音の向こうの景色

つらつらと思い出話をしながら、おすすめの名曲をご紹介

モーツァルト 「皇帝ティートの慈悲」より 「参ります! 待って! セストが!」

2013-09-27 22:19:33 | オペラ・声楽
 人生には「あちゃー、やっちまった」という瞬間がある。「考える前に行動」派の私は、人と比べたら、この「あちゃー」がかなり多いほうだと思う。何かまずいことが起こると、一瞬、頭が真っ白になるが、すぐに善後策か言い訳を編み出すために、頭がフル回転し始める。そんなときは、なるべく自分を冷静に保つため、深呼吸をする。以前はよく「どうしよう、どうしよう」と百万回繰り返して、周りの人間に煩がられていたが、これは自分自身をも焦らせて良くないと気付いた。最近はなるべく、ふーっと息を吐くようにしている。
 失敗したことは、私は大概とっとと忘れてしまうのだが、他人がよく覚えていることもある。特に小さい頃の失敗談は、なんだかんだと繰り返し語られる。私が幼稚園のときに白金の八芳園の池に落ちた事件は、友人たちが事あるごとに引っぱり出してきて笑うので、今では友人の子供達にまで「まきなって、八芳園で池に落ちたんでしょ」と言われる。私としては、そのとき一緒にいたふーちゃんのパパが、大人の胸までの深さの池に、頭から飛び込んで助けてくれたという「いい話」のほうを残してほしいのだが。
 大人になってからは、どうも「格好をつけている」ときに、失敗が起こりやすい気がする。新しいパンツ・スーツに身を固め、髪を結い上げ、ばっちりお化粧をして、「私、今日はカッコイイかも」と思って浮かれている日に限って、間違えて男子トイレに入ってしまう。さらにはそこで仕事先の人と鉢合わせしたりする。「今日は男装ですか?」と訊かれたときには、穴があったら入りたかった。
 おニューの洋服に、おニューのかばん、おニューのピアスを揺らして、「ちょっと、私、お洒落じゃない?」などと勘違いして、頭を上げて足早に歩けば、前方不注意。一度、大井町駅校内で、鉄杭に激突した。ちょうど股の高さだった。一応こちらは「格好をつけている」ので、痛かった素振りも見せずに、電車に乗り込む。心の中で「恥骨骨折だ…」と思って脂汗をかいた。「気取っているから、こんなことになるんだ…。」ただの打撲だけで済んだのだが。
 友人宅で、気がきくふりをして窓を開けようとしてすっ転び、カーテンにしがみいてカーテンレールを引き剥がしたこともあった。天井から落ちてきたカーテンレールの下敷きになって、マンガのようにぱったりと倒れながら、恥ずかしさのあまり動けなくなった。「生まれて初めて、人の家を壊した…」パラパラと降ってくる漆喰が背中に積もる。「だから、カッコつけちゃだめなんだってば…」打開策は何一つ思い浮かばなかった。
 そういえば、オペラの中にも、「あちゃー」のシーンがいくつもある。私が真っ先に思い浮かぶのは「皇帝ティートの慈悲」の三重唱。先帝の娘ヴィッテリアは、皇帝ティートと結婚したいが、皇帝は別の娘に気が行っている。嫉妬したヴィッテリアは自分に思いを寄せるセストという青年を唆し、皇帝を殺害するように命じる。セストが決死の覚悟で部屋を出たところに、「皇帝がヴィッテリアを妃に選んだ」という知らせが舞い込む。喜んだヴィッテリアは早速にも出かけようとするが、はっとして、自分がセストに皇帝殺害命令を出したことを思い出す。♪…待って! セストが! ああ(Ahimè!)
 この「Ahimè!」は、「ああ」とか「おお」とか言う感嘆詞だが、「なんてこった」とか「やばい」と訳してもよいだろう。私だったら、まさに「あちゃー」である。ヴィッテリアの切羽詰まった独白に、知らせを持ってきた2人が事情を知らずに「おめでたいねえ」と歌い加わり、三重唱になる。歌にも伴奏にも非常に緊迫感があり、聞き甲斐のある曲だ。ヴィッテリアのパートもちょっとヒステリックで、華やかだ。こういう場面を描くモーツァルトはすごい。
 とにかく人生には「あちゃー」がつきものなので、何か手を打つまで時間の猶予がある場合には、とにかく冷静でいようと心がけている。できたら、歌でも口ずさんでみる。これが心を落ち着けるにはちょうどよい。今度はヴィッテリアの旋律でも歌おう。いや、むしろその前に「あちゃー」が起こらないように慎重に行動するべきか。

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