静風徒然ブログ

心の赴くままに、鳥のように、虚無の世界!

長崎の虚無僧寺・松壽軒

2008-03-20 08:52:59 | Weblog
島原の乱のあと、乱を平定した老中松平伊豆守信綱はその足で長崎に立ち寄った。
1639年のこと、
そして長崎代官2代末次平蔵の案内で平戸のオランダ領事館まで足を伸ばす。
そこで見たものは圧倒的な威力を誇る大砲や戦艦、
このまま放置するとまた「島原の乱」の二の舞になりかねない。
やはりオランダ人も居住を封鎖したほうがいい!

平戸のオランダ領事館は即刻長崎の出島に移され、
中国とオランダ以外の船の寄港を一切許さない鎖国の体勢が確立された。

信綱は当時武蔵の忍城の城主であった。
この忍城、徳川方の初代城主は島原城主松平忠房の祖父、松平家忠、

忍城といえば青梅の鈴法寺(関東虚無僧寺の総本山)との関係が深い。
鈴法寺は忍城の敗戦武将への計らいで家忠が関わった寺であった。

信綱は当時京都所司代であった板倉重宗(島原の乱で悲劇の戦死を
遂げた板倉重昌の兄、父勝重も京都所司代、京都明暗寺の建立に尽力)と謀り、
鈴法寺の末寺として長崎に虚無僧寺、玖崎寺を建立させた。

1640年のことである。

以来、この玖崎寺は江戸城、京都所司代、島原藩主の目先役として長崎奉行を
観察し、天領政治の裏方を務めた。

現代尺八中興の祖、琴古流流祖、初代黒澤琴古はこの玖崎寺(のちの松壽軒)で
林翁一計に「古伝3曲ほか鹿の遠音」など7曲を伝授され、
のちに江戸に帰り、日本の尺八界をリードした。
当時の長崎では唐人屋敷や唐寺で七弦琴と洞簫の合奏が盛んにされており、
琴古も興味を抱いたはずである。
江戸に帰り、琴との合奏に挑戦する。今の3曲合奏の始まりである。

しばらくしてチャルメラ宗悦と言われ、明清楽に通じた近藤宗悦が
こちらも関西にでて、京都明暗寺の役僧となり、関西の尺八界をリード、
同じく琴との合奏を始めることになる。
その宗悦流から中尾都山が輩出し、都山流を創設、現在の最大流派に導く。

このように長崎の虚無僧寺、玖崎寺(のちの松壽軒)が日本の尺八史に
果たした役割は大きい。

私が平成14年、自費でこの松壽軒跡碑を建立した記念に、
全国から多くの虚無僧ファンが集まっていただき、碑の建立を祝った。

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下は私が当時、托鉢用に使用していた2尺2寸管、銘は「同行二人」
現在は8寸の地無延管で托鉢している。 譲渡可






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