日々是好日

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脳死移植と学校教育

2011-07-25 13:54:50 | Weblog
ここ三日ほど私のサイト15歳未満の小児に脳死下臓器の提供の話をどのように理解させているのだろうにアクセスがかなり集中した。どうしたことなのか見当がつきかねるが、この中で私は「臓器移植についての理解を図るため、学校内外での教育を行い、ドナーカードへの署名の前の講習や当該小児の自由意志の確認が、現状でどのようになされているのか私には分からないだけに疑問を呈した。そこで改めて調べて見ようと思い、「脳死移植 学校教育」をGoogleで検索したところ、私のこの記事がトップに出てくる始末である。ひょっとして未だに組織的な学校教育がなされていないのかもしれない。

もし組織的な学校教育を行うとして、例えば文科省はどのような指導要項を作るのだろうか。私には想像し難い。もし当初の臓器移植法であれば個人の身体はその人のもので、本人が脳死下臓器提供の意思を明確にしている場合に限って臓器提供がなされていた。このような状況では学校教育も焦点が絞られてやりやすい。脳死下臓器移植の意義を説明して、ドナーカードへの提供意思の署名をうながせばよかったのである。しかし改正臓器移植法のもとではなにから教え始めることになるのだろう。自分が万が一脳死状態になった時に、拒否の意思をあらかじめ明確にしていない限り、お父さんお母さんがひょっとしたらあなたの臓器を必要としている患者に提供することもありますよ、と言わないわけにはいかないだろう。完全に親離れしていない、それどころか親との一体感がまだまだ強い小児にとって、極めて大きな衝撃となることが考えられ、親子関係に思わぬひびをも生じかねない。その原因が自分の体は自分のものという自然の理に反した身勝手な便宜主義的な生命観を改正臓器移植法が持ち込んだからに他ならない。

自分の体は自分のものとというのは自然の理と私は信じているが、この理がかって破られたことがある。戦時中のことである。少国民として私たちは体の錬成に励んだが、滅私奉公という言葉にも現れているように、この当時は自分の体は自分のものではなく大君(天皇陛下)に捧げたものであったのである。日本国民全体がそうであった。だからわが国では赤紙一枚で他に選択の余地なく戦場に赴き天皇陛下のために命を捧げたのである。考えてみれば毎日食事をとり武道に励み体を鍛えたのもいずれは天皇に差し出すためのものであって、表現が悪いがいずれは人の口に入れんがため農家で大切に飼われている牛のようなものであったとも言える。

改正臓器移植法はただ脳死下臓器提供数を増やさんがための便法の為にかっての天皇の権威にも匹敵する問答無用の 強圧で自分の体は自分のものとの自然の理を押しつぶしてしまった。この現行法と命の大切さをどのように折り合いをつけて子供に教えることが出来るのだろう。年齢を問わず本人の明確な意思表示がある場合のみ脳死下臓器提供が可能であるとの原点に今からでも遅くない、舞い戻るベキである。そして臓器提供のキャンペーンに集中すれば良いのである。それなら学校でも説明しやすかろう。















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