「まつり」という言葉はもともと神に捧げる祀りを意味していた。それがやがて転化して俗事の楽しみごとにも「祭り」が使われるようになったという。
どちらにしても、祭りであれば「厳粛さ」あるいは「楽しさ」を備えていてほしいものだが、残念なことに最近ネットで「祭り」と呼ばれる出来事には下品で不快なものばかり目立つ。
Apes! Not Monkeys!:リンチと化す“祭り”(追記あり)
good2ndの日記 - 警察に問題があるからといっても、リンチはダメだろ
記事内容に全く同意する。私はリンチが嫌いだ。
Apemanさんの文章は明快であり常識に沿ったものだから、ほとんどの読者にとって容易に理解できるはずだ… と期待したが違ったようで、コメント欄に大量の批判罵倒異論反論が集まった。
Apemanさんの主張に対する反論であれば同程度に明快な考え方を示してほしいものだが、残念ながらそうではなかった。
「私的制裁はよいことだ」とか「望ましくはないがこの場合は認められる」といった明快な意見はほとんどなく、「『祭り』対象者の非を鳴らす」見当違いなものか「リンチはいけないと主張する、その主張のしかたがおかしい」という揚げ足取りめいた批判ばかりだ。
どうやらApemanさんの記事を批判する人たちも「リンチは良くないことだ」という原則は認めているらしい。それは結構なことである。
だが残念ながらその原則を「自ら守るべきもの」「内的規範」としている人は少ないようだ。
白洲次郎の「プリンシプルのない日本」という言葉を思い出した。
原則(プリンシプル)のなさ、あるいはそれを軽々と無視してあっけらかんとしている様は、「代理出産」(私は寄生出産と呼びたい)を巡る世論にも通じるものがある。
柳沢大臣の実害のない「産む機械」失言には「辞任しろ!」と大騒ぎした世論・マスコミが、「代理出産」には過半数が肯定的であることの不思議。「代理出産」こそ現実の女性を「産む機械」として利用する方法だというのに!
いきなり話は大げさになるけれど、普通の人間は「原則を守る」ために生きているわけではない。
日々あくせくと働いて(あるいは働かずに)暮らしているのは幸福を獲得するためであり、獲得したささやかな幸せを守るためである。
それは実際のところその通りであり、私自身も人に語るような原理原則を持たず毎日適当に生きている。
だがそれにしても、というかそれだからこそ、「プリンシプルを持たない・ないがしろにして恥じない人間は格好悪い」と思う。
10年ほど前、公共広告機構のCMでサッカーの前園選手が「いじめ、カッコ悪い」と言っていた。
私は「付和雷同してリンチに参加するのは見っともない」と言おう。
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記事内容に全く同意する。私はリンチが嫌いだ。
Apemanさんの文章は明快であり常識に沿ったものだから、ほとんどの読者にとって容易に理解できるはずだ… と期待したが違ったようで、コメント欄に大量の批判罵倒異論反論が集まった。
Apemanさんの主張に対する反論であれば同程度に明快な考え方を示してほしいものだが、残念ながらそうではなかった。
「私的制裁はよいことだ」とか「望ましくはないがこの場合は認められる」といった明快な意見はほとんどなく、「『祭り』対象者の非を鳴らす」見当違いなものか「リンチはいけないと主張する、その主張のしかたがおかしい」という揚げ足取りめいた批判ばかりだ。
どうやらApemanさんの記事を批判する人たちも「リンチは良くないことだ」という原則は認めているらしい。それは結構なことである。
だが残念ながらその原則を「自ら守るべきもの」「内的規範」としている人は少ないようだ。
白洲次郎の「プリンシプルのない日本」という言葉を思い出した。
原則(プリンシプル)のなさ、あるいはそれを軽々と無視してあっけらかんとしている様は、「代理出産」(私は寄生出産と呼びたい)を巡る世論にも通じるものがある。
柳沢大臣の実害のない「産む機械」失言には「辞任しろ!」と大騒ぎした世論・マスコミが、「代理出産」には過半数が肯定的であることの不思議。「代理出産」こそ現実の女性を「産む機械」として利用する方法だというのに!
いきなり話は大げさになるけれど、普通の人間は「原則を守る」ために生きているわけではない。
日々あくせくと働いて(あるいは働かずに)暮らしているのは幸福を獲得するためであり、獲得したささやかな幸せを守るためである。
それは実際のところその通りであり、私自身も人に語るような原理原則を持たず毎日適当に生きている。
だがそれにしても、というかそれだからこそ、「プリンシプルを持たない・ないがしろにして恥じない人間は格好悪い」と思う。
10年ほど前、公共広告機構のCMでサッカーの前園選手が「いじめ、カッコ悪い」と言っていた。
私は「付和雷同してリンチに参加するのは見っともない」と言おう。
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「当て逃げ動画事件」雑感
ここで言う日本人の本質というやつは、原理原則よりも、コミュニティー内の同意に従う。分かりやすく言えば付和雷同。
よく言えば考え方がフレキシブルでケースバイケースで柔軟な対応が可能。個の力を集団の力として終結しやすく、日本の動力源になってきたというところでしょうか。
悪く言えば、自分の考えor原理原則がない。原理原則とは、死ぬようなことがあっても変えられないこと。分かりやすいところで宗教の戒律って感じでしょうか。基本的に日本人って原理原則を貫くという生き方を気持ち悪い(不気味)と感じていると思う。
この部分の悪い面はここ100年日本の歴史に刻まれ続けてきましたから書きますまい。
規模の大小はあれ、コミュニティーの和を乱す者を排除するという集団リンチというものは枚挙にいとまがないって事でしょうかね。というのが、祭りやネット蝗に対する自分の理解です。
インターネットによる村社会復活とでもいうような。
一言で云えば「天網恢恢疏にして漏らさず」
付和雷同?大衆心理?
まあ、世の中がなるようになっただけです。