静風徒然ブログ

心の赴くままに、鳥のように、虚無の世界!

松林源蔵

2010-01-13 12:16:06 | Weblog
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トーマスグラバーと高島を開発した鍋島藩士・松林源蔵
慶応4年、43歳のとき、トーマス・グラバーとの高島炭鉱共同開発条約を締結
長崎大村町の後藤主馬の家に事務所を設け、来客を接待し、
その子、松林公次郎を高島にやり、事務を取らせていた。
万才町の藩邸からツーリスト号(観光丸)で高島と往来していた。

我が先祖が深堀の松林家であり、
その昔、高島で石炭を掘っているとき、水が出て苦境に陥った話は
祖祖父の松林米八がよく鍛冶をしながら子供達に聞かせた話である。

「あのとき水が出ていなければ、松林家はこんな苦労はせずに済んだのに」が
米八の口癖だったようだ。
しかし我が祖父、松林政重は内閣総理大臣賞、陸軍大臣賞を受賞するほどの
長崎を代表する刀匠になった。
なにか祖父を日本一に育てるような家系の歴史があるに違いないと思うようになった。

そんなこともあり私はよく高島に出かけた。
その高島も閉山を迎え、最後の茂木所長のとき、
たまらなくなり、何か先祖の糸口を探りたい、と嘆願した。
そして茂木所長が島を去るとき、
「昔、松林さんの名前を聞きましたよ」とはじめて松林源蔵の話を聞かせてくれた。
高島炭鉱史という貴重な資料もいただけた。

「ああ、神の思し召しか、と神様に手をあわせた。」
色々と資料も出てきた。何か糸口がないか、繋がらないか、と
県立図書館に入ったり、佐賀の松林さんに電話をかけたり、深堀中の墓地を一日中回ったり、
深堀の菩提寺や円城寺に過去帳を見せてもらいに伺ったり、
まるで何かに取り憑かれたように、祖探求の聞き込みは続いた。

結論は「わからない」の一言である。
何かある!、はずでありながら、見つからないのである。

しかし県立図書館の「松林文書」で源蔵を研究するうちに、源蔵でなくても
松林一族は鍋島藩の重鎮であり、採炭の為に、高島に来島していた、ことはわかった。

源蔵と私が縁戚かどうかは解らない、としても、
松林一族はどこかで繋がっている鍋島の士族であり、
採炭事業におおいに関わっていたことは事実のようだ。

長崎県立図書館の「松林文書」はなにせ古文書、解読するのに苦労した。

松林源蔵は鍋島藩の士族であり、文政9年8月(1826)佐賀県白山に生まれた。
父は大兵衛、母は糸山家の出である。
幼名を林太郎、のちに猪次郎と改名、15歳で源蔵を名乗った。
のちに高島炭坑開発の功により、藩主より公留(COAL)という称号を賜った。
漢学を草葉先生に学び、四書を研究、論語は生涯、手放すことはなかった。
武芸は直心影流を学び、藩中では並ぶものがなかった。
天保12年、父大兵衛が没し、翌13年佐賀代官所に手許役見習として勤めた。
嘉永2年8月、新たに郡方という役所ができ、郡方手許役となった。
嘉永5年9月に27歳で郡目付け役に昇格、
安政4年に長崎屋敷詰めを命じられている。
文久2年37歳のとき深堀詰めを命じられ、出張

42歳、当時物産局機械御取入方勤務中、藩主より高島開発の話があり、
長崎出張を命じられ、万才町の藩邸に詰めた。
慶応4年、43歳のとき、トーマス・グラバーとの共同開発条約を締結

源蔵は長崎大村町の後藤主馬の家に事務所を設け、来客を接待し、
その子、松林公次郎を高島にやり、事務を取らせていた。
万才町の藩邸からツーリスト号(観光丸)で高島と往来していた。

明治5年3月、47歳で辞職し、佐賀に帰った。
明治4年頃より病気にかかり、明治8年1月、佐賀の田代小路で没した。
50歳、遺骨は佐賀唐人町鏡円寺に葬むられている。

弘化4年(1847)12月、村岡一兵衛氏の長女、茂子と結婚、
4男2女をもうけた。
長男公一と三男一十は上野彦馬の下で写真術を学び、
次男公次郎は後藤象二郎の高島に鉱山見習として入社し、功績が大きかった。
公次郎の孫の松林太郎氏は唐津に在住した。

高島を開発した松林源蔵は4代目であるが、
初代松林源蔵は元禄14年(1701)に没した人のようである。
2代目松林源蔵の弟、弥左衛門が長崎御番の為深堀に来村、
御番所で没している。(1730)

また3代目源蔵の弟、左次右衛門も深堀在住が確認され、
安永7年(1780)没している。
いずれも円城寺に納骨されている。