
ある小学校教師黒田は、パック詰めにされた肉などを食べている今の子供達に、その命の重さを教えたいを言う考えから、実際に豚を飼育し皆で食べるという授業を行った。黒田のクラスでは豚を飼いだした。名前をPちゃんとつけ、小屋を作り、生徒が皆で協力して作業を行う。家族のように解けこんだその豚を、殺して食べる日が近づく事で会議が行われる。その結果豚を殺す事はやめるという結果になる。下の学年の生徒達はその豚の飼育を引き継ぐという結果になっていた。しかし、生徒の保護者が、飼育して食べるという事で飼ったのではないか?という発言から、生徒達は豚を殺す側と、殺さない側に別れ、激しい意見をやり取りをする事になる。意見は半々に割れ、黒田の判断で全てが決まる状態になる。その結果、黒田や生徒は涙を流しながら、食肉として殺す事にした豚を見送った。
この出来事には致命的な問題点がある。
1命の大切さを教えると言っているが、教える側がその事を理解しているならば、結果を予測する事は簡単な事である。
2一度は殺す事が出来ないと、命の重みを優先した結果になったが、生徒の保護者が言った言葉によって、命の大切さVS筋を通す事という構図に変化してくる。
3助かる状態があり、またその状態を作り出す事をせずに、殺す側に投票した生徒達は奇麗事や理由を付け、殺す選択している。命の大切さを超えるモノを優先した形になっている。
4殺害に向けて出発する日、殺害する選択をした黒田と生徒は、涙を流しながらもその命を奪っている。筋を通す事を優先した、または命よりも大切なモノがあったという証である。
5筋を通す様な振る舞いをしたにも関わらず、殺す側に投票した人間はその肉を食べていない。自らの手で殺していない。その二つを自ら実行する事こそが、大切なモノの命の重みであり、殺すという事である。他人任せの殺害ほど馬鹿げた事はない。
6筋を通す、言った事を守るというのは、判断の出来ない人間を縛り付ける鎖であり、本来は儀や道徳によって守るものであり、縛られるものではない。その事が理解できぬ馬鹿が中途半端な人任せの殺害を選んでいる。
7小学生の年頃の10歳前後という時期は、人生の中でも記憶力が高い時期であり、その行為を実行しなければ理解できないのであれば、それは重度の知的障害かあほでしかない。
8学校の教師となる者には、それ以上に教えるべき事が数多くある。人間が肯定的に事実を捉えるために必要な自尊心の確立こそが、悲しみ、思いやり、優しさ、いじめ問題肯定的な結果に結びつく事すら頭に無い。心理学すらまともに理解できていない低脳な行為である。
9やった事が良かったのか悪かったのか解らないと言うあまりに低脳な馬鹿としか言いようの無い発言をしている。
10当時の日本の環境では病気などで命を落とす子供が多く、そこで命の大切さを学んだというが、それは事故である。このクラスでは彼らが自ら殺すという選択をしている。
11泣きながらも大切なモノを殺害する選択は、非常に恐ろしく残虐である。オウム真理教の地下鉄サリン事件の実行犯のメンバーには泣きながらその残虐な犯罪行為を行っていた。
道徳心は自尊心が健康な状態の人の素直な感情である。しかし、その素直な感情に甘えや都合ができる事で形を変えてしまう事がある。それを防ぐ為に、決まりや規則、筋を通すと言う事を教育している、しかし、この規則に縛られる事で本来の道徳心自体に悪影響を与えてしまう事もあり、それが今回の結果の現れである。
また問題なのは、この授業の講義を教師の卵の集まる大学の現場で行い、その中の学生にはこの授業をやりたいと言う者がいた。
もし、その教師の卵が、生徒達が自ら意見を出し合い奮闘する姿をみてそれを思ったのならばその人間には死の制裁を与えるべきである。なぜなら、それはせざる得ない、命を教材として利用しているだけに過ぎないのだ。
アホは何をするかわからない典型的な例であり、教育には信念と確立された理念と目的、計画は最低限必要である。
また、このテレビや本を見た主張者は軽はずみな意見や、物事を理解し、自分の意見で説明をつける事の出来ない様な状態での発言には意味が無く馬鹿の手助けであす。
この様な理解と計画なき、低脳な意識なき極悪殺人犯である。
この出来事には致命的な問題点がある。
1命の大切さを教えると言っているが、教える側がその事を理解しているならば、結果を予測する事は簡単な事である。
2一度は殺す事が出来ないと、命の重みを優先した結果になったが、生徒の保護者が言った言葉によって、命の大切さVS筋を通す事という構図に変化してくる。
3助かる状態があり、またその状態を作り出す事をせずに、殺す側に投票した生徒達は奇麗事や理由を付け、殺す選択している。命の大切さを超えるモノを優先した形になっている。
4殺害に向けて出発する日、殺害する選択をした黒田と生徒は、涙を流しながらもその命を奪っている。筋を通す事を優先した、または命よりも大切なモノがあったという証である。
5筋を通す様な振る舞いをしたにも関わらず、殺す側に投票した人間はその肉を食べていない。自らの手で殺していない。その二つを自ら実行する事こそが、大切なモノの命の重みであり、殺すという事である。他人任せの殺害ほど馬鹿げた事はない。
6筋を通す、言った事を守るというのは、判断の出来ない人間を縛り付ける鎖であり、本来は儀や道徳によって守るものであり、縛られるものではない。その事が理解できぬ馬鹿が中途半端な人任せの殺害を選んでいる。
7小学生の年頃の10歳前後という時期は、人生の中でも記憶力が高い時期であり、その行為を実行しなければ理解できないのであれば、それは重度の知的障害かあほでしかない。
8学校の教師となる者には、それ以上に教えるべき事が数多くある。人間が肯定的に事実を捉えるために必要な自尊心の確立こそが、悲しみ、思いやり、優しさ、いじめ問題肯定的な結果に結びつく事すら頭に無い。心理学すらまともに理解できていない低脳な行為である。
9やった事が良かったのか悪かったのか解らないと言うあまりに低脳な馬鹿としか言いようの無い発言をしている。
10当時の日本の環境では病気などで命を落とす子供が多く、そこで命の大切さを学んだというが、それは事故である。このクラスでは彼らが自ら殺すという選択をしている。
11泣きながらも大切なモノを殺害する選択は、非常に恐ろしく残虐である。オウム真理教の地下鉄サリン事件の実行犯のメンバーには泣きながらその残虐な犯罪行為を行っていた。
道徳心は自尊心が健康な状態の人の素直な感情である。しかし、その素直な感情に甘えや都合ができる事で形を変えてしまう事がある。それを防ぐ為に、決まりや規則、筋を通すと言う事を教育している、しかし、この規則に縛られる事で本来の道徳心自体に悪影響を与えてしまう事もあり、それが今回の結果の現れである。
また問題なのは、この授業の講義を教師の卵の集まる大学の現場で行い、その中の学生にはこの授業をやりたいと言う者がいた。
もし、その教師の卵が、生徒達が自ら意見を出し合い奮闘する姿をみてそれを思ったのならばその人間には死の制裁を与えるべきである。なぜなら、それはせざる得ない、命を教材として利用しているだけに過ぎないのだ。
アホは何をするかわからない典型的な例であり、教育には信念と確立された理念と目的、計画は最低限必要である。
また、このテレビや本を見た主張者は軽はずみな意見や、物事を理解し、自分の意見で説明をつける事の出来ない様な状態での発言には意味が無く馬鹿の手助けであす。
この様な理解と計画なき、低脳な意識なき極悪殺人犯である。










この黒田Tから数学の授業について学んでいます
公開記念イベントとして、試写会があったので観にいきました
僕はこんな先生から授業を学んでいるのかと
落胆しました。
生徒は皆
Pちゃんが好きです
殺すのが筋だと考えている生徒も
Pちゃんを1日でも長く生かしてあげたいと考えています
しかし先生は
結局
生徒の気持ちを汲み取るコトなく
Pちゃんを食肉センターに送るコトを決断します。
何を先生が教えたかったのか
全くわかりません…………………。
ブタやお肉を食べれなくなった生徒もいると同回生から聞きました、
そしてそれを本にしたり
映画にしたり
怒りがフツフツとわいてきます。
公開記念イベントの後
代表して学生が3人と
先生で
命について討論してました。
映画上映の後から
始まる前に
先生や学生はなぜか
笑ってました
会場は
泣いてました
この方々はどうなっているんだと思いました
僕は怒りで
会場を後にしました
ドキュメンタリーをテレビで見しました。
Pちゃんをまるでペットのように飼っておきながら
最後に食肉センターに送ったのは
Pちゃんにとっては
とても残酷だったのではないでしょうか。
子供たちにとっても家畜以上の感情を持って可愛がった後に
葛藤や悲しい別れを経験するのは
本当に必要だったのでしょうか?
畜産業や食肉加工を見学することでも
命の尊さや感謝の心は芽生えたはずです。
食肉センターに送るだけで肝心の屠殺現場を
見なかったのはなぜでしょうか。
http://jp.youtube.com/watch?v=h7LyL5b6R1Q
ペットを保健所に放棄しておきながら泣いている
この子供と同じ経験をしただけのような気がします。
この先生は今は准教授に出世されていますね。
1匹の豚が先生の出世に利用されただけのような
気がしてなりません。
昨日たまたま見ていたワイドショーでこの映画の宣伝をしていました。人としての正義感を逆撫でされるおもいでした。黒田のやったことはほとんど犯罪です。ペットの虐殺です。豚も生徒も被害者です。
こんな犯罪を「命の授業」などと美化して垂れ流す世の中はかなり病んでいるのではないでしょうか。もともとテレビなどには何も期待すべくもありませんが・・・
あげくこの犯罪者が次世代の教育者を育成する場に今現在携っているとは、怒りを通り越し恐ろしさすら感じます。
このような人間は特に教育の場からは一刻も早く排除されるべきと考えます。
大事なのは、答えを出すことではなく、みんなで答えを探し求めていくことなのではないでしょうか。
ぼくは黒田先生の肩を持つつもりなんて露ほどもないですが、彼を犯罪者といって話を終わりにしたところでなにが生まれるというのでしょうか。
批評はなんに対しても必要だと思いますが、「ここ」に書いてあることはすべて中傷、もしくはそれに近いレベルで、まってくもって不毛。非生産的。
こんなに便利ではなかった昔、
世界中のどこでも
ごく当たり前だったと思います。
ただ、
そこに感情移入があったのか?
というと分かりません。
始めから食べるつもりなら、
さすがに名前は付けませんし・・・
黒田先生がご自身で良かったか悪かったか
分からないとおっしゃるのは、
この件について長く考えた結果、
本当にその通りだからでしょう。
最後に、、、
黒田先生は笑ってはいけないのでしょうか?
犯罪者でしょうか?
Pちゃんは被害者でしょうか?
食べられた動物は被害者でしょうか?
どう回答するかは自由でしょうが、
ご自身の感情論ですから、
いくらでも変えられます。
もっと時間を有効に使った方がいいかと。
それから、人に何かを伝えようと思うなら、万人がわかるようにしないと。
小難しく書いて自分に満足しているのが目に浮かびますね。
本当に素晴らしい文章というのは、判決文のように、明瞭で簡潔なんですけどね。「ここ」で書かれているのは中学生程度のあがきにしか見えませんね。
頑張ってくださいね〜。
恐怖 P11
若いうちに恐怖のない環境に生きることは、本当にとても重要でしょう。私たちのほとんどは、年をとるなかで怯えてゆきます。生きることを恐れ、失業を恐れ、伝統を恐れ、隣の人や妻や夫が何と言うかと恐れ、死を恐れます。私たちのほとんどは何らかの形の恐怖を抱えています。そして、恐怖のあるところに智慧はありません。それで、私たちみんなが若いうちに、恐怖がなく、むしろ自由の雰囲気のある環境にいることはできないのでしょうか。それは、ただ好きなことをするだけではなく、生きることの過程全体を理解するための自由です。本当は生はとても美しく、私たちがこのようにしてしまった醜いものではないのです。そして、その豊かさ、深さ、とてつもない美しさは、あらゆるものに対してー組織的な宗教、伝統、今の腐った社会に対して反逆し、人間として何が真実なのかを自分で見出すときにだけ、堪能できるでしょう。模倣するのではなく、発見する。それが教育でしょう。社会や親や先生の言うことに順応するのはとても簡単です。安全で楽な存在方法です。しかし、それでは生きていることにはなりません。なぜなら、そこには恐怖や腐敗や死があるからです。生きるとは、何が真実なのかを自分で見出すことなのです。そして、これは自由があるときに、内的に、君自身の中に絶えまない革命があるときにだけできるでしょう。
J・クリシュナムルティ「子供たちとの対話」より引用
管理者様、貴公は正しい。
こういう授業をした先生がいたとは驚きです。生徒の中には、大人になって自分の意見をきちんと言えるようになってから、「あれはひどかった」と憤慨して発言する人もいるはずです。実話だということが不愉快。こういう経験をさせられた生徒の皆さん、大人になったら、もう一度意見をしてください。社会のために。
期日:2009年11月27日〜11月30日
JAPANESE FILM FESTIVAL
シドニー:2009年11月24日〜12月1日
メルボルン:2009年12月3日〜12月7日
生き物を殺して生きているのを自覚することは良いとも言わないですけど悪くもないんじゃないですか?
生きていたものを食べているってことを学べて決して悪いとは思いませんよ
そして道徳の一貫でありながら当初の目的は鳥山敏子の教育を目標とした食育です。
最後に、殺人ではなくと殺です。
それから、問題解決学習や教え込みの問題をきちんと命の教育と結びつけて考えられていないあたり、批判するだけの研究をしているのでしょうか?
結果だけを見て批判するのではなくて、過程を考察していかないと。
また、きちんと本を読んでから批判しないと、恥ですよ。
やがて世間にも波紋をよんで、今、自分もこうして命について考えさせてくれたのは事実。
生きて行くって事は、食っていくって事だ。
ブタの命も、人間の命も大事。
解ってる事は、食べないといずれ死ぬのだ。
草だけ食べて生き延びるのは辛い。
自分は可愛そうでも食べます。
動物を食べたあと、感謝の気持ちが皆の心に生れれば
先生の授業は成功だ。
ベジタリアンにこの話しを聞かしたら失笑するかもしれませんね
肉食わずに生きてる人も少なくないのに…
家畜とペットを混同してるし
実際この授業を受けた人達が可哀相です
皆で殺さないと結論を出したにもかかわらず保護者の都合でペットを殺したんですからPTSDになってもおかしくない
殺したくないと決めた命を世話もしていない大人の事情で殺すなんて狂気すら感じます
食育としてなら畜産農家や食肉センターに連れていけばいい
この過程で結局殺処分というのはあまりにお粗末です
すべては人間のエゴです。
伊達靖宗公氏の話の切り出しによって、この議論も極端な内容で議論をしようとする暗黙の共通意識や読者も期待を感じます。
体験した豊能町立東能勢小学校の生徒は6年生として「ペットとしてのPチャン」として「食べることを拒否」するのは標準、適正な考えである。生徒は黒田恭史から「食べる為に飼おうと思う」と聞いたことは事実だが、成長発達する児童の判断が変化することも当然であり
(即時)了承したと判断する読者は少ない。
黒田恭史は伊達靖宗公氏の論ずるように「教える側がその事を理解や結果を予測」しているとは感じられない。
混乱を「考えること」「議論」などと誤解して論じている方も見られ、まさにこの混乱自体を誘導した伊達靖宗公氏の狙いかどうかはこのコメントでは不問にしたい。
黒田恭史が「あと7日だぞ、どうするんだ」と児童に結論を委ねる発言が、もし実際であるなら黒田恭史は生徒任せの無責任な授業論者と言える。
一番真剣に全力で思考した児童の結論が正解で「食べるべき」との立場で反論した児童は、不十分な情報や謝った技術を持った黒田恭史の思考誘導の被害者と言える。
命の尊さを考える、などという言葉でごまかしてはいけません。
この教師が生徒に教えたことは、
「先生や大人の意見は優先される」という事のみです。
ご本人は分かってないんでしょうね。
小学校教師を辞めているようなので、それだけが救いです。
しかし皆がそれと同じ事を出来る訳ではありませんし、皆がそうする必要もありません。
「○○ちゃんを殺さないで」と哀願する子供を無視して大人が鶏を食肉にしてしまい、それがトラウマになってしまう子供もいます。
ちょっと状況は違いますが、私もその一人です。
食べる為に生物を殺すのは仕方のない現実だと思いますが、それで深く心を傷付けられる人間がいるのもまた事実なのです。
鶏にしてもずっと可愛がってくれていた人間にいきなり殺されるのですからどれ程か悲しい事でしょう。
仕方がない事とはいえ、文明人なのですからそのやり方位は考えるべきだと思います。
で、「命の授業」ですか。
映画でも大層な前置きがありましたが、結局事実はPTAの意見に押されてPちゃんを殺したんですね。
子供達の感情を散々弄んだ末に。
当時の黒田氏は学校側やPTAに逆らえる立場にはなかったでしょうから、もしかしたら泣く泣く結論を出したのかも知れません。
しかし今はご自分の自由な意見が言える立場に立たれたのですから、きちんと当時の生徒やPちゃんへ謝罪の意を表すべきです。
仮にPTAや学校側からの強制があったのだとしたらそれも公にすべきでしょう。
もしも全く悪いことをしたという自覚が無いのでしたらあなたに教育者としての資格、いえ人間として生きる価値すらもありません。
子供達に家族を与えた上で、死という最も残酷な別れを強制したに過ぎません。
議論の末などと言っていますが、子供に決定権がある訳もなくこれは大人による半強制です。
命の尊さを教えるのが目的であるならば、最初の議論で「Pちゃんは家族だから食べられない、生きていてほしい」と生徒達が結論づけた時点でもう十分な筈です。
その後食卓に上がる豚肉を見るたび彼らは「この豚もPちゃんと同じく生きていたんだ…」と考える事が出来るでしょう。
それも十分残酷な事実ですが、避けようのない生命活動と命の尊さをしっかり理解しながら大人になってゆく事でしょう。
素晴らしい命の授業です。
しかし、生き続ける道があった家族同然のPちゃんをあえて殺したのは全く余計な事でした。
子供達の心には大きなトラウマが残り、無理やり家族から引き離され屠殺場に連れて行かれたPちゃんは訳も分からぬまま寂しさのうちに死んで行った事でしょう。
家畜は食べられるのにペットは可哀想で食べられない、それを命の差別だ矛盾だと批判する人がいます。
しかし、人間は機械では無く感情を持った生き物です。
長い間一緒に暮らした家族と赤の他人とでは、その主観的な命の重みが違ってくるのは自然な反応なのです。
これは自分の家族が殺される事を想像すれば誰にでも理解出来る筈です。
Pちゃんだけを憐れみの対象にすると「では他の豚は殺していいのか」という不毛な議論になりますが、そこに子供達の感情が関わっていた事を忘れてはなりません。
Pちゃんを家族だと想っている子供達が「殺さないで」と言っているのですから、これはもう殺してはいけないんです。
身内を殺されて平気な人がいますか?
それとも子供達に「身内を殺されても平気な大人になれ」と教育しますか?
教育という高邁なフィルターが分かりづらくしていますが、心を基準に考えれば簡単な話です。
そこに議論の余地などありません。
それにしても世の中には情が深い人と浅い人とが確実に存在していますね。
福島原発事故の退避区域では多くの家畜やペット達が餓死させられました。
それを災害時なのだから動物が死ぬのは仕方ないという人もいれば、何故政府や東電がいち早く助けに行かなかったのかと深い憤りを覚える人もいます。
命の尊さを説きながらも「人間様」優先の考え方しか出来ない人が多く存在しているのはとても残念です。
余談ですが、文明の発達した先進国になればなるほど動物への愛情が深くなるという傾向があります。
日本のように薄っぺらい動物愛護法ではなく、さらに踏み込んだ法制度を作っている国が多いのです。
生活が豊かになる事で、人間以外の命をも尊ぶ余裕が出来たという事でしょうか。
日本もいずれはそうなると思います。
また、多くの凶悪殺人者を調べると過去に動物を虐待・殺害していた確率が高い事が分かっています。
動物の命に情を感じられない人は、人間に対しても本当には情を持っていないのです。
この「命の授業」はともすれば人間優先思考を助長してしまう可能性すらあります。
人間はあまりに大きな悲しみに襲われると、自らの心を守るため無理やり現実を正当化しようとします。
例えばこのケースで言うと「豚に心は無い、だから可哀想じゃない」「豚は食料なのだから命に価値は無い」「本当はPちゃんの事なんて好きじゃなかったのかも…」などのようにです。
それは残酷であると同時にとても危険な兆候だと言わざるを得ません。
試写会に招かれた当時の生徒達は号泣していたらしいですから、その点は大丈夫だったのだと思います。
しかし、号泣したという事は確実に過去の悲劇がトラウマとなり深層心理に刻み込まれているのでしょう。
家族を失う悲しみまで与えて何が命の授業ですか?
一体誰の為の授業なんですか?
確かに命の尊さを社会的に論議するきっかけにはなりましたが、犠牲となったものがあまりに残酷で大き過ぎます。
黒田氏含め当時の関係者はぜひ猛省して下さい。
そして、二度と同じ事が繰り返されないようきちんと公式に謝罪すべきです。
いただきますが言えないから
感謝していない??
何を言っているのですか?
僕がPちゃんなら たとえ感謝してもらって
いただきますと言ってもらっても
殺されたくはない。
子供達に優しくされて 人間に心をひらいて
いたかもしれない動物を 意味も無く
殺してしまったのですよ。
命の教育とは 命とはかけがえのないものだと
感じることでしょう。
人間は残酷なんです。感謝してれば
許される問題ではなく
矛盾して生きているということを
知るべきです。
その矛盾が考えることにつながるのでは
ないでしょうか?
安易に人間中心で答えをだしてはいけないと
思います。
もし生徒みんなが 食肉センターに送ることに
賛成したとしても PTAがそう言ったにしても 先生が自分で飼う気持ちがないのなら
ただ 命をもて遊んだだけです。
家畜からペットに変わったのか、それとも家畜のままなのかやってみりゃいいだろ
口先だけの正義感なんて悪意の塊だ