静風徒然ブログ

心の赴くままに、鳥のように、虚無の世界!

明楽中興の祖、魏之炎を知ろう!

2009-06-13 08:59:26 | Weblog
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長崎の子供たち、長崎に住んで他県に誇れるものは何か?
自然が美しい、とか魚がおいしい、とかもあるだろうが
そんなことはどこの県にもあること。
数年前の日本修学旅行協会理事長の話によれば、
長崎はホテルも3流、中華街も小さい、食事もそれほどでもない、
平和学習といっても沖縄や韓国や中国に客を取られ、
そのうちになんの特徴もない町になってしまう、と嘆いていた。

しかし一つだけ誇れるものがある。鎖国の時代の文化である。
そしてそれを県民が学び、伝承していけるということである。
学童がもしこの「誇り」をもてるようになれば、素晴らしい。

私が子供たちに伝えたいのはこのこと、
「唐人楽坊塾」はその思いで創設した。

そこで明楽中興の祖、「魏之炎」という人をこの機会にもう少し知って欲しい。

日本で本格的に胡琴(胡弓)が演奏されるようになったのは、
長崎に明楽が流入してからのこと。
日本は1639年鎖国となり、1641年にはオランダ領事館が
平戸から長崎に移され、オランダと中国だけが長崎での貿易を
許された。
中国はその頃、明の時代から清の時代に変わろうとしており、
明の貴族は清の圧政を恐れ、特に南部の漢民族で長崎へ
逃げてくる人が増えた。

1629年頃、魏之炎(王偏に炎)という豪商が福建省から
長崎に来て、崇福寺の壇越代表となり、唐人屋敷の建設に
最も貢献しました。
魏之炎は明より19種類の楽器を長崎に持ち込み、
明楽を広めた人。
隠元禅師を興福寺から崇福寺の住職に招き、宇治の万福寺住職として
送った人、崇福寺の「大雄宝殿」扁額にその名が刻まれている。

将軍家光からその出身地・矩鹿にちなみ、矩鹿名を許された。
その4代、矩鹿民部は安永の頃(1772)宮中に招聘され、
天皇の御前で明楽を奏し、一大旋風を起こしました。
当時は宗教はもちろん、絵画も、書も、音楽も全て
「黄檗文化」がもてはやされたのです。

清の時代(1644年~)になると、明楽は徐々に衰え、
江戸時代末期になると清楽が中心になりますが、
長崎でも「林 得建」という人によって1830年頃清楽が
伝えられ、後に小曽根乾堂によって小曽根流として継承され、
長崎の明清楽として今日まで大事に伝承されてきている。

幕末の頃は明清楽の「九連環」が長崎から京都、江戸へと伝わり、
「法界節」や「かんかんのう」「さのさ」などに変曲され、
日本国中で大流行した。

坂本竜馬の妻の「おりょう」が小曽根乾堂に学び、
月琴を弾いた話は有名。
近年も「長崎ぶらぶら節」で有名な丸山「花月」あたりで
この胡琴が盛んに弾かれていた。
当時弾かれた胡琴が「花月」に今も展示されている。  




口笛

2009-06-13 08:07:22 | Weblog
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尺八家静風が永年の工夫の結果、改良した口笛、
東京の愛好家から注文があり、先週郵送した。

D調子管とC調子管があり、尺八の1尺6寸管、8寸管とよく合います。
管尻に工夫を凝らして、音程調整をしています。

右手で持ちます。短い側を右手の親指、長い側を右手の中指で挟み、
全部閉じたのがド、中指を少しずつ開けてレミファ、
親指を少しずつ開けてソラシドと吹きます。
「埴生の宿」などは感激ものです。 1本 2000円
こっそり胸のポケットに忍ばせて、宴会の仲間をあっと言わせてください。


崇高な余生を目指して

2009-06-09 12:05:02 | Weblog
人生を輪切りで考えろ!!
というのが私が新しく入社してきた新入社員に訴えて来た自論だった。
そして諸君は「バッジの似合う男になれ!」と叫び続けた。

私自身も20歳までは学業を磨き、40歳までは企業のリーダーとして
60歳までは帰郷し、地域のリーダーとして社会奉仕に鞭打ち、
そして今、60歳を越え、崇高な晩年を目指して、努力している。

でもかなり頑張りすぎた感は否めない。
「我こそは、我こそは」と力みすぎ、自分と意見が一致しない連中を
嫌悪感をもって、応接してきた嫌いがある。

我が師、故鈴木多聞師はよく私に説いた。

これからは世の中がはっきり、「分かれる」と、
善と悪、明と暗
だから「仲間を選びなさい!」と

そうすれば仲間を恨まなくて済む。
崇高な人生を創生するためには「恨み」があってはならない。

写真は龍頭泉で蛍と遊ぶ私、