玄倉川の岸辺

悪行に報いがあるとは限りませんが、愚行の報いから逃れるのは難しいようです

陰謀論と「回転寿司のイクラ」

2009年03月22日 | 日々思うことなど
「陰謀論」という言葉がある。基本的に批判・悪口として使われる。陰謀論で何が悪い、と開き直る人はあまりいない。

「それは陰謀論だ」「お前は陰謀論者だ」と呼ばれるとたいてい信用が下がる。
陰謀論(者)と呼ばれたほうは「レッテル貼りだ」と怒ったり「真実は我にあり」とますます自信(思い込み)を強めたりする。残念ながらというか当然というか、陰謀論批判が陰謀論者の考えを変えた例をほとんど見たことがない。ニセ科学批判にも通じる問題だ。

何をもって陰謀論(者)と呼ばれるかというと、陰謀について・あるいは陰謀を前提にして「論じる」ことが肝心だ。
逆に言うと、「陰謀じゃないか」と心の中で疑うだけで「論じ」なければ陰謀論(者)とは呼ばれない。仮に私が「世の中の災いのほとんどはゴルゴムの仕業だ」と信じていても、黙っていれば誰も気付ず陰謀論者とは呼ばれない。
「論じる」という言葉は明確な根拠と一貫した論理で何事かを語ることを意味する。根拠も論理もなく「~じゃないかという気がする」という情緒だけでは「論じている」とみなされない。「なんとなく」の意見を並べて本人は大いに論じているつもりでも、相手から「それは論理じゃないよ」「気分でものを言う人とは議論ができない」と言われたりする。
陰謀論の場合も同じで、根拠も論理もなく「あいつは怪しい」「~は信用できない」と主張するだけなら単に「疑り深い人」であり、陰謀論(者)未満である。陰謀論と呼ばれたくなければ、誰もが納得するような客観的な根拠を積み上げる(上に行く)か、直感として「なんとなく怪しい」と言うのに留める(下に行く)かのどちらかだ。中途半端がいちばんいけない。
たとえば遺伝子組み換え食品に反対するとしよう。
賛成派に「なるほど、一理ある」と言わせるような根拠を集めて公平に論じるのが「上に行く」やり方。立派だけれど簡単に真似できない。
「理屈はわからないけれど、なんとなく嫌だ」と言い続けるのが「下に行く」やり方。真似しやすいけれど尊敬してはもらえない。
その中間、つまり中途半端な根拠で理論もどきをでっち上げ、それを補強するために「闇の力」がどうしたこうしたと言いたがるのが陰謀論である。真似しやすいし、本人とお仲間は気持いいのだろうが、「本当にわかっている人」から見ると勘違いした半可通でしかない。


陰謀論に傾きがちな人は「論理的に考えるのが苦手だから万能の説明である陰謀論に飛びつく」という見方がある。一理はあるが、私はむしろ陰謀論者はそうじゃない人よりも論理的でありたい気持が強いのだろうと思っている。
なんとなく変だ、怪しい、納得できない。日常生活でそんなふうにモヤモヤすることがけっこうある。普通の人は突き詰めて考えず適当に違和感を流してしまうが、陰謀論好きな人は一貫した論理的説明を求めずにいられない。古典的なドラマのように、起承転結・首尾結構が整わないと気持が悪い。すべての出来事にはしかるべき理由があり、嫌な事件の裏には必ず誰かの悪意が隠れているのだ。「偶然」とか「なんとなく」で片付けるのは逃げでありごまかしに過ぎない。
昔の人は「すべての説明となる大きな力」のことを神とか悪魔とか運命と呼んだのだろうが、現代の日本人はそれほど素朴ではない。現実に存在する「力」、たとえば国家権力(日本政府・アメリカ政府・中国政府…)とか政治勢力(自民党・民主党・共産党…)とか企業や団体(大企業・宗教団体・民族団体…)について想像の翼をはばたかせる。お気に入りの対象に狙いを定め怪しい事件の黒幕として論理を組み立てれば、めでたく陰謀論デビューだ。自分で考えなくても、ネットを見て回れば(阿修羅とかきっことか新風とか)できあいの「論理的な説明」をすぐに見つけられる。まったく便利な世の中である。


このごろ世間で「それは陰謀論じゃないか」「いやそうじゃない」という議論が盛んなのは、いうまでもなく民主党代表・小沢一郎氏の第一秘書が逮捕された事件についてである。不確実な情報(検察のリーク?)とそれに対する反発が入り乱れてわけのわからないことになっている。
私は小沢氏の「疑惑」自体についてそれほど関心がなく、野次馬的に「検察も小沢氏もがんばれ、赤勝て白勝て」という程度なのだが、小沢氏を擁護し検察を批判する人たちに見られる陰謀論的傾向については気になる。はっきり言えば不気味でおっかない。検察の横暴よりも陰謀論のほうが怖い、と言えばバカにする人もいるだろうが、私の正直な実感である。久間知毅さんのブログで行われている検察陰謀論への批判に共感するところが多い。

自由帳で数学とか物理とか | 国策捜査だ、陰謀だっていう暇があったら本職に集中してくれ
自由帳で数学とか物理とか | 【西松献金問題】いい加減陰謀論に終始するのはやめないか?
自由帳で数学とか物理とか | 根拠なしに陰謀まくし立てておいて「陰謀論批判」批判なんてするもんじゃない
自由帳で数学とか物理とか | 根拠が無ければ「証拠」とやらがいくらあっても無駄
自由帳で数学とか物理とか | 自分が問題とされていることを認識できてないだけ(今度はDr-Seton氏に対して)
自由帳で数学とか物理とか | 冷静さを欠いていました。申し訳ありません

「小沢氏擁護の陰謀論」のなかで特に気になるのが、某政府高官こと漆間官房副長官の失言問題(問題というより空騒ぎと呼びたい)だ。このことについては以前にも書いた。
漆間失言を「陰謀が存在する有力な証拠」のように言う人が少なからずいて、お仲間の中から「それは違う」という批判が出ないことがたいへん気持悪い。
単なる失言(オッカムの剃刀的に)をやたらと重要視するのは確証バイアスの表れにすぎない。要するに思い込みの積み重ねである。漆間氏を怪しんでいる人にとっては「いよいよ狐が尻尾を出した」一大事なのだろうが、狐が化けると信じない者にとっては「あれくらいの予想は誰でも言う」「秘密の暴露がない、証拠価値がない」傍観者的なうっかり発言にすぎない。油揚げが好物だからといって正体が狐であるという証拠にはならない。

検察陰謀論(国策捜査論)のほかの根拠については、正直言ってよくわからない。事件そのもの(捜査状況の報道・小沢氏の弁明)と同じく「ふーん」と思うだけだ。だが、それらしい根拠の中に「漆間失言」のような価値のないものがまぎれこんでいると全体的な印象が悪くなる。永田メール騒動のとき河村たかしが唱えた「エルメス理論」(メール〔紙袋〕は偽物でも情報〔バッグ〕は本物なのだという香具師の口上めいた理論)に習って「回転寿司のイクラ理論」と呼ぼう。つまりこういうことだ。
「本物のネタをそろえている、代用魚なんて使わない」と宣伝する回転寿司があるとする。うまい魚が食べられると期待して店を訪れる。ところが、回ってきたイクラがどう見ても人工である。店員に「これおかしいんじゃないの?」と聞いてみても「いや、本物に間違いありません」「言いがかりつける気ですか」と逆切れされる。そんなときは「この店はネタを見る目がない、客に対する誠意もない」と怒るのが普通だ。「イクラを取り違えただけ、たいした問題じゃない」「他のネタは本物だろう」と善意に取るのはよほどのお人よしだけだ。
漆間失言を「本物のネタ」だと言い張る陰謀論者は私にとっていい加減な回転寿司と同じであり、信用に値しない。

人工イクラを強引に本物だと言い張るから「ダメな店だ、信用できない」と言われてしまう。客に指摘されたとき「失礼しました、手違いがあったようです」とすばやく引っ込めれば「たまには間違いもあるよね」と同情してもらえたのに。
同じように漆間失言のような証拠価値ゼロ(確証バイアス効果はあるけれど)の情報をガチだと主張すると、「思い込みにとらわれてる、判断能力が疑われる、信用できない」ということになる。永田メール事件のとき突っ張り続けた永田議員や前原代表は結局その地位を失なった。怪しげなネタに固執するのは危険なのである。
もちろん「回転寿司のイクラ理論」は検察にも適用できる。「おかしな捜査や情報リークをしているから事件全体がうさんくさい」と思うのも自由だ。私は小沢氏とゼネコンへの捜査はこれまでの検察の行動原理(独善的な正義感・マスコミ操作)と何も変わらないと思うけれど。


検察批判は説明責任を果たさない検察が悪い、陰謀論もどきの国策捜査説は権力批判なのだから何を言ってもいい、という意見もあるが同意できない。たしかに権力が暴走しないように監視し、行き過ぎがあれば批判するのは大事だが、だからといってトンデモな批判まで認められるわけじゃない。たとえば血液型性格診断に基づいた麻生総理批判は無意味で有害だ。まともな批判までとばっちりを食ってトンデモの同類に見られてしまう。
陰謀論風味の権力批判は食えたものじゃない。なぜか「居酒屋でから揚げに勝手にレモンをかける人」を連想してしまった。酸っぱい味が好きな人は「何が悪いの?」というが、レモンが苦手な人は激怒する。私自身はから揚げにはレモンをかけたいほうだけれど、「大皿のから揚げに勝手にレモンをかける」のはマナー違反だと断言する。


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2 コメント

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検察の「説明責任」 (やすゆき)
2009-03-23 01:05:45
検察の説明責任というものは、法廷で明らかになればそれで良いと思っております。と言うか、そのために法廷が存在するんじゃないかと。
嫌疑不十分で不起訴ならそれはそれで良しでしょう。

陰謀論に与した時点で負け組への道を歩んでるようなものだと思うんですけどねぇ。
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Unknown (ROCKY 江藤)
2009-03-23 01:54:40
>陰謀論に傾きがちな人は「論理的に考えるのが苦手だから万能の説明である陰謀論に飛びつく」という見方がある。一理はあるが、私はむしろ陰謀論者はそうじゃない人よりも論理的でありたい気持が強いのだろうと思っている。
 同じことを言っているように、私には聞こえるですが。

>自分で考えなくても、ネットを見て回れば(阿修羅とかきっことか新風とか)できあいの「論理的な説明」をすぐに見つけられる。まったく便利な世の中である。
 けっきょく自分では論理的に考えられないで、あり物の安直な説明を信用してしまうわけですから。
「論理的でありたい気持ちが強い」けども「論理的に考えるのが苦手」な人が陰謀論者になる?
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