静風徒然ブログ

心の赴くままに、鳥のように、虚無の世界!

劉 福君コンサート

2009-07-02 21:04:19 | Weblog
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先日、久しぶりに劉 福君から電話があった。
近々長崎でコンサートをしたい、との内容だった。
是非協力をお願いしたい、と

劉福君といえば、我が長崎胡弓愛好会の最初の講師、
平成9年の10月、長崎胡弓愛好会を設立し講師として来ていただいた。
でも当時は二胡ブームもそれほどでなく、入会者も5~6名というところだった。
熊本から高速道路に乗って長崎まで来て、5~6名の生徒ではなかなか
プロとしての商売にはならない。
一方1人5000円というレッスン料は主婦にとっては大きい支出、
なかなかそれだけの贅沢を出来るメンバーが増えなかった。
2年ほど頑張ったが、「自分で教室を別に作りたい」と私の会の講師をやめた。

かれこれ10名ほど20万円程度の講師斡旋二胡を買わせた私にとっては厳しい試練だった。
困り果てて福岡の趙国良先生のお宅に相談に上がった、という次第、

趙先生は「長崎は大切な町だから自分が行ってあげるよ」と言ってくれた。
そのときの感激は生涯忘れない。ありがたい話だった。
そして5年間、熱心に私達門人を育ててくれた。

でもその趙先生も「私の会の講師ではなく自分の会を作りたい」という話になった。
劉福君と全く同じである。

結局2人の先生に指導をいただきながらも、最終的には離れ離れになってしまった。
考えてみれば仕方のないことだった。
向こうはプロ、レッスン料で生計を立てているわけだから、
私の「できるかぎり多くの人に」「安いお金で」「長崎らしい町造りに参加する」という
コンセプトに合うはずがなかった。

以降、長崎胡弓愛好会には専任のプロは置かず、
私や歌子ではこれ以上教えられなくなったメンバーにはプロを紹介し、
可能であればこれまで同様、我が会の活動にも参加してもらう、というやり方に変えた。

そんなわけで現在私が会の関係者から7名のメンバーが劉福君に指導を受けている。
過去にいろんな事はあったが、私達夫婦に最初に二胡を教えてくれた講師である。
心の中では感謝していた。
その相談の電話があったとき「ああ、精一杯協力します」と返答しておいた。

そのコンサートが9月7日(月)に「メルカつきまち」で開催されることに決まった。
会員は「チケットを1人10枚売らなければならない」らしい。1枚3000円
売れなければ30000円の自己負担ということなり、大変だ。
そこでメンバーごとに長崎胡弓愛好会会員の割り振りをし、
担当分が捌けるように私の方から声をかけることにした。
「歌子が初めて二胡を習った先生だから是非、と」

もちろん私達夫婦も当日はアリーナ本部レッスンを休講して会場に向かうつもり、
どうやら割り当て分は全数捌けるメドはついた。
9月7日が楽しみだ。




二胡弾き虚無僧

2009-07-02 08:46:43 | Weblog
初めての二胡デビュー・川辺のコンサート・夏の陣     
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平成17年の5月
在長崎中国総領事館の開設20周年記念コンサートを長崎ブリックホールで開催し
領事館やロータリークラブ、県、市の方々にも来て頂き、盛会のうちに終了できたのだが、

私が季さんの門下も一緒に舞台に出したことに、趙先生が立腹し、
コンサート直後、わが会の講師はもう辞めたい、との話になった。
そのグループは長崎市役所のチームで私としては領事館開設祝賀のイベントだから
地元で二胡を愛好する多くの同胞と一緒に祝いたかったのだが、
趙先生にしてみれば不愉快なことだったのだろう。

大きなイベントを個人で引き受け、1000人を越す観衆を会場に集めることの難しさは
当事者でなければわからない。領事館の名義後援をいただき、県、市、マスコミをはじめ、
多くの地元の関係者にすがるしか、あの頃の私にとっては策がなかった。

「俺のコンサートに他会の生徒をいれるなんて!」という先生の腹立ちは当たり前、
今振り返れば、趙先生には本当に申し訳ないことをした。

それでもせっかく先生が直門教室を別に作るのなら、と私なりに稽古場を友人に相談し、
ベテランメンバーには殆どを理由を告げずに、直門教室へ行くように指導した。
30名弱のメンバーが理由がわからないまま直門教室に移り、
長崎胡弓愛好会にはベテランは殆どいない状況になった。
実は歌子にも直門教室にいくように勧めたのだが、、

歌子は強い心のショックを受け、悲しみのあまり「もう二胡はしたくない」と
その後数年、人前では殆ど二胡を弾かなかった。
私達夫婦にとって、生涯で一番辛い、悲しい瞬間だった。

しかし今日まで長崎に二胡を懸命に普及させようと頑張ってきた私にとっては
二胡普及の活動をやめるわけにはいかない。
歯を食い縛って、長崎胡弓愛好会の存続と「長崎らしい町造り」への貢献を
続けたいと心に決め、他会のベテラン組の協力を得ながら地域の要請に応えつつ
未熟な二胡の演奏にも恥をこらえて、挑戦することにした。

平成17年8月30日、静風の二胡デビュー、
香港上海銀行での「川辺のコンサート・夏の陣」だった。
中西さん夫婦の献身的な努力に、毎回敬意を表しながら、
水辺の公園での打ち上げ懇親会まで、楽しい一日だった。

演奏曲は「長相思」と「さとうきび畑」「モーツアルトの子守唄」
まだ二胡独奏は10年早い。
あとでテープを聞いたが恥ずかしい限りだった。
しかしこの日が今の私を作ってくれた。本当にありがたいチャンスだった!!

現在では新規のメンバーが続々と増え、それぞれに懸命な練習の成果が現れ、
市内の他会ベテラン組にも引けをとらない演奏が出来るようになってきた。
一番嬉しいことは歌子と一緒にいろんなイベントに参加できるようになったことだ。

いろんなことがあったが趙先生あって、今の私の二胡人生がある。
夫婦ともども、心から感謝している。

 

歌子と二胡

2009-07-02 08:21:58 | Weblog
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親孝行をしよう、と一念発起して故郷に帰ることを決意し、
39才のとき、地元のR社にお世話になった私だったが、男の辛さ、
なかなか親孝行なんてさせて貰えるものではない。
病床に伏した両親のお尻を拭いてやることも、
風呂に入れてやることも、なかなか出来なかった。
馬鹿みたいに「どうね、具合は、どうね」と声をかける程度しか出来ない。
みんなしてくれるのは歌子だった。

その歌子が人生のうちで最も辛い時があった。
パーキンソン病で苦しむ母をいたわり、
そばで食事を手伝ったりして気を使っていた父が79才のとき、
富士山登山を達成し、昭和天皇の御廟の参拝を済ませたあと、
突然「死の宣告」をされたのだ。そして手術、

懸命に兄弟5人と共に快方を祈ったが、2年後の平成4年に他界した。
病弱な母が独り、我々夫婦と一緒に生活するようになった訳である。

みんな子供たちは親孝行がしたい。
姉、妹、弟、それぞれの思いで母をいたわりに東京方面から家を訪れてきた。

母はやさしくみんなに
「ありがとう、あんた達が来たときが一番嬉かとよ」と
いって訪れた子供達を喜ばせた。
「やっぱり自分が一番親孝行だ!」と、それぞれの子供達は確信した。

しかし、いつも苦労をして生活を共にしている女房にとっては、
それは辛い、悲しい言葉だった。
どんなに尽くしても結局、自分は母から心から感謝されることはない、
と思いこんだ。
女として最も辛い時だった。

そんなとき「あなた、胡弓が弾きたい」と言い出したのだ。
私は考えた。何もしてやれることがない。
せめて胡弓で心が癒されるのなら、と考えた。

すぐ当時中国から熊本大学に音楽留学中だった「劉福君」君に頼んで、
中国から胡弓を買って来てもらい、自宅で指導して貰った。

自宅で初めて胡弓を手にしたとき、女房は本当に嬉しそうだった。
毎日毎日、胡弓を弾いては悲しみを振り払い、
私が喜ぶようにと、母の面倒を見てくれた。

その母も平成7年に他界した。
おかげで私は私の人生の最大の目標であった「両親を美しく往生させる」ことができた。

胡弓が私の人生の危機を救ってくれた、と
今になって、私は考えずにはいられない。

歌子と二胡、それは私の人生そのものだ。
何よりも大事にしたい。