日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

紙の新聞で日常を取り戻す

2011-07-02 19:42:12 | Weblog
かねてからの計画だからと友達と黒部方面に出かけていた妻が、4日ぶりに新聞を病室にとどけてくれた。新聞に目を通すと、不思議なことに食事もなし新聞もなしの生活がなんだかピリッとしてきた。脳が刺激されてきたのである。ふだんは新聞を鵜呑みにしないのが私の流儀であるが、記事を読んでいて引っかかるところがあればあるほど脳が活発に働き始めるのである。これまで意識した事がなかったが、これは面白いと思った。

大学の教養で中村幸四郎先生という風貌も歌舞伎役者のような先生の数学の講義を聴講していた。説明がとても流暢でむつかしいはずである内容が抵抗もなく頭に入ってくるまさに名講義であった。ほとんど完全に理解できたつもりで、定期試験にも意気揚々と臨んだのであるが、結果は惨憺たるものだった。話を聞いて分かったような気になったから、それで理解できたつもりで、自分の頭で考え直す事をしなかった報いであった、

新聞記事には読んですぐわかるというような記事はほとんどない。これまでおりに触れて私もそのような記事に苦情を呈してきた。読んで素直に分からないものだから自分の頭であれこれ考えざるを得ない。実はそれが脳を刺激するのだと思う。私にとっては不完全な記事が刺激となって、これまでもブログに取り上げるきっかけになったのであろう。これからちょっとした事をあまりあげつらうのはよそうかという気になった。もちろん新聞は正確な事実を伝えるべきではあろう。「新聞はは事実を伝えるものではない」との言い回しを今読んでいるKen Follettの小説で見つけた。これでは新聞社に気の毒な気もするが私も少しは鷹揚になってみよう。

新聞紙で脳も刺激されたが日常性も取り戻す事ができた。考えて見たら国民学校の頃、植民地朝鮮の京城で発行されていた「京城日報」を読み始めて現在に至るまで、新聞紙を開くことで一日が始まったようなものである。習慣性とは大きなもので、朝食の代わりに新聞紙に目を通すだけで生活にメリハリができたのである。iPhoneで無料の産經新聞は毎朝見ているが、長年慣れ親しんだ紙の新聞とは比べるべきもない。習慣としてはまだまだ定着するには早いのである。それに記事全体を見渡せないのが思考の連続性を妨げているように思う。私は新聞にせよ本にせよ、紙の媒体から離れられそうにもない。