持つ部分を探し出し、相手の劣等感を見出した時、その弱点を徹底的に叩き相手に精神的ダメージを与え精神を破壊する事が差別に対す反撃である。また、反撃は敵が後戻りが出来ない状態まで引っ張って、そこで叩き潰すのが最もな方法であろう。また、自国の利点を知っておく事も敵の差別意識を粉砕し陥れるのに有効な手段になるのである。

現代の武士のあるべき道

2007年05月22日 | 殺意
植園貴光という名の殺すべき極悪人は、、特急電車サンダーバード内で見知らぬ女性に目をつけ、「逃げると殺す」「ストーカーして一生付きまとってやる」と脅し列車内のトイレに連れ込み乱暴し、逮捕された。この時、車内に居た乗客達の中には、不審な行動に気付いた者も居たが、『何見とんじゃ!』と威嚇され、引き下がってしまった様だ。

このような状態に出くわした時の為にも、常日頃からの鍛錬が必要である。問題を見て見ぬ振りは恐れの現れであり、臆病者の農民でしかないのだ。農民ならば集団主義の力を生かし一人の死すべき極悪人に立ち向かう事が重要であり、集団主義の基本のコミュニケーション能力が欠けている様に思われた。その様な農民になる事は負け犬の道、名を残す誇り高き侍にあってはならぬ事である。この場こそまさに名を残す戦の時である。鍛錬を積み重ね作り上げた戦う体を持ち、敵を確実にしとめる訓練を行う事で、今回の極悪人を天に代わって裁く事が出来たのである。極悪人は威嚇という手段で己の力を誇示するが強き者には威嚇など無用である。特に悪人であり、俺は何をするか分からないぞという脅しには、戦で己を力を示す事の出来ない落ち武者以下であると言っている様なものである。今回の様な人間にはその場で即攻撃程有効な手段はないのである。強烈な一撃を極悪人に対して放ち、致命傷を負わせた瞬間、その悪人の面の中に隠れた貧弱な臆病者という正体を表すであろう。【怒】【儀】【信】【殺】を持ち合わせ、被害者を助けるのではなく、悪を叩き潰す信念を持ち極悪人に死という名の印籠を突きつける事が本来あるべき男の生き方である。
出所後、犯人を発見したならば、その印籠を渡す男が居たならば、その男は本物の虎である。

伊達靖宗心の俳句

2007年05月22日 | 俳句
悪人を 切れば切る程 命咲

宗教の必要性  伊達靖宗の詩

2007年05月22日 | 伊達靖宗の名言
宗教というものの信仰は、度合いの濃さは落ち度の現れであり
己で考え正論を生み出す事の出来ない弱者を固定させる為のものである。弱者ゆえ、支配や誘惑に弱く信念無きにして目標無し。
非道の道へ走らさぬ為縛り付ける救済処置である。