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長崎の子供たち、長崎に住んで他県に誇れるものは何か?
自然が美しい、とか魚がおいしい、とかもあるだろうが
そんなことはどこの県にもあること。
数年前の日本修学旅行協会理事長の話によれば、
長崎はホテルも3流、中華街も小さい、食事もそれほどでもない、
平和学習といっても沖縄や韓国や中国に客を取られ、
そのうちになんの特徴もない町になってしまう、と嘆いていた。
しかし一つだけ誇れるものがある。鎖国の時代の文化である。
そしてそれを県民が学び、伝承していけるということである。
学童がもしこの「誇り」をもてるようになれば、素晴らしい。
私が子供たちに伝えたいのはこのこと、
「唐人楽坊塾」はその思いで創設した。
そこで明楽中興の祖、「魏之炎」という人をこの機会にもう少し知って欲しい。
日本で本格的に胡琴(胡弓)が演奏されるようになったのは、
長崎に明楽が流入してからのこと。
日本は1639年鎖国となり、1641年にはオランダ領事館が
平戸から長崎に移され、オランダと中国だけが長崎での貿易を
許された。
中国はその頃、明の時代から清の時代に変わろうとしており、
明の貴族は清の圧政を恐れ、特に南部の漢民族で長崎へ
逃げてくる人が増えた。
1629年頃、魏之炎(王偏に炎)という豪商が福建省から
長崎に来て、崇福寺の壇越代表となり、唐人屋敷の建設に
最も貢献しました。
魏之炎は明より19種類の楽器を長崎に持ち込み、
明楽を広めた人。
隠元禅師を興福寺から崇福寺の住職に招き、宇治の万福寺住職として
送った人、崇福寺の「大雄宝殿」扁額にその名が刻まれている。
将軍家光からその出身地・矩鹿にちなみ、矩鹿名を許された。
その4代、矩鹿民部は安永の頃(1772)宮中に招聘され、
天皇の御前で明楽を奏し、一大旋風を起こしました。
当時は宗教はもちろん、絵画も、書も、音楽も全て
「黄檗文化」がもてはやされたのです。
清の時代(1644年~)になると、明楽は徐々に衰え、
江戸時代末期になると清楽が中心になりますが、
長崎でも「林 得建」という人によって1830年頃清楽が
伝えられ、後に小曽根乾堂によって小曽根流として継承され、
長崎の明清楽として今日まで大事に伝承されてきている。
幕末の頃は明清楽の「九連環」が長崎から京都、江戸へと伝わり、
「法界節」や「かんかんのう」「さのさ」などに変曲され、
日本国中で大流行した。
坂本竜馬の妻の「おりょう」が小曽根乾堂に学び、
月琴を弾いた話は有名。
近年も「長崎ぶらぶら節」で有名な丸山「花月」あたりで
この胡琴が盛んに弾かれていた。
当時弾かれた胡琴が「花月」に今も展示されている。
長崎の子供たち、長崎に住んで他県に誇れるものは何か?
自然が美しい、とか魚がおいしい、とかもあるだろうが
そんなことはどこの県にもあること。
数年前の日本修学旅行協会理事長の話によれば、
長崎はホテルも3流、中華街も小さい、食事もそれほどでもない、
平和学習といっても沖縄や韓国や中国に客を取られ、
そのうちになんの特徴もない町になってしまう、と嘆いていた。
しかし一つだけ誇れるものがある。鎖国の時代の文化である。
そしてそれを県民が学び、伝承していけるということである。
学童がもしこの「誇り」をもてるようになれば、素晴らしい。
私が子供たちに伝えたいのはこのこと、
「唐人楽坊塾」はその思いで創設した。
そこで明楽中興の祖、「魏之炎」という人をこの機会にもう少し知って欲しい。
日本で本格的に胡琴(胡弓)が演奏されるようになったのは、
長崎に明楽が流入してからのこと。
日本は1639年鎖国となり、1641年にはオランダ領事館が
平戸から長崎に移され、オランダと中国だけが長崎での貿易を
許された。
中国はその頃、明の時代から清の時代に変わろうとしており、
明の貴族は清の圧政を恐れ、特に南部の漢民族で長崎へ
逃げてくる人が増えた。
1629年頃、魏之炎(王偏に炎)という豪商が福建省から
長崎に来て、崇福寺の壇越代表となり、唐人屋敷の建設に
最も貢献しました。
魏之炎は明より19種類の楽器を長崎に持ち込み、
明楽を広めた人。
隠元禅師を興福寺から崇福寺の住職に招き、宇治の万福寺住職として
送った人、崇福寺の「大雄宝殿」扁額にその名が刻まれている。
将軍家光からその出身地・矩鹿にちなみ、矩鹿名を許された。
その4代、矩鹿民部は安永の頃(1772)宮中に招聘され、
天皇の御前で明楽を奏し、一大旋風を起こしました。
当時は宗教はもちろん、絵画も、書も、音楽も全て
「黄檗文化」がもてはやされたのです。
清の時代(1644年~)になると、明楽は徐々に衰え、
江戸時代末期になると清楽が中心になりますが、
長崎でも「林 得建」という人によって1830年頃清楽が
伝えられ、後に小曽根乾堂によって小曽根流として継承され、
長崎の明清楽として今日まで大事に伝承されてきている。
幕末の頃は明清楽の「九連環」が長崎から京都、江戸へと伝わり、
「法界節」や「かんかんのう」「さのさ」などに変曲され、
日本国中で大流行した。
坂本竜馬の妻の「おりょう」が小曽根乾堂に学び、
月琴を弾いた話は有名。
近年も「長崎ぶらぶら節」で有名な丸山「花月」あたりで
この胡琴が盛んに弾かれていた。
当時弾かれた胡琴が「花月」に今も展示されている。