正倉院の尺八
長崎に中国福建省から持ち込まれた洞簫(D調)表5孔が改良され
日本の現代尺八は1尺8寸管が主流となり、琴との合奏が盛んになった。
魏之炎によって持ち込まれた明楽の影響で日本の3曲形式が
新しく生まれ変わった訳である。
それまで日本国中を謳歌したのは1尺1寸の一節切(ひとよぎり)、
一休禅師あたりから島原の乱の板倉重昌あたりまで約400年の間、
盛んに僧侶や戦国武将などによって連歌の席などで吹かれてきた。
それ以前は聖徳太子の吹いた洞簫、表5孔だった。
もっぱら雅楽の楽器として吹かれ、長く栄えることは無かった。
下は現在正倉院に残されている尺八の写真である。
竹、玉、象牙、種類もいろいろ、長さもいろいろ、
ほぼ1尺2寸から3寸、一節切より少し長い。管径はほぼ25ミリ、
節と孔の位置もいろいろであるが、おおかた3節、
表5孔のうち、3孔が下節に、2孔と裏孔が上節に配されている。
歌口部は一節切と同じく外切り(唐切り)であり、節部にはない。
興味を抱くのは最初に持ち込まれたときから洞簫といえば表5孔であったのに、
なぜか日本では4孔方式に固守している、ということである。
中国では今でも基本的には表5孔、しかし鹿児島に伝わった天吹同様、
韓国では現在でも洞簫といえば表4孔である。
そして歌口は中国でも韓国でも中切りだ。唐切りを守っているのは日本だけ。
今日の1品は私が作った太子の笛写し(上)と韓国の尺八トゥンソー(下)
3孔を塞げば韓国雅楽の洞簫トゥンソーとほぼ同じ、面白い発見である。
長崎に中国福建省から持ち込まれた洞簫(D調)表5孔が改良され
日本の現代尺八は1尺8寸管が主流となり、琴との合奏が盛んになった。
魏之炎によって持ち込まれた明楽の影響で日本の3曲形式が
新しく生まれ変わった訳である。
それまで日本国中を謳歌したのは1尺1寸の一節切(ひとよぎり)、
一休禅師あたりから島原の乱の板倉重昌あたりまで約400年の間、
盛んに僧侶や戦国武将などによって連歌の席などで吹かれてきた。
それ以前は聖徳太子の吹いた洞簫、表5孔だった。
もっぱら雅楽の楽器として吹かれ、長く栄えることは無かった。
下は現在正倉院に残されている尺八の写真である。
竹、玉、象牙、種類もいろいろ、長さもいろいろ、
ほぼ1尺2寸から3寸、一節切より少し長い。管径はほぼ25ミリ、
節と孔の位置もいろいろであるが、おおかた3節、
表5孔のうち、3孔が下節に、2孔と裏孔が上節に配されている。
歌口部は一節切と同じく外切り(唐切り)であり、節部にはない。
興味を抱くのは最初に持ち込まれたときから洞簫といえば表5孔であったのに、
なぜか日本では4孔方式に固守している、ということである。
中国では今でも基本的には表5孔、しかし鹿児島に伝わった天吹同様、
韓国では現在でも洞簫といえば表4孔である。
そして歌口は中国でも韓国でも中切りだ。唐切りを守っているのは日本だけ。
今日の1品は私が作った太子の笛写し(上)と韓国の尺八トゥンソー(下)
3孔を塞げば韓国雅楽の洞簫トゥンソーとほぼ同じ、面白い発見である。