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"Life is either a daring adventure or nothing at all"

母校リニューアル後探検

2007年01月31日 20時52分18秒 | 二分脊椎
は公立小学校から、カトリック系の女子校に中学と高校に通った。
二分脊椎による「じょくそう」で中二と中三に入院し、そのときはまだ義務教育だったしそのまま高校受験がなく進学できたので、温室のような環境で、のんびり三年間を過ごした。

思えば小4くらいから受験は考えていたけれど、体力がない上にほとんど不登校で勉強どころではないイジメなどもあり、分数の通分で算数は引っかかり(よく考えたら、不登校で授業行かなかったら通分なんかわからないなぁ)出席日数と算数では絶望的な状況。
某「公●式」に行って算数をやり直し、参考書と問題集を一年生用から買い(はずかし・・・)某「公●式」のレベルが自分の学年と同じになったのが、6年生。
いろいろお稽古はしたけれど、5年生から二年間通った英会話学校にそのカトリックの学院の小学生が数人いて、楽しそうだからと希望校に決めた。(普通は3年生くらいから中学入試は準備するのかな。はそういう意味でも絶望的

塾に行くにもこれだけ勉強が出来なければ、入塾テストにも合格できない。考えて、夏期講習に通えばそのまま入塾テスト免除で通えることがわかり、6年の夏から受験クラスではなく普通クラスに通った。
算数は一番下のレベル。国語はまあまあ。苦手なものに合わせないと大変なので、一番下のクラスへ。
体力がないので、小学校6年まで寝るのは8時
受験勉強をする時間がなく、また妹は7歳下のまだ幼稚園児。子どもの出入りも激しかったので、朝4時半に起きる毎日だった。

両親は「当然公立中学にいくものだ」と思っていたので、「9月の入試説明会に行って」と頼んだときは、寝耳に水

中学までは男女共学で、と母。父は反対もせず(でも合格しても受け入れてもらえないだろうから不合格になるだろうと思っていたらしい)。小学校担任は大反対。「願書や内申書は書きません
…でも希望校は内申書不要という調査済み、願書も自分で(親が)書くものだったので、毎日放課後に残されて反対されてもは受験した。卒業式の朝も説得され、断固公立拒否、もう制服やいろいろ購入済み。要するには頑固、どうしてもどうしてもこの学校に行きたかったし、絶対に公立に行きたくなくて…

思えば18年前。記憶はあやふやだけど確か2月に出願、3月1日に受験、3日合格発表。

よく短期間に入学許可を出してくださったなぁなりにがんばった、苦労した甲斐があった

受験に行ったとき壁をつたって階段を上がり下りし、は別にそれで困らなかったのでこちらからは特に何もお願いしなかった。入学説明会に行ったときに、中学と高校の校舎(同じ校舎)のすべての階段とすべての洋式トイレに手すりがついていた・・・

中高はじめ小学校にも障害を持つ私が入学することを事前に保護者も含めてお話くださっていたようそして出身小学校にも連絡してくださったようでもあれだけ反対されたので、何も学院にはの小学校のことはわからず、それでも工夫してくださった

入学式の後、両親と校長室によばれた。その校長先生は12月3日のの洗礼式に来てくださったシスター。校長室に入ったとき、両手を広げて「さん、おめでとう!良かったね」と包み込んでくださった。も母もそれが忘れられない。そしては「この学校に来て良かった

体育の授業のために、当時私は歩いていたので車椅子をどこからか調達してきてくださり、校外学習や体育の授業に使わせていただいた。見学すると、中学も高校も報告書みたいなものを出せばいいシステムもあったけれど、車椅子でのテニス、バレーボール、バスケ、ダンスをほとんど一緒にやらせてもらった。
テニスはダブルス。私が打ち損ねた球をパートナーが、後ろで打つ。
バスケは定位置でパスなど、ダンスはグループでみんなが私を加えてする創作ダンスを考えてくれ、平均台はさすがに車椅子は無理なので、体育館のカラーテープのラインを平均台に見立ててやった。
レポートも出し、時には苦手な技術科目(不器用で音符も読めない)より成績が良いことも

行事ももちろん参加。

合唱コンクールはピアノにもたれて立ち、手すりを持って数段舞台に上がる。一番にあがってみんなを待つ。

体育系の行事は、全員参加は球技会は玉入れか、ハンデつきのドッジ。
競技会は応援合戦が全員参加。玉入れもあったかも(卒業して11年くらいたつと忘れて・・・
それ以外はどちらももオリンピック形式。競技会は運動場。でも球技会は体育館やテニスコートとばらばらで、応援もプログラムを見て生徒が行き来していたので、疎外感ゼロ。

こんないい学校に通えて幸せな10代を過ごし、留学も反対されず、卒業後もたびたび卒業生の多くは顔を出しに行く、素晴らしい学校

今回、リニューアルを聞いてみんなびっくり生徒数は少子化で減るし、学費も私たちの頃とたいして変わらないでも完成したので遊びにいらっしゃいと恩師に言っていただき、行くことにした。

母校は山に立っていて、通学路のひとつには急な坂がある。幼稚園の一段上に第一体育館とグランド、その一段上に聖堂と小学校、第二体育館に購買部、その数段上に中高とテニスコート、その上に旧短大。
なので私はいつも中高だけ動くつもりで車椅子は持っていかなかった。

それが今回、ほぼバリアフリーになったので、実際に車椅子で使えるか、生活できるかチェックして欲しいと。
探検も出来るし、ちょっとでもお助けできるなんて

タクシーで着いたとき、口があんぐり(これって私の母校?)というくらい素敵に変身

車椅子に乗り、「さあ下足室のドアが車椅子のまま開けられるかしら」…親切な守衛さんと、用事で外にいらした女性の職員さんがドアをご親切に開けてくださった(笑)
「ありがとうございます教員室はどこですか?」車椅子を押してくださいました(笑)
「こんにちは」とすれ違う在校生、優しく親切で次々ドアを開けて下さった(笑) 的には車椅子で開けたり出来るか調べに来たのでご親切は嬉しくありがたい、助かる、さすが我が母校
でもでも(調べなきゃ・・・)
そして恩師に出会ってそのことを話し、「リニューアルしてもいいところは残っていますね」と言いながら、先生はチェックリストをもって出発その開けていただいたドアも、押していただいた場所も、一人で巡回。
 
でもある意味、こんなに素敵に親切な方々や在校生がいるんだから、自力で何かが出来なくても、大丈夫という希望が見えた

すべてのドア(トイレ、教室、特別教室、体育館、とにかくすべて)がどれだけ車椅子で開けやすいか、開けにくいか、重いか、軽いか、軽すぎて勢いよくあけたら跳ね返るか。
ドアの取っ手やスイッチの高さ、持ちやすさ、ドアの下のちょっとした段差のチェック。

屋外のスロープ(屋上から講堂に出入りしたり、下足から聖堂や体育館や駐車場まで)の勾配、その手すりの位置(車椅子に座ったときの位置と、立ったときの位置の二本があった)、そのスロープの雨の日用のプラスチックの屋根。頭上にしかないので横からふきさらしになるかな、まで考えていらしてびっくりした。

トイレの位置。洋式トイレは一応各階にあるので、車椅子で入って、座ってみて、手を洗ってみる。私のように車椅子から立ち上がれて少し歩ける人は問題なし
車椅子トイレは一つしかないけれど、すぐにいける位置。は最近の導尿の件で「使えない車椅子トイレ」に何回もめぐり合ったので、どきどき
ドアも軽く、跳ね返りもなく、スイッチも低く、手洗い場には押すだけで水が一回分出るタイプ洗面台の両脇に手すりがあって車椅子で立ち上がることが出来るもちろん、手すりの間に余裕で車椅子は入り、座ったまま手は洗える

車椅子から降りて、便座にうつるときに車椅子を置いておけるスペースは広くて、便座は高すぎず低すぎず、大きさは一般的。座って右の手すりは取っ手を引くと直角に上にあがるようになっていて、不必要ならば邪魔にならないよう、あげられる便座の足元にセンサーがあり、立つと勝手に流れるし、手で流す場合も体をひねって流さなくても左腰のすぐ斜め後ろに流すボタン。

トイレットペーパーは二つ並んでいて、ふつうの覆いかぶさるようなふたの上に、小さなカウンター ここに導尿していたり、傷の手当がある生徒は、消毒液やコットン、カテーテルや薬を置けるは一番これに感動

物の多い図書室や、敷地がないため動きにくいところもあったけれど、本は必要だし、司書さんがいるし、で前もって検索すれば持ってきていただける。その図書館のPCはもちろん車椅子でOKで、受付が真横なので大丈夫でしょう

校内のドアが少し重かったり、校内のスロープの勾配が二階と三階で同じ位置なのに違ったり、在校中は歩いていたので気がつかなかったこともわかったし、新発見だった。移動教室は、障害がある子が来れば、自教室ですればいいし(展開授業とか言って、1クラスをいくつかに分けるらしい)、車椅子で着席するのに教室が狭ければ、廊下側の一番ドアにすればいいと 確かに。

もうすぐ高校受験
車椅子の受験生がいるみたい。そのためのリニューアルではなかったのだけど、偶然のみわざ?
去年も車椅子の希望者がいらしたのにお断りしなくてはいけなかったらしく、今回は学院も受け入れることが出来て、先生方も嬉しそうだった。

あとはその受験生が合格して、学院を気に入って、充実した高校生活を送ってくれたらいいなと祈るでした。
はこの学院のおかげで中卒にならなかったし、留学もできたし、英語も得た。たくさんの素晴らしい人々にめぐり合い、苦しくても耐えられたし、その土壌を持って留学し、年齢や人種や考え方やいろんな人に柔軟に出来たり、異文化に抵抗がなかったのも母校にいろいろな人がいたこと、それでもいいことを無意識に教わっていたからかもしれない。

の関係でレッスンでいい人にめぐり合い、子どもを適当に扱わないでおきたいと思うのは、きっと母校で先生方やシスター方にきちんと聴いていただいたから。カトリックに導かれたのはこの母校のおかげ。






矢車草さんのブログから

2007年01月30日 22時10分01秒 | カトリック
さもない日々の暮らしの中で・・・という、ブックマークに入れさせていただいている、矢車草さんのブログ。その2007年 01月 29日 のエントリーを読んで、矢車草さんに許可していただいたので、私も一部割愛してコピー&ペーストし、ご紹介します。

ミンダナオについて。
ミンダナオはフィリピンにあります。の学生時代、母校はフィリピンから来日されたシスターが、日本校を作られた縁があるためか、『フィリピン』はにとって一番身近だった国かもしれない。中学の『道徳』の授業、高校の『宗教』の授業、『CCWA』と呼ばれるフィリピンの子を学校に行かせよう!プログラムがあって、も関わったこともあり、保護者も何人かのボランティアでCCWAをして、定期的にフィリピンから成績表やカードが送られてきていた。

今回、が教会にもどり、ある日、<ahref="http://home.att.ne.jp/grape/MindanaoCL/">『ミンダナオ子ども図書館』の方がうちの教会に来られ、はお茶を飲みながらスライドなどをみて、私はパンフレットを持ち帰り、食卓に置いた。はスライドをみて、5歳児並の理解しかもちろんなかったのだけど、たくさんの質問がからでたので、世界地図のフィリピンを教えて『ここがミンダナオ』(ミンダナオそのものはの地図ではなく)そして、母(の祖母)もCCWAを思い出して『みんなでするのだし、たいしたお金ではないし、なによりに勉強になる』と、賛同させていただいた。

それがと、『ミンダナオ子ども図書館』の出会い。
そして、矢車草さんのブログに関連する記事で『集めています』とあり、読んでみたら簡単にできることだなと思って、ここでもコピーペーストさせていただくことにしました。

以下は矢車草さんのブログからの転送(コピー&ペーストです)で、『』でくくり、の想いは『』外に書きます
《ミンダナオ関係であつめているもの:街頭で配っているティッシュ》


《昨年の秋に、ミンダナオ子ども図書館の松居友さんとお話している時に、ティッシュペーパーが貴重。特にポケットティッシュ。スカラーたちが学校に持っていくのに重宝する。何人かの子供たちが宮津の暁星高校の招きで来日したことがあって、その折に街頭でティッシュを配っているのを見て「日本では無料でティッシュを配っている」とビックリしていたらしい。そんなことなら、衣料を送った時に一緒に入れておけば良かったと思い、次に衣料を送るときに入れようと思っていました。》

スカラーというのは、そのミンダナオの学生で、このプログラムで支援している学生さんのことです。(まちがってたらどうしよう・・・も少しだけ支援を去年から始めました。それが先ほどのいきさつ。はあまり年明けで教会には行っていないけれど、ミンダナオのスライドの子どもにこのお金が行って、ミンダナオの子が学校行けたりなにかいいことが(ご飯とか寝る場所とか)あるらしいと今は理解しているよう。

《もし、関心があって、ミンダナオに荷物を送りたいときは、Forexというフィリピン専門の業者があって、比較的安価で確実に荷物が届きます。夏物で、手洗いが出来る衣料、スニーカー、リュックサックが喜ばれます。》
ミンダナオ子ども図書館のサイトのなかに支援方法 が書いてあるのでクリックしてみてください。

そして、もうひとつ「さもない日々の暮らしの中で ・・・」にあった、大阪は西成の釜が崎。

ここもの母校では、冬に希望者が夜回りに行ったり、「おこめの一握り運動」と言って、チャリティセール(今は名前が変わったのかもしれないけれど、11月ころ、幼稚園から全学院と保護者や同窓生をあげて、バザーがある。)や行事ごとに釜が崎については耳慣れていて、また母校の母体の修道院は西成にも箕面にもあり(もちろんフィリピンや日本にあちこち、世界中にもあるのだけれど)先日のの洗礼式には、母校の元校長先生のシスターが、今は西成にいらしてわざわざ洗礼式に来てくださり、お祝いに、釜が崎にいらっしゃる神父様がお書きになった{/book/<ahref="http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4000224638/ref=s9_asin_image_1/249-1981434-7899515">釜ケ崎と福音―神は貧しく小さくされた者と共にという本を下さった。
そんなにとっても身近な釜が崎のことも「さもない日々の暮らしの中で ・・・」にあったので、これもコピーします。

《もう一つ、集めているものがあります。ホテルのアメニティグッズです。
高級ホテルのアメニティグッズのコレクションではありません。


大阪西成区の日雇い労働者の町、釜ヶ崎にある「ふるさとの家」というところで、フランシスコ会の本田哲郎神父さんが、週に1回オッチャンたちの散髪をしていらっしゃいます。
散髪が済んだら、「ひげは自分で剃りなさい」と言って、髭剃りを渡されます。
そのためのアメニティです。

ふるさとの家の支援物資は 
背広以外の男性衣料、下着(新品)インスタントコーヒー、お菓子、お茶など。

こちらへ 大阪市西成区萩之茶屋3ー1ー10 ふるさとの家』》


たぶん、いただいた本の中に神父様の散髪の話があったので、同じ本田哲郎神父さまの本だと思います。『少ない日雇い労働の中での給料では、弁当など食べ物とドヤとよばれる寝るところ、カロリーアップのためのお酒を買ったら、散髪するお金は出ない』しかも、仕事のないときなどは、冬でも食べ物ももちろんないし、ドヤ代も出ないから野宿、寒すぎてお酒飲んで、それも精一杯。そんないきさつで、確か労働者の散髪を始められた神父様がいらっしゃいます。

は中学生だったので、政治的な問題や、まわりの大人が労働者の方をよく言わなかったりすると、ただ怒るしかできず、かわいそうだからお米と献金とくらいだったのだけど、今は大人になり、本も読み、理解がすこ~し深まり、矢車草さやシスター、その他たくさんの人々見たいにはできないけれど

やさしさと善意と行動力に便乗させていただき、ここにエントリーしました。みなさまご協力お願いします

出生体重世界いろいろ

2007年01月30日 15時52分06秒 | こども
シドニーにワーホリで行くつもりだったとき、シドニーの友達が第三子の予定日が、1月5日で自宅出産だったから(三番目だし、最後の子供のつもりだから、家族全員の立会いのもと自宅で産みたいと言っていた)

ちょっと他人のは、感動より修羅場を遠慮させていただこうと、
『予定日が5日なら、いくらなんでも28日には生まれてるよね』と、
27日の土曜の夜に日本を発ち、翌28日につけば、そろそろ落ち着いて、日曜日だし、ダンナさんに空港まできてもらえるわ・・と、計画していた。

結局、私の健康の都合でワーホリは延期になり、行かなかったのだけど(たぶんもうワーホリは行かず、月に一回は通院しないといけないので、どんな形であれ、もう海外に一ヶ月以上住んだり、留学したり、就職するのはむりでしょうでも旅行で行くことになるでしょう

その友達から「第三子の次男が産まれた」とメールが今朝来ていた。

『Our third child, a little (really little) boy was born at 11.10 last night (29th Jan 07).He weighed a tiny tiny 3240g (that’s like 7lb
1oz!!!) and is absolutely beautiful.』(私たちの第三子、小さい、(ホントに小さい)男の子が昨夜2007年1月29日の11:10pmに生まれました。体重は3240g、(なんて言うか7パウンド1オンスくらい!!)とっても美しいです」

びっくり!
がもし行ってたら、日付をずらしたけれど、シドニー到着翌日のワーホリ第一日目に、夜中出産で、今頃くたくたの感動だったかもしれない。

家族全員の立会いだったらしい。
4歳の長男、2歳の長女。どういう反応だったんだろう
友達は『息子には赤ちゃんがどうできるか、どこから生まれるかは、長女の出産のときに教えた』らしいが、今回も長女は聞いたのだろうか・・・

うちのも妹が欲しくて、よく妊婦ごっこやら赤ちゃんになってみたり、猫になってみたりしているが
(年中の女の子は、どうも一人っ子だと、あかちゃんか、できれば妹、それが駄目なら猫がほしいらしい。猫VS妹・・・
立会いはトラウマにならないんだろうか・・・

の母(我が妹)はどうも娘に、彼女がどうやって生まれたか、どこから生まれたか話したらしく、私はぎょっとするけれど、実際みたらどうなんだろうか・・・とおもった。

しかし日本人感覚では、思うんだけど(は3102g)
白人ではtiny tinyな体重でlittle,very littleなの???

ちなみにの子持ち友達や、うちのチビの幼稚園のバス停のママに聞くと、
本人は2950、同世代のママは3200。
その子供たちの出生体重は、2828、2700、3190アメリカで生まれた日本人の子は平均内のベストと言われたらしい。(ママいわくアメリカ人は何でも褒めると・・・)あちらでは4500の外人の赤ちゃんもいたらしい
別の友達は、日本人がドイツで出産したら3000ちょっとだったため、『小さい、4000が普通』といわれたそう。

国が変わると基準も変わり、人種まで変わってくるといろいろあるんだなあと思った一日だった。




少し元気

2007年01月28日 22時29分41秒 | 二分脊椎
しばらくPCを開くのも億劫で、毎時間の導尿には、はと時計の音、家族がトイレの水を流す音、夕飯以降に家族が飲み物を飲むこと、音を聞けばいらいら、飲んでるのを見ると取り上げて捨てたくなる・・・

ストレス、限りなく。理性も何もなく、怒りの矛先はドクターに

毎日毎日病院のケースワーカーやカウンセラーに電話とメール。
セッションも再開。
眠れないし食べられないし、頭は正気じゃない。これをノイローゼというのか・・・(飲み食いしなければトイレに行かずに済むとおもった)、動くことがなければ腹筋を使わないので、トイレに行かずに済む。必要以外ベッドの日々教会と、さんちと、病院そして一人の友達の家だけに出かけられ、(車椅子トイレがある)、レッスンも停止
とうとうカウンセラーに精神科で投薬してもらうように指示された。

導尿の道具を見ると15階の家のベランダから投げ捨てたくなり、ひどいときには自分まで・・・ふらっと何回かまでなった。

さんがものすごく動いてくれて、病院に電話してくれ、無理にでも連れ出してくれ、で生存確認。
で日参してくれ、車内で押し問答。

ここまでストレスがたまり、正気を失うと、「健康がどうの、命を守るの、腎臓や膀胱がどうの、透析や手術のリスクがどうの、必要とされてるから死ぬな」だの、頭の中は、どうすればこのつらさがドクターに伝わるのか、この生活を前回の診察で一ヶ月がんばれと言われて、目処はでず、頭はひっちゃかめっちゃかなので
『なんでまたがんばらすの、めっちゃ大変なのに、死にたくなるくらいつらいのに、ノイローゼなりそうなのに、なんで手術してくれないのいつまでがんばったら手術してくれるの、いつになったらレッスンできるの、いつになったら夜眠れるの、いつ、外出できるの、いつ、好きなだけ前みたいに飲み食いできるの、なんで方法があるのにやってくれないの・・・

私もくたくた、ケースワーカーもどうしたらいいかわからないといわれ、カウンセラーには耐えなさいと言われ、さんは一緒にしんどくなってしまった

家族は心配で、どうしたらいいかわからず、ほっといいてくれた。

そしてそんな日々が約一ヶ月・・・限界になり、近所の修道院に一泊泊まりにいった。
携帯しか時計がなく、夕飯と朝食の時間しか決まりはなく、食事の時間も2時間くらい幅があって、お聖堂があり、私は早く寝て朝7時の祈りに出た。

コーヒーを入れてもらったり、ご飯をよそってもらったり、温めてもらったり、寝かせてくれたり、荷物持ってくれたり・・・とてもとても大切にされてるのを実感して、泣きそうなくらいうれしかった

そして翌日、帰宅前にいつものミサに出て、元気になった私の姿を見て、教会の方が喜んでくれ、さんは二日前の自殺安全確認電話をしてくれて、を知っているから、あきれるくらい元気になった私を見て、ともに喜び、ともに泣いた聖書の言葉は本当だった、始めに言葉があったのは本当だったと・・・そしてBig Hugで別れて、いつもの日々、いや、もっと幸せな日を昨日と今日と過ごした

昨日はあまり出かけられないけど、うちでの友達とその家族計4組で、ピザと、飲んではいけないをたくさん飲んでたくさん食べた。幸せおいしい生きててよかった

苦しかったけど、喜びは大きい。あきらめないでよかった。医学的にはベストでない。でも、私は幸せ


休憩・・・

2007年01月11日 23時35分00秒 | 二分脊椎
五日の膀胱造影と診察の結果、一時間半おきの導尿ではだめで、一時間おき、そして夜間は変わらず三時間おき、プラス夕飯以降に水分は取らない、服薬は倍に。服薬で口は渇くし、うちの夕飯は六時半、寝るのは深夜

夜は一回起きると一時間くらい寝付けず、三回目はくたくたで起き上がれない
昼間も疲れて眠くて、でも一時間おきのために時計が気になり、何も手につかない状態。
間隔をあけたくて、昼間も水分を控え、食事もほとんどの食べ物は水分で構成されているので控えたら
膀胱炎になって気分が落ちて追い詰められた。

病院に電話してもらって、抗生物質をもらって、さんに『二日間、何も考えずに休みなさい。導尿も、もともとの先生はシドニーから帰ってきてからでもいいっておっしゃってたくらいなんだから、二日間導尿もやめて、水分も好きなだけ飲んで、夜も眠りなさい

そして昨晩、夕食後お水を二杯のんで、服薬して、缶チューハイ一本飲んで、導尿して(結局やってる)二時に寝て八時まで爆睡

今朝、いい気分で目覚めて、久しぶりに一日が楽しみで導尿して(結局やってる)一時間とか時間を見ずに、前みたいに勘とタイミングでやって、思う存分飲み食いして

時間に縛られずに過ごした今日一日。
家からも怖くて決められた場所にしか出かけられず、ストレスだったので、自由で最高の気分

今日もさんが連れ出してくれて、ヨガの教室の間、体育館の一階で缶コーヒーと音楽と小説とともに、家とは違う場所で二時間近く過ごせた

病院のケースワーカーにも、カウンセラーにもほどほどに力を抜いて、とは言われていたけれど、どうほどほどに力を抜けばいいのかわからなくて、切羽詰ってしまった

今日は間隔はばらばらだったけど、結局のところ平均すればいい感じだったし、苦にならなかった。

ときどき休んで、ケースワーカーにも、人形やロボットじゃないから、体調や天候、状態で変わってもおかしくないと言われた。

二日目の明日、何をしようかな~

大丈夫かな・・・

2007年01月07日 21時34分48秒 | こども
ますます驀進

今日、ママの友達が来て『おなかの中を見せてもらう』
『どうやってみるの』
『おなかの、もあるやん、ママの黒いあかちゃん
『あー、超音波。おなかに赤ちゃんがいるんだね』
『あっはっはっはチョーおんパッ

うけすぎ

でも今日、は助手席で窓の外を見てたら『まえば歯科』という看板を見つけてツボに入り、思いだしては笑ってた
そして知り合いの家でPCで変換していたら『~に得たもの』が『煮えたもの』になり『あっはっは

『あなた幸せね~、お金かけて、手続きして旅行行かなくても、まえば歯科に煮えたものでこれだけ楽しめるんだから』
確かに旅行も好きだけど、些細なことで大笑いしてしまう

干支

2007年01月06日 13時48分11秒 | こども
と母はヘビ、はタツ、父はネズミ、妹は年女。

は今年、幼稚園児となってますます年賀状をいただいた。

『これもイノシシ』『またイノシシや』『~ちゃんも、~くんもイノシシ』

『今年はイノシシ年だから、み~んなイノシシなのよ』
もイノシシ?』
が生まれたのはタツ、が生まれたのはヘビだけど、今年はイノシシなの。年によってかわるのよ』
えー・・・、ヘビがいかったのに
『いくても、いくなくても、イノシシなんだよー・・・』
いやっ

・・・

チビの疑問

2007年01月03日 09時39分37秒 | こども
の最近の絵本『マーシャとくま』

『・・・ふと見ると』
『ふと
『ふと、って何かしてて別のところ見たり考えたりさ』(ほんまかいな
『ふと、ってどこにあるの』(と挿絵を探す)
『ふと、って言葉よ、どこにもないの』
『・・・

そして今朝。
が母(ネナ=Nana)のめがねケースが食卓にあったので、その中からめがねふきを取り出してふいていたら
『勝手に使ったらあかんし~
『ネナはそんな意地悪言いません~
『ネナに言いつけるし~』(なんてイケズ
『めがねふきくらいどっちゅうことないわ
『どっ
『どうってことない、たいしたことない』
『どーーーー(爆笑)』

・・・

寝正月

2007年01月02日 09時50分17秒 | Weblog
今年は文字通り寝正月

大晦日、11時ごろ寝てしまい、元旦ミサから帰って昼寝
昨日も夜中起きなきゃならないのに爆睡
にほんとに新生児がいたらえらいことだ

大晦日・元旦と教会に続けていったのでだいぶ慣れた

年末怖くて忘年会も友達の家も行けなくて断ったので、ひとつでも自信持って(まだ自信はないけど)いける場所ができたらOKとしよう。

今日はを変更するために最寄駅に行くつもり
一時間半以内に帰宅すれば車椅子トイレに行かなくて済むから、超特急で用事を済ますつもり

本当はシドニーに行く予定だったから、半分つぶれてる今の携帯でやっていくつもりだったけど、この調子じゃきっと手術になりそうだから、腰を落ち着けて『行かない』(行けないじゃなくて、Chosen Pathで)つもりで生活基盤を日本に置きなおそうと思って、携帯はその第一歩

日本にいるつもりなので、うるさいとしばらくおつきあいください

今年もよろしくおねがいします