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日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

ソドンヨ 額田王 天皇家

2009-02-05 00:07:51 | Weblog
最近は韓国ドラマ「ソドンヨ(薯童謠)」にはまっている。毎週水曜午後7時半から2時間足らずサンテレビで放映されている。昨年の暮れ辺りから見始めたが筋の運びが分かってきだした。百済の王位継承にまつわる波瀾万丈の歴史活劇なのであるが、その主人公がやがて百済の30代国王となる武王で、ドラマではチャンという名前で登場している。今日はその従兄弟である29代法王(諱、ローマ法王ではない。注)により奴隷の身分に落とされて、地方での土木工事に追いやられたところで終わった。ところがふと気になってこの「ソドンヨ」の時代を年表で調べてみたら面白いことが分かった。

今日のドラマでは法王が即位したが歴史年表では599年のことで、翌年、600年には次の武王の治世が始まりこれが640年まで続く。そして31代目義慈王の治世20年目の660年に百済は唐・新羅連合軍に都を落とされ滅亡するのである。この時代が昨日のブログに書いた万葉集の、それも額田王、大海人皇子(後の天武天皇)、天智天皇の時代と重なることが私には面白かったのである。

昨日は額田王が次の歌を詠んだ時の三人の推定年齢を、《額田王が三十何歳で大海人皇子が四十何歳、天智天皇に至っては五十何歳なんだそうである》と記した。実はテレビのナレーションではその年齢を正確に言っていたと思うが、それを私が漫然と聞いていたので正確な年齢が頭の中に入っていなかったのである。そこで正確な年齢を(と言っても歴史家のあいだの通説)調べようと思っていた矢先でもあった。

  あかねさす 紫野行き 標野行き
    野守は見ずや 君が袖振る  (巻一・二十)
               額田王

まず額田王であるが「国史大事典」によると生没年不詳とある。しかし歴史家の考証では生年が635年もしくは631年となっている。天智天皇は626生まれで671年没、そして天武天皇は生年不明で没年が686年になっている。「日本史広辞典」では生年が631?年となっているので一応これを採用する。「日本書紀」によると天智天皇七(668)年《五月五日に、天皇、蒲生野に狩猟したまふ。時に、大皇弟・諸王・内臣及び群臣、皆悉に従なり。》(下記井上靖「天武天皇」より)」とあるので、この時に上の歌が詠まれたことになる。そうすると額田王が33歳もしくは37歳で、大海人皇子が37歳、天智天皇が42歳となり、テレビのナレーションから私が聞き取った(と思っている)年齢より男性はそれぞれ10歳前後若いことになる。それでも今に直すと熟年であることは間違いあるまい。この時はすでに百済は滅びていたが、この三人が生まれたのはまさに百済武王治世の間であった。だからこのドラマのおかげで大化の改新から壬申の乱に至る時代が身近に感じられるようになった。

井上靖に「額田女王」という歴史小説がある。出版されたのがかれこれ30年前になるので、その時に読んだ内容はほとんど記憶に残っていない。そこであらためてこの本を取り出してみると、その「あとがき」に著者が自作解題とする「天武天皇」と言うエッセーが収められている。ここには三人の三角関係への井上氏の言及があるが、そこでは《天智天皇は弟の大海人皇子からその愛人額田王を召し上げたとしか思われないし、またそのとおりであるにちがいない・・・》との姿勢をはっきりと示している。そしてさらに天智天皇の四人の娘が、大海人皇子の后に立っていることに触れて、《天智天皇の気持ちのなかには、額田王は譲ってもらったが、自分のほうは四人の娘を差し出しているのである》とその心理に立ち入っている。



天智天皇と大海人皇子は同母兄弟であるから大海人皇子は血の濃い姪を、それも四人まで后にしているのである。いやはや、としか私には言いようがないが、考えてみたらこのようにして血を引くものを残すことが古代からの天皇家のありようであったと言える。だからこそ天皇家のなかで骨肉相食む争いを繰り返してもこの平成の御代まで血筋をなんとか伝えることが出来たのであろう。そう言えば私は以前のブログ女帝か後宮制度かで《男子出生は一般家庭とはことなる格別の重みをもつ。子供を産まなければならない、それも男の子を産まなければならない。これは科学を超越した神懸かり的な願い事である。先人の知恵が生み出した後宮制度は皇統の維持に必要不可欠な制度であったのである。》と書いたことがある。誰が見ても今のままでは天皇家の先細りは必至であるが、歴史に学ぼうという賢者がどこかにいてもよさそうな気がする。

後記 書いている間に日が変わり、今日が昨日に、昨日が一昨日になった。

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