は公立小学校から、カトリック系の女子校に中学と高校に通った。
二分脊椎による「じょくそう」で中二と中三に入院し、そのときはまだ義務教育だったしそのまま高校受験がなく進学できたので、温室のような環境で、のんびり三年間を過ごした。
思えば小4くらいから受験は考えていたけれど、体力がない上にほとんど不登校で勉強どころではないイジメなどもあり、分数の通分で算数は引っかかり(よく考えたら、不登校で授業行かなかったら通分なんかわからないなぁ)出席日数と算数では絶望的な状況。
某「公●式」に行って算数をやり直し、参考書と問題集を一年生用から買い(はずかし・・・)某「公●式」のレベルが自分の学年と同じになったのが、6年生。
いろいろお稽古はしたけれど、5年生から二年間通った英会話学校にそのカトリックの学院の小学生が数人いて、楽しそうだからと希望校に決めた。(普通は3年生くらいから中学入試は準備するのかな。はそういう意味でも絶望的)
塾に行くにもこれだけ勉強が出来なければ、入塾テストにも合格できない。考えて、夏期講習に通えばそのまま入塾テスト免除で通えることがわかり、6年の夏から受験クラスではなく普通クラスに通った。
算数は一番下のレベル。国語はまあまあ。苦手なものに合わせないと大変なので、一番下のクラスへ。
体力がないので、小学校6年まで寝るのは8時。
受験勉強をする時間がなく、また妹は7歳下のまだ幼稚園児。子どもの出入りも激しかったので、朝4時半に起きる毎日だった。
両親は「当然公立中学にいくものだ」と思っていたので、「9月の入試説明会に行って」と頼んだときは、寝耳に水
中学までは男女共学で、と母。父は反対もせず(でも合格しても受け入れてもらえないだろうから不合格になるだろうと思っていたらしい)。小学校担任は大反対。「願書や内申書は書きません」
…でも希望校は内申書不要という調査済み、願書も自分で(親が)書くものだったので、毎日放課後に残されて反対されてもは受験した。卒業式の朝も説得され、断固公立拒否、もう制服やいろいろ購入済み。要するには頑固、どうしてもどうしてもこの学校に行きたかったし、絶対に公立に行きたくなくて…
思えば18年前。記憶はあやふやだけど確か2月に出願、3月1日に受験、3日合格発表。
よく短期間に入学許可を出してくださったなぁなりにがんばった、苦労した甲斐があった
受験に行ったとき壁をつたって階段を上がり下りし、は別にそれで困らなかったのでこちらからは特に何もお願いしなかった。入学説明会に行ったときに、中学と高校の校舎(同じ校舎)のすべての階段とすべての洋式トイレに手すりがついていた・・・
中高はじめ小学校にも障害を持つ私が入学することを事前に保護者も含めてお話くださっていたようそして出身小学校にも連絡してくださったようでもあれだけ反対されたので、何も学院にはの小学校のことはわからず、それでも工夫してくださった
入学式の後、両親と校長室によばれた。その校長先生は12月3日のの洗礼式に来てくださったシスター。校長室に入ったとき、両手を広げて「さん、おめでとう!良かったね」と包み込んでくださった。も母もそれが忘れられない。そしては「この学校に来て良かった」
体育の授業のために、当時私は歩いていたので車椅子をどこからか調達してきてくださり、校外学習や体育の授業に使わせていただいた。見学すると、中学も高校も報告書みたいなものを出せばいいシステムもあったけれど、車椅子でのテニス、バレーボール、バスケ、ダンスをほとんど一緒にやらせてもらった。
テニスはダブルス。私が打ち損ねた球をパートナーが、後ろで打つ。
バスケは定位置でパスなど、ダンスはグループでみんなが私を加えてする創作ダンスを考えてくれ、平均台はさすがに車椅子は無理なので、体育館のカラーテープのラインを平均台に見立ててやった。
レポートも出し、時には苦手な技術科目(不器用で音符も読めない)より成績が良いことも
行事ももちろん参加。
合唱コンクールはピアノにもたれて立ち、手すりを持って数段舞台に上がる。一番にあがってみんなを待つ。
体育系の行事は、全員参加は球技会は玉入れか、ハンデつきのドッジ。
競技会は応援合戦が全員参加。玉入れもあったかも(卒業して11年くらいたつと忘れて・・・)
それ以外はどちらももオリンピック形式。競技会は運動場。でも球技会は体育館やテニスコートとばらばらで、応援もプログラムを見て生徒が行き来していたので、疎外感ゼロ。
こんないい学校に通えて幸せな10代を過ごし、留学も反対されず、卒業後もたびたび卒業生の多くは顔を出しに行く、素晴らしい学校
今回、リニューアルを聞いてみんなびっくり生徒数は少子化で減るし、学費も私たちの頃とたいして変わらないでも完成したので遊びにいらっしゃいと恩師に言っていただき、行くことにした。
母校は山に立っていて、通学路のひとつには急な坂がある。幼稚園の一段上に第一体育館とグランド、その一段上に聖堂と小学校、第二体育館に購買部、その数段上に中高とテニスコート、その上に旧短大。
なので私はいつも中高だけ動くつもりで車椅子は持っていかなかった。
それが今回、ほぼバリアフリーになったので、実際に車椅子で使えるか、生活できるかチェックして欲しいと。
探検も出来るし、ちょっとでもお助けできるなんて
タクシーで着いたとき、口があんぐり(これって私の母校?)というくらい素敵に変身
車椅子に乗り、「さあ下足室のドアが車椅子のまま開けられるかしら」…親切な守衛さんと、用事で外にいらした女性の職員さんがドアをご親切に開けてくださった(笑)
…「ありがとうございます教員室はどこですか?」車椅子を押してくださいました(笑)
「こんにちは」とすれ違う在校生、優しく親切で次々ドアを開けて下さった(笑) 的には車椅子で開けたり出来るか調べに来たのでご親切は嬉しくありがたい、助かる、さすが我が母校
でもでも(調べなきゃ・・・)
そして恩師に出会ってそのことを話し、「リニューアルしてもいいところは残っていますね」と言いながら、先生はチェックリストをもって出発その開けていただいたドアも、押していただいた場所も、一人で巡回。
でもある意味、こんなに素敵に親切な方々や在校生がいるんだから、自力で何かが出来なくても、大丈夫という希望が見えた
すべてのドア(トイレ、教室、特別教室、体育館、とにかくすべて)がどれだけ車椅子で開けやすいか、開けにくいか、重いか、軽いか、軽すぎて勢いよくあけたら跳ね返るか。
ドアの取っ手やスイッチの高さ、持ちやすさ、ドアの下のちょっとした段差のチェック。
屋外のスロープ(屋上から講堂に出入りしたり、下足から聖堂や体育館や駐車場まで)の勾配、その手すりの位置(車椅子に座ったときの位置と、立ったときの位置の二本があった)、そのスロープの雨の日用のプラスチックの屋根。頭上にしかないので横からふきさらしになるかな、まで考えていらしてびっくりした。
トイレの位置。洋式トイレは一応各階にあるので、車椅子で入って、座ってみて、手を洗ってみる。私のように車椅子から立ち上がれて少し歩ける人は問題なし
車椅子トイレは一つしかないけれど、すぐにいける位置。は最近の導尿の件で「使えない車椅子トイレ」に何回もめぐり合ったので、どきどき
ドアも軽く、跳ね返りもなく、スイッチも低く、手洗い場には押すだけで水が一回分出るタイプ洗面台の両脇に手すりがあって車椅子で立ち上がることが出来るもちろん、手すりの間に余裕で車椅子は入り、座ったまま手は洗える
車椅子から降りて、便座にうつるときに車椅子を置いておけるスペースは広くて、便座は高すぎず低すぎず、大きさは一般的。座って右の手すりは取っ手を引くと直角に上にあがるようになっていて、不必要ならば邪魔にならないよう、あげられる便座の足元にセンサーがあり、立つと勝手に流れるし、手で流す場合も体をひねって流さなくても左腰のすぐ斜め後ろに流すボタン。
トイレットペーパーは二つ並んでいて、ふつうの覆いかぶさるようなふたの上に、小さなカウンター ここに導尿していたり、傷の手当がある生徒は、消毒液やコットン、カテーテルや薬を置けるは一番これに感動
物の多い図書室や、敷地がないため動きにくいところもあったけれど、本は必要だし、司書さんがいるし、で前もって検索すれば持ってきていただける。その図書館のPCはもちろん車椅子でOKで、受付が真横なので大丈夫でしょう。
校内のドアが少し重かったり、校内のスロープの勾配が二階と三階で同じ位置なのに違ったり、在校中は歩いていたので気がつかなかったこともわかったし、新発見だった。移動教室は、障害がある子が来れば、自教室ですればいいし(展開授業とか言って、1クラスをいくつかに分けるらしい)、車椅子で着席するのに教室が狭ければ、廊下側の一番ドアにすればいいと 確かに。
もうすぐ高校受験。
車椅子の受験生がいるみたい。そのためのリニューアルではなかったのだけど、偶然のみわざ?
去年も車椅子の希望者がいらしたのにお断りしなくてはいけなかったらしく、今回は学院も受け入れることが出来て、先生方も嬉しそうだった。
あとはその受験生が合格して、学院を気に入って、充実した高校生活を送ってくれたらいいなと祈るでした。
はこの学院のおかげで中卒にならなかったし、留学もできたし、英語も得た。たくさんの素晴らしい人々にめぐり合い、苦しくても耐えられたし、その土壌を持って留学し、年齢や人種や考え方やいろんな人に柔軟に出来たり、異文化に抵抗がなかったのも母校にいろいろな人がいたこと、それでもいいことを無意識に教わっていたからかもしれない。
の関係でレッスンでいい人にめぐり合い、子どもを適当に扱わないでおきたいと思うのは、きっと母校で先生方やシスター方にきちんと聴いていただいたから。カトリックに導かれたのはこの母校のおかげ。
二分脊椎による「じょくそう」で中二と中三に入院し、そのときはまだ義務教育だったしそのまま高校受験がなく進学できたので、温室のような環境で、のんびり三年間を過ごした。
思えば小4くらいから受験は考えていたけれど、体力がない上にほとんど不登校で勉強どころではないイジメなどもあり、分数の通分で算数は引っかかり(よく考えたら、不登校で授業行かなかったら通分なんかわからないなぁ)出席日数と算数では絶望的な状況。
某「公●式」に行って算数をやり直し、参考書と問題集を一年生用から買い(はずかし・・・)某「公●式」のレベルが自分の学年と同じになったのが、6年生。
いろいろお稽古はしたけれど、5年生から二年間通った英会話学校にそのカトリックの学院の小学生が数人いて、楽しそうだからと希望校に決めた。(普通は3年生くらいから中学入試は準備するのかな。はそういう意味でも絶望的)
塾に行くにもこれだけ勉強が出来なければ、入塾テストにも合格できない。考えて、夏期講習に通えばそのまま入塾テスト免除で通えることがわかり、6年の夏から受験クラスではなく普通クラスに通った。
算数は一番下のレベル。国語はまあまあ。苦手なものに合わせないと大変なので、一番下のクラスへ。
体力がないので、小学校6年まで寝るのは8時。
受験勉強をする時間がなく、また妹は7歳下のまだ幼稚園児。子どもの出入りも激しかったので、朝4時半に起きる毎日だった。
両親は「当然公立中学にいくものだ」と思っていたので、「9月の入試説明会に行って」と頼んだときは、寝耳に水
中学までは男女共学で、と母。父は反対もせず(でも合格しても受け入れてもらえないだろうから不合格になるだろうと思っていたらしい)。小学校担任は大反対。「願書や内申書は書きません」
…でも希望校は内申書不要という調査済み、願書も自分で(親が)書くものだったので、毎日放課後に残されて反対されてもは受験した。卒業式の朝も説得され、断固公立拒否、もう制服やいろいろ購入済み。要するには頑固、どうしてもどうしてもこの学校に行きたかったし、絶対に公立に行きたくなくて…
思えば18年前。記憶はあやふやだけど確か2月に出願、3月1日に受験、3日合格発表。
よく短期間に入学許可を出してくださったなぁなりにがんばった、苦労した甲斐があった
受験に行ったとき壁をつたって階段を上がり下りし、は別にそれで困らなかったのでこちらからは特に何もお願いしなかった。入学説明会に行ったときに、中学と高校の校舎(同じ校舎)のすべての階段とすべての洋式トイレに手すりがついていた・・・
中高はじめ小学校にも障害を持つ私が入学することを事前に保護者も含めてお話くださっていたようそして出身小学校にも連絡してくださったようでもあれだけ反対されたので、何も学院にはの小学校のことはわからず、それでも工夫してくださった
入学式の後、両親と校長室によばれた。その校長先生は12月3日のの洗礼式に来てくださったシスター。校長室に入ったとき、両手を広げて「さん、おめでとう!良かったね」と包み込んでくださった。も母もそれが忘れられない。そしては「この学校に来て良かった」
体育の授業のために、当時私は歩いていたので車椅子をどこからか調達してきてくださり、校外学習や体育の授業に使わせていただいた。見学すると、中学も高校も報告書みたいなものを出せばいいシステムもあったけれど、車椅子でのテニス、バレーボール、バスケ、ダンスをほとんど一緒にやらせてもらった。
テニスはダブルス。私が打ち損ねた球をパートナーが、後ろで打つ。
バスケは定位置でパスなど、ダンスはグループでみんなが私を加えてする創作ダンスを考えてくれ、平均台はさすがに車椅子は無理なので、体育館のカラーテープのラインを平均台に見立ててやった。
レポートも出し、時には苦手な技術科目(不器用で音符も読めない)より成績が良いことも
行事ももちろん参加。
合唱コンクールはピアノにもたれて立ち、手すりを持って数段舞台に上がる。一番にあがってみんなを待つ。
体育系の行事は、全員参加は球技会は玉入れか、ハンデつきのドッジ。
競技会は応援合戦が全員参加。玉入れもあったかも(卒業して11年くらいたつと忘れて・・・)
それ以外はどちらももオリンピック形式。競技会は運動場。でも球技会は体育館やテニスコートとばらばらで、応援もプログラムを見て生徒が行き来していたので、疎外感ゼロ。
こんないい学校に通えて幸せな10代を過ごし、留学も反対されず、卒業後もたびたび卒業生の多くは顔を出しに行く、素晴らしい学校
今回、リニューアルを聞いてみんなびっくり生徒数は少子化で減るし、学費も私たちの頃とたいして変わらないでも完成したので遊びにいらっしゃいと恩師に言っていただき、行くことにした。
母校は山に立っていて、通学路のひとつには急な坂がある。幼稚園の一段上に第一体育館とグランド、その一段上に聖堂と小学校、第二体育館に購買部、その数段上に中高とテニスコート、その上に旧短大。
なので私はいつも中高だけ動くつもりで車椅子は持っていかなかった。
それが今回、ほぼバリアフリーになったので、実際に車椅子で使えるか、生活できるかチェックして欲しいと。
探検も出来るし、ちょっとでもお助けできるなんて
タクシーで着いたとき、口があんぐり(これって私の母校?)というくらい素敵に変身
車椅子に乗り、「さあ下足室のドアが車椅子のまま開けられるかしら」…親切な守衛さんと、用事で外にいらした女性の職員さんがドアをご親切に開けてくださった(笑)
…「ありがとうございます教員室はどこですか?」車椅子を押してくださいました(笑)
「こんにちは」とすれ違う在校生、優しく親切で次々ドアを開けて下さった(笑) 的には車椅子で開けたり出来るか調べに来たのでご親切は嬉しくありがたい、助かる、さすが我が母校
でもでも(調べなきゃ・・・)
そして恩師に出会ってそのことを話し、「リニューアルしてもいいところは残っていますね」と言いながら、先生はチェックリストをもって出発その開けていただいたドアも、押していただいた場所も、一人で巡回。
でもある意味、こんなに素敵に親切な方々や在校生がいるんだから、自力で何かが出来なくても、大丈夫という希望が見えた
すべてのドア(トイレ、教室、特別教室、体育館、とにかくすべて)がどれだけ車椅子で開けやすいか、開けにくいか、重いか、軽いか、軽すぎて勢いよくあけたら跳ね返るか。
ドアの取っ手やスイッチの高さ、持ちやすさ、ドアの下のちょっとした段差のチェック。
屋外のスロープ(屋上から講堂に出入りしたり、下足から聖堂や体育館や駐車場まで)の勾配、その手すりの位置(車椅子に座ったときの位置と、立ったときの位置の二本があった)、そのスロープの雨の日用のプラスチックの屋根。頭上にしかないので横からふきさらしになるかな、まで考えていらしてびっくりした。
トイレの位置。洋式トイレは一応各階にあるので、車椅子で入って、座ってみて、手を洗ってみる。私のように車椅子から立ち上がれて少し歩ける人は問題なし
車椅子トイレは一つしかないけれど、すぐにいける位置。は最近の導尿の件で「使えない車椅子トイレ」に何回もめぐり合ったので、どきどき
ドアも軽く、跳ね返りもなく、スイッチも低く、手洗い場には押すだけで水が一回分出るタイプ洗面台の両脇に手すりがあって車椅子で立ち上がることが出来るもちろん、手すりの間に余裕で車椅子は入り、座ったまま手は洗える
車椅子から降りて、便座にうつるときに車椅子を置いておけるスペースは広くて、便座は高すぎず低すぎず、大きさは一般的。座って右の手すりは取っ手を引くと直角に上にあがるようになっていて、不必要ならば邪魔にならないよう、あげられる便座の足元にセンサーがあり、立つと勝手に流れるし、手で流す場合も体をひねって流さなくても左腰のすぐ斜め後ろに流すボタン。
トイレットペーパーは二つ並んでいて、ふつうの覆いかぶさるようなふたの上に、小さなカウンター ここに導尿していたり、傷の手当がある生徒は、消毒液やコットン、カテーテルや薬を置けるは一番これに感動
物の多い図書室や、敷地がないため動きにくいところもあったけれど、本は必要だし、司書さんがいるし、で前もって検索すれば持ってきていただける。その図書館のPCはもちろん車椅子でOKで、受付が真横なので大丈夫でしょう。
校内のドアが少し重かったり、校内のスロープの勾配が二階と三階で同じ位置なのに違ったり、在校中は歩いていたので気がつかなかったこともわかったし、新発見だった。移動教室は、障害がある子が来れば、自教室ですればいいし(展開授業とか言って、1クラスをいくつかに分けるらしい)、車椅子で着席するのに教室が狭ければ、廊下側の一番ドアにすればいいと 確かに。
もうすぐ高校受験。
車椅子の受験生がいるみたい。そのためのリニューアルではなかったのだけど、偶然のみわざ?
去年も車椅子の希望者がいらしたのにお断りしなくてはいけなかったらしく、今回は学院も受け入れることが出来て、先生方も嬉しそうだった。
あとはその受験生が合格して、学院を気に入って、充実した高校生活を送ってくれたらいいなと祈るでした。
はこの学院のおかげで中卒にならなかったし、留学もできたし、英語も得た。たくさんの素晴らしい人々にめぐり合い、苦しくても耐えられたし、その土壌を持って留学し、年齢や人種や考え方やいろんな人に柔軟に出来たり、異文化に抵抗がなかったのも母校にいろいろな人がいたこと、それでもいいことを無意識に教わっていたからかもしれない。
の関係でレッスンでいい人にめぐり合い、子どもを適当に扱わないでおきたいと思うのは、きっと母校で先生方やシスター方にきちんと聴いていただいたから。カトリックに導かれたのはこの母校のおかげ。