静風徒然ブログ

心の赴くままに、鳥のように、虚無の世界!

日本最古の尺八

2006-08-30 10:26:32 | Weblog
正倉院の尺八

長崎に中国福建省から持ち込まれた洞簫(D調)表5孔が改良され
日本の現代尺八は1尺8寸管が主流となり、琴との合奏が盛んになった。
魏之炎によって持ち込まれた明楽の影響で日本の3曲形式が
新しく生まれ変わった訳である。

それまで日本国中を謳歌したのは1尺1寸の一節切(ひとよぎり)、
一休禅師あたりから島原の乱の板倉重昌あたりまで約400年の間、
盛んに僧侶や戦国武将などによって連歌の席などで吹かれてきた。

それ以前は聖徳太子の吹いた洞簫、表5孔だった。
もっぱら雅楽の楽器として吹かれ、長く栄えることは無かった。

下は現在正倉院に残されている尺八の写真である。
竹、玉、象牙、種類もいろいろ、長さもいろいろ、
ほぼ1尺2寸から3寸、一節切より少し長い。管径はほぼ25ミリ、
節と孔の位置もいろいろであるが、おおかた3節、
表5孔のうち、3孔が下節に、2孔と裏孔が上節に配されている。
歌口部は一節切と同じく外切り(唐切り)であり、節部にはない。

興味を抱くのは最初に持ち込まれたときから洞簫といえば表5孔であったのに、
なぜか日本では4孔方式に固守している、ということである。
中国では今でも基本的には表5孔、しかし鹿児島に伝わった天吹同様、
韓国では現在でも洞簫といえば表4孔である。
そして歌口は中国でも韓国でも中切りだ。唐切りを守っているのは日本だけ。


今日の1品は私が作った太子の笛写し(上)と韓国の尺八トゥンソー(下)
3孔を塞げば韓国雅楽の洞簫トゥンソーとほぼ同じ、面白い発見である。

虚無僧さんのお経

2006-08-28 09:57:51 | Weblog
明暗双打の偈

虚無僧さんが托鉢する時に唱えるお経とは一体どんなお経なのだろう?
そんな疑問を持つ方も多いものと思われる。
「明暗双打の偈」というものがあり、いつも唱えながら托鉢している。
「明暗流」とか「明暗寺」という名もここから来ていると思われる。

唐の宣宗時代の大中年間(850年頃)に河北省の鎮州というところに
臨済院という小院があった。
わが国禅宗臨済宗の宗祖、臨済義玄禅師が修行していた寺である。
後に大名府の興化寺に移るが、その時臨済を助けたのが普化和尚である。
普化和尚は盤山に師事し真訣を受け、あたかも狂僧のごとく振る舞い、

常に手には一鐸を持ち、
「明頭来也明頭打   暗頭来也暗頭打 
四方八面来也旋風打 虚空来也連架打」と唱えながら振り歩いていた。
最後は自分で棺桶を担いで土を堀り、鈴の音だけを残して昇天した。
この行雲流水のように道を行脚する普化禅師の姿に敬慕して張伯という
居士が自分の好む竹管で禅師の振鐸の音を真似て吹き、自らを虚鐸と
号した。尺八でお経のように「虚鐸」を吹いたのである。

この張伯から16代目の張参の頃、日本からきた留学僧、心地覚心
(のちの法燈国師)は杭州の護国仁王寺でこの虚鐸の音に出会い、張参に
学んだ唐僧4居士(国佐、宝伏、理正、僧恕)を連れて日本に戻り虚鐸を
国内に広めた。
 明頭来也明頭打     暗頭来也暗頭打 
 四方八面来也旋風打   虚空来也連架打 

この明暗双打の偈は虚無僧の偈として大事にされているが、直訳すれば
明るい奴は打て、暗い奴も打て どこから来てもつむじ風で打て
天から来てももぐら叩きで打て となる。

禅語らしく解釈すれば、
この世には善も悪もない、明も暗もない、虚も実もない、
(色不異空 空不異色 色即是空 空即是色)
地上のどんな現象も、いや現世の存在自体もうたたかの夢なのだ。
四方八方の一切の衆生よ、本来無一物だ、といって迷いを吹き飛ばし、
己の六根を清浄にして、みんなで極楽浄土へ行こう、さあ 行こう
(掲帝 掲帝 波羅掲帝 波羅僧掲帝 菩提娑婆訶 般若心経)
というところだろうか。

あるいは逆に、
善には善のごとく、悪しきは悪しきを知り、
明には明で、暗には暗で、生を生として、いずれ来る死を死として
すべてあるがままに受け止める、無為自然、無心たれ、と言うことか。
私の托鉢用2尺2寸管尺八「同行二人」





林翁一計探し

2006-08-26 14:02:23 | Weblog
林翁一計探索のポイント

初代黒澤琴古に古伝3曲ほか7曲を伝えた「林翁一計」
しかし一計の名は松壽軒の管主の中には出てこない。
一体どこから来た、誰か?
1679年生まれで、1740年没の林翁一計探索が続く。

・「翁」というのでかなり偉い。
・「庵主」というから、どこかの庵主であった。
・当時の長崎の明楽に関わる家系は「魏家、のちの鉅鹿家、民部家」「林家」「彭城家」
 「平井家」「小曾根家」等であり、当時の唐通事が明楽を広めている。
・当時、崇福寺から宇治の黄檗山に上がる僧が多く、黄檗山のそばに庵を作った者も多い。
・水上勉の「虚竹の笛」の善応寺は崇福寺の正門をくぐって左、
 そこには林家の墓地「廣善庵」があった。
・もう少し上段には廣福庵があり、ここは彭城逸調の彭城家が祀られている。
 彭城逸調は近藤宗悦と並ぶ長崎出身の尺八家、
 吉田一調から一調名を貰った琴古流の重鎮、
 大通事、劉宣義の子孫、10代目で唐人だった。

・林公エンの墓はなぜか皓台寺にある。皓台寺は玖崎寺を救済した寺。
 林翁は皓台寺の庵の可能性もある。
 林公エンの次男、ニ木茂十郎の子、林右衛門、2代目二木茂十郎が、
 「唐通事家系論攷」という本の中ではかなり生没年が近い人物だ。
 林右衛門は父初代林茂十郎の死により、若くして(16歳)年行事役を継いでいる。
 40歳(1704年)でお役ご免となっており、興味深い。
 2代で絶家している。
・祖父、公エンの号が「一官」といい、「一計」という号も不思議ではない。
 のちに長崎に清楽を普及させたのも林 得建、やはり林家である。

初代黒澤琴古に古伝本曲を伝授した林翁一計、果たして誰なのだろう?
林翁一計探しは私の新しいテーマである。

明楽と亀型の墓

2006-08-23 09:07:48 | Weblog
長崎の明楽は中国からの渡来人で崇福寺の創建に功績のあった魏之炎(王偏に炎)によって広められた。
曾孫の魏君山が民部と改姓、上京して明楽の師範となり、
酒井雅楽頭(音楽担当の家老職)の扶持を受けた。
安永元年(1772)には河原御殿泉水で船楽を奏している。
酒井侯の死去とともにまた長崎へ戻り、筒井景周ら弟子たちに秘曲を伝えた。
安永3年に没するが「すべて本朝にて明楽流行し候う儀は民部より弘まり申候」と
由緒書にあり、日本での流行は安永以後と言われる。

初代の魏之エンが本国から楽器を持参して魏家に伝えた。
それを図示した本も残されている。
楽器には唐琵琶、月琴、笛、片鼓、柏板、木魚、シチリキ、排簫
それに洞簫(尺八)、琴など19種類であった。


のちに書家の小曽根乾堂らによって明清楽は伝承され、
幕末から現在まで続いている継承の系譜は、小曽根乾堂-小曽根キクー
中村キラ・渡瀬ひろ子になっている。
私も会員の一人として、明笛を担当したときがあった。
現在長崎県の重要文化財に指定されている。

明楽は2つの傾向があり、1つは揚子江下流を中心とする北部明楽、
もう1つは福建省南部の南部明楽であり、南部明楽にはメリ込み、
掏り込みが多用されており(琴古系)、北部明楽には深いメリが
少ない(宗悦系、都山系)のが特徴である。

ところで先日、魏之炎の墓を見学にいったが、中国式である。
また大音寺の開山、伝誉上人の墓も亀の甲羅の上に碑があり、
福済寺の慈母観音様も亀の甲羅の上に立っている。
深堀の五官の墓もそうだ。
この亀の墓は隠元とともに明から亡命してきた朱舜水によって
国内に広められた中国式の墓の形である。
朱舜水は後に(1665年)水戸黄門に招聘され、
儒学の師として王制復古に貢献した人物である。
その娘、高は鄭成功と結婚し、台湾王となり、清に最後まで抵抗した。
宇治の吸江庵にある虚竹の墓も亀趺(キフ)であり、
吸江庵という名の正式な登場は萬福寺の建立以降、というのだから、興味深い。
虚竹の墓といわれるが、1600年以降の唐人の朗庵主のものであるかも知れない。
虚竹禅師奉賛会の酒井理事長と酒井雅楽頭が同姓であることも、不思議なご縁である。


松壽軒のこと(その6)

2006-08-18 09:26:02 | Weblog
水上 勉が「虚竹の笛」で言いたかったこと

前回のブログで水上 勉「虚竹の笛」中に虚竹と絶崖の会話がある。
虚竹の問いに、絶崖は長崎・崇福寺末の「善応寺」です、というくだりがある。
崇福寺が創建されたのは1628年だから、随分と新しい時代の話である。
もちろん一休禅師の時代とは300年近い差があり、つじつまが合わない。

しかし現在我々が「虚竹の墓」として大切にしている宇治の吸江庵の墓碑は
実は当時のものであり、新しい。
亀趺(キフ)といい、隠元以降に日本に流行した中国式の墓であり、
それ以前には日本に存在しなかった。

虚竹が修行したという中国・浄慈寺の大雄宝殿の前にある大きな亀趺を
見たときの感動は今も忘れられない。

ああ、これだ!これが亀趺だ!
虚竹禅師の墓であろうとして、私達が現在礼拝している吸江庵跡の墓だ、
やはりそうなれば、今我々が礼拝している虚竹禅師の墓らしきものは
水上 勉が言うように 隠元以降の、虚竹を名乗った「和漢竹簡往来」の
「峯尾絶外・虚竹禅師」の墓に違いない。
峯尾絶外は南塀山の洞窟で何代目かの虚竹に学び、帰国後、長崎から宇治へ上がり、吸江庵に住し、
その虚竹を偲んで「虚竹名」を名乗ったのであろう。

下の台座が亀である。亀趺(キフ)が日本に持ち込まれたのは
隠元禅師や朱瞬水の来日以降である。  面白い!

水上 勉は尺八の素人ではない。もちろん宗教界の素人でもない。
その水上 勉が虚竹についての自分の持論を叫び続けながら、死んだ。
その思いが私にはなんだかビンビンと伝わってくる。
だから中国語も話せないのに、歯を喰いしばって単身、杭州まで行き、
護国仁王寺跡や浄慈寺、南塀山洞居跡を訪ねてみた。

今日の1品は当時長崎で吹かれた明楽5孔洞簫、
律は1尺8寸の筒音であり、これが一節切を8寸管に変えた。


松寿軒のこと(その5)

2006-08-17 13:38:03 | Weblog
水上勉の「虚竹の笛」に出てくる「善応寺」の考察 

水上勉著「虚竹の笛」の103ページ
絶涯と虚竹との南屏山での出会いのシーンを水上勉は夢想する。
「海賊もこの頃、--
    ーー南無八幡大菩薩の旗が立っていれば、日本船に間違えた」
「私の船も明船でした。張九齢という船長でした」
「そんな人とどこで知りあわれた」
「長崎の善応寺です」
「善応寺、知らぬ寺の名じゃ」
「崇福寺末です。崇福寺の総門から左手を入ったすぐの所にありました」

この下りをもっとよく知りたいために、私は長崎歴史文化協会の越中哲也先生を訪ねた。
「ああそれは位置的には「廣善庵」のことじゃろう。
ここは林家の2代、林仁兵衛が、父の林太郷を詣った墓だ」
林家といえば大通事を勤めた家でもあり、
長崎の清楽の普及におおいに貢献した家系である。
清楽といえば、当時「興福寺」や「崇福寺」を中心に伝習され
尺八やチャルメラ、明笛、胡弓、琴など、日本では最高水準のものが
長崎で奏せられていた。
「廣善庵」、これも充分に考えられる答えである。
末寺の一つにもうひとつ「廣福庵」という庵もある。

ここは琴古流の大重鎮、吉田一調の高弟、彭城逸調の彭城家が檀家の寺である。
彭城逸調は後に吉田一調より一調名を貰い、
近藤宗悦と共に長崎を代表する尺八家、
「松壽軒」の絵を残したことで尺八史通には知られている人である。
「廣福庵」も「善応寺」候補の一つとして残してよい。

南無八幡大菩薩なら八幡をまつる「現応寺」説も有力であり、
御朱印船取締の「清水寺」説も残る。
夢はますます広がる。
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今日の1品は5孔洞簫G調
いろいろと試行錯誤しながら中国の簫に近い尺八を作りました。
尺八でもない、ケーナでもない、中国の簫でもない管です。
歌口は尺八演奏家向きに作っています。
表5孔、裏1孔です。聖徳太子の洞簫とほぼ同じです。
音律はG調子(ト長調)、唱歌や中国音楽を演奏するのには最適です。
筒音がド、1つずつ開けてレ、ミ、ファ、ソ、ラ、裏孔がシ、です。




松寿軒のこと(その2)

2006-08-15 19:35:10 | Weblog
以下に清田章童著「長崎と尺八」から松壽軒についての記述を紹介する。

松壽軒については今から160年前の文化文政年間に書かれた
「市史地誌編仏寺部下巻の松壽軒記」に紹介している「長崎名勝図絵」稿本、
ならびに同仏寺部上卷、天長山太平寺の一史料のうち
「太平寺由来書」によってわずかに知ることができる。
それによれば
1640 初代門的  
     寛永17年、武州青梅鈴法寺に関係のあった端翁門的という虚無僧が
     虚無僧が長崎奉行の許可を得て八百屋町に一寺を建立
1679 2代及察   
     延宝7年春、官の要請により古町第5橋の側(今の古町橋北)
     表口3間、奥行6間3尺の地に移る。
     延宝7年2月、鈴法寺と本末の約を結び、長福山玖崎寺とす。
1720 3代秀水   
     享保5年2月、年始八朔の礼を行う資格を賦与され、基盤確立
1720 4代青山 
1721 5代角豊   享保6年、長崎大水害で被害を受ける。
1728 初代琴古、玖崎寺を訪れ一計に7曲を伝授さる。
1740 元文5年冬、更に失火火災で全焼、復興の道が閉ざされる。
1742 6代白仙   
     寛保2年の初め、台寺第10代笑厳
    (又は禅僧慮山の建てた浄泉院)との寺号譲渡の交渉を重ねる。
1744 7代探心   
     延享1年10月、本寺に窮状を訴え、寺号を譲渡し、
     庵号をもって実態を維持し、従前通り虚無僧接待の任に
     当たりたい旨、願い出る。
1750 寛宝3年9月、鈴法寺より浄泉院への寺号譲渡の許可が降りる。
     のちに天長山太平寺と改称する。
1766 明和3年3月、玖崎寺跡の止宿所は鈴法寺の許可を得て、
     松壽軒と称するようになる。
     探心は宝歴4年3月(1754)まではいたがその後の看主は不明

以上のように松壽軒は表面上虚無僧の止宿所として当地、又は巡行中の
虚無僧を監督し、普化宗廃止とともに廃絶し、民家となったものであるが、
その間の消息はよくわからない。
ただ「虚無僧一件」という松壽軒の記録の写本によって
松壽軒付与の「本則」「会判」「往来」の各写し、
そして天明寛政年間(1780~1800)の看坊に帰待、門弟に孔雲、志達と
いうものがいたことが判明している。

最近長崎市在住の津田繁二氏の好意により同氏が松壽軒付与の「往来」を
所蔵していたこと、また同氏の紹介で野母崎町海蔵寺の旧本堂の屋根裏から
指月という虚無僧の愛管、本則、往来2通、付録ならびに
慶長19年の掟書の写しなどが発見された。
その写しにより文化天保年間(1803~1847)に一籟随柳なる看主がいたことが
新たに解った。

不思議なことに初代黒澤琴古に古伝三曲を伝授した一計士という僧の名は
この記録の中には出てこない。
一計士は庵主「林翁一計」といわれている。
考えられることは
1)たまたま、どこかの庵から玖崎寺に来ていた高僧であったか?
2)島原城、あるいは鈴法寺、明暗寺から差し向けられた虚無僧か?
3)あるいは唐人か  面白い!

今日の一品は松壽軒でも吹かれていた一節切尺八、こちらは静風銘




二胡弾き虚無僧(その5)

2006-08-13 22:30:04 | Weblog
静風さんの大村二胡教室

長崎県のど真ん中、大村地区にも二胡の輪を広げたい。
それも二胡のプロの教場というのでなく、町造りの拠点にしたい。
自分達の町を自分達の手で元気にしたい。
いろんなイベントに積極的に参加させたい。
そんな思いでいろんな場所に拠点を広げてきたが大村もその一つ、

いよいよ今日から開講、
会場は大村駅からすぐのアーケード内「おおむら○まるカフェ」
スタート日の受講者は9名+アシスト2名、計11名と大賑わい、
店は定員一杯になった。
さすがに今回参加者は意欲満々、「きらきら星」がさらりと弾けた。
大村には静風さんの尺八古典本曲教場もあり、賑やかになってきた。
いいぞ!



虚無僧静風托鉢記(その13)

2006-08-09 23:53:18 | Weblog
町造りの講師として

今やどこの町でも「どうしたら自分の町を活性化できるか?」という
テーマに取り組んでいる。
市民は役所が一つも動かない、という。
役所は内の街は元気がない、という。
そこで自発的に、精力的に町造りに専念している私に
御指名があった次第。

平成16年8月23日(月)午後7時30分から
多良見町中央公民館大ホールで 人材派遣事業交流会が
開催され、講師として招かれた。

多良見町では平成14年度から町内に在住する
「達人名人」を登録し、町の活性化に 役に立てようと試みている。
しかし特技はあっても登録しただけでは、
なかなか需要は生まれてこない。
そこで今回、この状況を打開しようと、みんなが集まり、
登録者同士をお互いに 知り合おう、そして待つのではなく、
主体的に自分にできる活動を提案するきっかけを 作ろうと、
私のこれまでの体験談を交えながら
交流しようという事になった。

参加者はみんな話し出したら止まらない。
お互いの交流が充分に果たせた。
とてもいい機会を担当の岩本さんに作っていただいた。
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写真は熱心に講義する虚無僧静風