幕末の歴史を読むと、外国船が日本人漂流者を送り届けに来て幕府に受け入れられたり追い払われた例をいくつも見ることができる。
鎖国の扉をこじ開ける鍵として漂流者が利用された面もあるだろうが、素直な人間性の発露として漂流者を救った人々の善意を疑うことはできない。
大黒屋光太夫はラックスマンとエカテリーナ女帝の、ジョン万次郎はホイットフィールド船長の好意によって救われ、歴史に名を残した。無名の漂流者も数多く外国船に助けられている(後註)。
もちろん外国船(外国人)が日本人漂流者を助けただけではない。日本人も外国人漂流者を助けている。中国地方の日本海側では多くの朝鮮人漁民が漂着し、日本の漁民に助けられた。ディアナ号の座礁・沈没と宮嶋村民による救助は有名だ。
溺れている人、死にそうな人を見つけたらとにかく助ける。それが海に生きる人々の掟であり、それ以前に自然な心情なのだろう。ひとたび海に出れば「板子一枚下は地獄」であり、哀れな漂流者の姿は「明日はわが身」なのだから。
そんなことを思い出したのは、「派遣村」のニュースに接したからだ。
いや正しくは、善良で豊かな日本国民が「派遣村」に向ける視線の冷たさを知ったからである。
5日以降の衣食住を 「年越し派遣村」が厚労省に要望 NIKKEI NET(日経ネット)
痛いニュース(ノ∀`):「厚労省は5日以降の衣食住も提供せよ」…『派遣村』から6項目の要望
はてなブックマーク - 痛いニュース(ノ∀`):「厚労省は5日以降の衣食住も提供せよ」…『派遣村』から6項目の要望
心が索漠とする。
世間の風の冷たさとはこういうことか。いや、それにしても冷酷すぎないか。
実をいえば私も、「派遣村」の主催者に諸手を上げて賛成しているわけではない。何か釈然としない、もっと違うやり方があるんじゃないのか、困っている人たちを自分たちの運動に利用しているんじゃないか、という疑問がぬぐえない。だが、主催者への疑問と「派遣村」に集まる人たちへの同情とは別の話である。
「派遣村」に集まっている人たちは世界的経済危機という嵐のために遭難し「鳥島」に打ち上げられたのだと思う。明日はわが身というより、自分があそこにいないのは単に運がよかっただけとしか思えない。「派遣村」に冷たい視線を向けている人たちはいわゆる自己責任論者なのだろうが、嵐に揉まれ経済的に難破して荒波の間を漂う人たちを嘲罵する姿はおぞましい。
大げさなことを言うが、人生とは一人乗りのボートで太平洋を横断するようなものである。波の穏やかな日ばかりではなく、雨や風、嵐にぶち当たってしまうこともある。努力を重ねて、あるいは運良く大型クルーザーに乗ることができた人は嵐をもろともせず突き抜けていけるだろうが、小型ヨットや手漕ぎボートではそうも行かない。私のようにイカダでバチャバチャやっている者は天候が穏やかであるよう神仏に祈るしかない。
かといって、クルーザーの人たちが手漕ぎボートの難破者を見捨てていいのか。それで良心が痛まないのか。海の男(女)として恥ずかしくないのか。かさにかかって道徳的に批判したくはないけれど、実に実にイヤな感じだ。
「クルーザー」が実は見かけほど上等なものではなく、水漏れだらけで必死に排水してようやく浮かんでいる状態だ、というのであれば「漂流者を乗せられません、船が沈んでしまいますから」というのもわかる。だが、「俺様のクルーザーは最高だぜ、絶対沈んだりするもんか」といきがる人たちが漂流者を指差して笑ったり「沈んでしまえ」と罵声を浴びせるのはどういうことか。
経済的弱者になった人たちは自己責任だ、だから救うことはない、ということなのだろうか。
そういう見方をする人は、世の中を運転免許試験のように見ているのだろう。運転免許試験とは、「普通の人が」「普通の努力をして」「決まった点数以上を取れば」「何人でも(全員が)合格できる」ものである。自信過剰で教習所に行かずに一発受験して落ちたり、あるいは学習能力・運転能力が絶望的に不足していて何度も落ち続けるような受験者がいたら、他の受験者・免許合格者から「考え違いしてる」「あなたのような人は免許を取る資格がない」「迷惑だからやめてくれ」と言われるのもわかる。
だが私は、世の中というのはむしろ「入学試験」に近いものだと思っている。どれほど努力しても、一定の点数以上を取っても、「定員」が満たされれば他の受験者は不合格になる。ここでは仮に定員ではなくて「偏差値50」を合格基準としよう。
「偏差値50以下はすべて自己責任」という批判に何か意味があるだろうか。「個人の成績が悪いのは自己責任」というのは、まあ正しいとしよう(生まれつきの能力・性格や環境の問題を本当は無視できないが)。だが集団として「偏差値50以下」を批判するのは無茶苦茶な話である。すべての人間が努力してベストを尽くしても、全員が偏差値50を上回ることはできない。平均以上が威張れるのは平均以下があってこそだ。偏差値50以下があるから偏差値50以上が存在できる。「偏差値50以下」を全否定するのは、頭が足の存在を否定するようなものだ。
経済格差、経済的弱者の存在というのも「偏差値50以下」と同じである。派遣村という「鳥島」に漂着した人たちはおしなべて経済的能力の偏差値が低いのかもしれないが(私はそうは思っていない)、だからといって「彼らの存在自体が間違っている」と考えるのはおかしい。「経済弱者はクズ」「弱者が落ちぶれて死ぬのは自己責任」というのは強者の奢り、夜郎自大の自己満足、愚かな錯覚でしかない。
話を江戸時代の漂流者救助に戻す。
江戸時代の日本の船、つまり和船はたいへん嵐に弱かった。甲板も竜骨もなく、波をかぶれば桶のように水がたまり、大波に揺さぶられれば砕けた。何よりも問題なのは、舵の取り付けが弱かったことだ。船体や帆柱は持ちこたえても舵を失って漂流した例は多い。
和船の構造的欠陥はそれこそ日本人の自己責任だ、という言い方もできる。アメリカの捕鯨船が日本人漂流者を見つけても「黙って死んどけ 」とか「こんなやつらを保護する必要なんかない」とかご立派なことを言って見捨てればいい。欠陥だらけのボロ船で大海に乗り出すバカが溺れ死ぬのは自己責任なのだから。指差して笑ってやれば気が晴れる。「板子一枚下は地獄」なんてことわざは忘れてしまえ。
…本当にそれでいいのだろうか?
註
鎖国の扉をこじ開ける鍵として漂流者が利用された面もあるだろうが、素直な人間性の発露として漂流者を救った人々の善意を疑うことはできない。
大黒屋光太夫はラックスマンとエカテリーナ女帝の、ジョン万次郎はホイットフィールド船長の好意によって救われ、歴史に名を残した。無名の漂流者も数多く外国船に助けられている(後註)。
もちろん外国船(外国人)が日本人漂流者を助けただけではない。日本人も外国人漂流者を助けている。中国地方の日本海側では多くの朝鮮人漁民が漂着し、日本の漁民に助けられた。ディアナ号の座礁・沈没と宮嶋村民による救助は有名だ。
溺れている人、死にそうな人を見つけたらとにかく助ける。それが海に生きる人々の掟であり、それ以前に自然な心情なのだろう。ひとたび海に出れば「板子一枚下は地獄」であり、哀れな漂流者の姿は「明日はわが身」なのだから。
そんなことを思い出したのは、「派遣村」のニュースに接したからだ。
いや正しくは、善良で豊かな日本国民が「派遣村」に向ける視線の冷たさを知ったからである。
5日以降の衣食住を 「年越し派遣村」が厚労省に要望 NIKKEI NET(日経ネット)
派遣契約打ち切りなどで仕事や住居を失った人たちに宿泊場所や食事を提供する“年越し派遣村”(東京・日比谷公園)は3日、開設から4日目を迎え、これまで約170人が千代田区に生活保護を申し込んだ。派遣村の実行委員会は、最終的に申請は200人を超えるとみている。
派遣村には同日午後も失業者らが次々と訪れ、この4日間で400人を突破。うち約250人が宿泊している東京・霞が関の厚生労働省の講堂は、仕事始めに当たる5日から使用できなくなるため、派遣村の実行委員会は厚労省に、5日以降の衣食住の確保など6項目にわたる要望書を提出した。
厚労省に対しては民主、共産、社民、国民新の野党4党も3日、「東京以外でも同様の状況が起きており、本格的な対応を求める」などと申し入れた。
実行委によると、要望書提出の際、厚労省社会・援護局の幹部は「雇用政策の結果による“災害”だという認識か」との問い掛けに「そういう気持ちです」と答えたという。
痛いニュース(ノ∀`):「厚労省は5日以降の衣食住も提供せよ」…『派遣村』から6項目の要望
3 : すずめちゃん(香川県):2009/01/04(日) 16:10:54.67 ID:ph8O1/Hi
黙って死んどけ
5 : すずめちゃん(千葉県):2009/01/04(日) 16:11:10.51 ID:m35I9iSS
実行委員会が最後まで責任を持つべき
7 : すずめちゃん(長屋):2009/01/04(日) 16:11:14.95 ID:otOkteIT
派遣おこがましすぎワロタ
若い頃何もしなかったことを棚に上げてよくやるわ
8 : すずめちゃん(東京都):2009/01/04(日) 16:11:19.68 ID:GEIj9qIi
こんな姿勢じゃ・・・
9 : すずめちゃん(三重県):2009/01/04(日) 16:11:32.87 ID:20UAvpbl
どこまで堕ちれば気が済むんですかぁ
10 : すずめちゃん(アラバマ州):2009/01/04(日) 16:11:42.33 ID:FN7aNth3
うぜーコジキだな
結局はお上頼みかよ
13 : すずめちゃん(千葉県):2009/01/04(日) 16:12:41.62 ID:FJW8G1Kj
これはさすがに駄目だろ
22 : すずめちゃん(新潟・東北):2009/01/04(日) 16:16:04.47 ID:KgFy52nU
他力本願すぎだろ…
24 : すずめちゃん(神奈川県):2009/01/04(日) 16:16:09.17 ID:uzjFS9Ys
どんだけクズなんだよ
派遣は
他の派遣に迷惑かけるだろ
33 : すずめちゃん(福島県):2009/01/04(日) 16:20:55.67 ID:xgcbUp3D
「こんなやつらを保護する必要なんかない!」と声高に訴える人はいないわけ?
もしかしてこう思ってるのって俺たちだけだったりして。
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「こんなやつらを保護する必要なんかない。自分で何かする必要がないだろ。」
「結局みんな受け身なんだよね。全部国のせい。国が援助すべき、と言う考え方じゃ前へ進めないよ。自分から行動しないと。でも派遣って受け身の仕事だから、それに慣れちゃっているところもあるんだろうな。」
「居座り強盗との違いがわからん。」
「この件については黙ってるつもりだったが、あえて言うわ。「死ね」/他者からモノを恵んでもらう立場である自覚がない。努力する人は助けたいが、恥の欠片もない猿に恵んでやるものは持ち合わせていない。」
「プロ臭がするのと、本当に困ってる人がここにいる気配が感じられない。 」
「権利を主張する前にまず義務を果たせ」
心が索漠とする。
世間の風の冷たさとはこういうことか。いや、それにしても冷酷すぎないか。
実をいえば私も、「派遣村」の主催者に諸手を上げて賛成しているわけではない。何か釈然としない、もっと違うやり方があるんじゃないのか、困っている人たちを自分たちの運動に利用しているんじゃないか、という疑問がぬぐえない。だが、主催者への疑問と「派遣村」に集まる人たちへの同情とは別の話である。
「派遣村」に集まっている人たちは世界的経済危機という嵐のために遭難し「鳥島」に打ち上げられたのだと思う。明日はわが身というより、自分があそこにいないのは単に運がよかっただけとしか思えない。「派遣村」に冷たい視線を向けている人たちはいわゆる自己責任論者なのだろうが、嵐に揉まれ経済的に難破して荒波の間を漂う人たちを嘲罵する姿はおぞましい。
大げさなことを言うが、人生とは一人乗りのボートで太平洋を横断するようなものである。波の穏やかな日ばかりではなく、雨や風、嵐にぶち当たってしまうこともある。努力を重ねて、あるいは運良く大型クルーザーに乗ることができた人は嵐をもろともせず突き抜けていけるだろうが、小型ヨットや手漕ぎボートではそうも行かない。私のようにイカダでバチャバチャやっている者は天候が穏やかであるよう神仏に祈るしかない。
かといって、クルーザーの人たちが手漕ぎボートの難破者を見捨てていいのか。それで良心が痛まないのか。海の男(女)として恥ずかしくないのか。かさにかかって道徳的に批判したくはないけれど、実に実にイヤな感じだ。
「クルーザー」が実は見かけほど上等なものではなく、水漏れだらけで必死に排水してようやく浮かんでいる状態だ、というのであれば「漂流者を乗せられません、船が沈んでしまいますから」というのもわかる。だが、「俺様のクルーザーは最高だぜ、絶対沈んだりするもんか」といきがる人たちが漂流者を指差して笑ったり「沈んでしまえ」と罵声を浴びせるのはどういうことか。
経済的弱者になった人たちは自己責任だ、だから救うことはない、ということなのだろうか。
そういう見方をする人は、世の中を運転免許試験のように見ているのだろう。運転免許試験とは、「普通の人が」「普通の努力をして」「決まった点数以上を取れば」「何人でも(全員が)合格できる」ものである。自信過剰で教習所に行かずに一発受験して落ちたり、あるいは学習能力・運転能力が絶望的に不足していて何度も落ち続けるような受験者がいたら、他の受験者・免許合格者から「考え違いしてる」「あなたのような人は免許を取る資格がない」「迷惑だからやめてくれ」と言われるのもわかる。
だが私は、世の中というのはむしろ「入学試験」に近いものだと思っている。どれほど努力しても、一定の点数以上を取っても、「定員」が満たされれば他の受験者は不合格になる。ここでは仮に定員ではなくて「偏差値50」を合格基準としよう。
「偏差値50以下はすべて自己責任」という批判に何か意味があるだろうか。「個人の成績が悪いのは自己責任」というのは、まあ正しいとしよう(生まれつきの能力・性格や環境の問題を本当は無視できないが)。だが集団として「偏差値50以下」を批判するのは無茶苦茶な話である。すべての人間が努力してベストを尽くしても、全員が偏差値50を上回ることはできない。平均以上が威張れるのは平均以下があってこそだ。偏差値50以下があるから偏差値50以上が存在できる。「偏差値50以下」を全否定するのは、頭が足の存在を否定するようなものだ。
経済格差、経済的弱者の存在というのも「偏差値50以下」と同じである。派遣村という「鳥島」に漂着した人たちはおしなべて経済的能力の偏差値が低いのかもしれないが(私はそうは思っていない)、だからといって「彼らの存在自体が間違っている」と考えるのはおかしい。「経済弱者はクズ」「弱者が落ちぶれて死ぬのは自己責任」というのは強者の奢り、夜郎自大の自己満足、愚かな錯覚でしかない。
話を江戸時代の漂流者救助に戻す。
江戸時代の日本の船、つまり和船はたいへん嵐に弱かった。甲板も竜骨もなく、波をかぶれば桶のように水がたまり、大波に揺さぶられれば砕けた。何よりも問題なのは、舵の取り付けが弱かったことだ。船体や帆柱は持ちこたえても舵を失って漂流した例は多い。
和船の構造的欠陥はそれこそ日本人の自己責任だ、という言い方もできる。アメリカの捕鯨船が日本人漂流者を見つけても「黙って死んどけ 」とか「こんなやつらを保護する必要なんかない」とかご立派なことを言って見捨てればいい。欠陥だらけのボロ船で大海に乗り出すバカが溺れ死ぬのは自己責任なのだから。指差して笑ってやれば気が晴れる。「板子一枚下は地獄」なんてことわざは忘れてしまえ。
…本当にそれでいいのだろうか?
註
欧米では、漂流船員の人道的な救助と保護も、国際法の規定する事柄であり明文化されていた。了解の船舶無害航行権も確定していた。事実、アメリカの捕鯨船は、多くの日本人漂流民を救助している。日本は当時、水運国であったが、和船の構造が脆弱で機密性も低く、漂流船が信じられないほど発生していた。
1841年(天保12)、鳥島で土佐国中ノ浜の万次郎ら5人は、アメリカ捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助された。孤島で飢えておびえていた万次郎らは黒人水夫によって勇敢に救助され、乗組員全員で丁重に保護されたことが、万次郎によって証言されている。快活で利発な万次郎は、アメリカで船長に養育され、学校にはいる。
1845年(弘化2)には、同じ鳥島で11人の阿波の水夫がアメリカ捕鯨船マンハッタン号によって救助され、江戸へ送還の途中、沈没寸前の南部藩の11人も救助された。(略)マンハッタン号は、28人乗りの帆船に、救助した22人もの漂流民を乗せて江戸へ向かった。薪水給与令を出していた幕府は、事情を察知してこれを特例としつつも、浦賀で丁重に漂流民を受領した。
平尾信子氏は、困難な航海のもと、厳しい歩合制が課せられている捕鯨船が、躊躇なく捕鯨を中断し、送還成功の保証のない江戸へ向かったことを、捕鯨船船長クーパーのサウスハンプトンでの温和な人間像までふくめて検証している。
日本の歴史(講談社) 第18巻「開国と幕末変革」 p188
頑張っているのにリストラ食って、家族を食わせるために必死にまじめに派遣で働いて首になった人もいるでしょう。そういう人、真の「経済弱者」を助けるのは当然至極です。
でも、ちょっとつまみ食い方式で派遣に行っては、他人の都合も考えずぱっとやめてカネの続く限り遊び回り…の繰り返しの人もいます。それで首になって食えなくなったら「経済弱者」ですか。一律なんでも助けさえすればいい、というのは日本文化でも世界のどんな文化でもないでしょう。
また、派遣の中にも、切り詰めて必死に貯金して、首になってもなんとか貯金で頑張って次の仕事を職安で探している人もいます。そういう人が、派遣村で衣食住を確保しながら職安にも行かずデモ行進をしている人を見たら、どう思いますか。
就職情報誌にも
ハロワにも
仕事は溢れています。
この場になっても仕事を選んでいる人たちは
いったい何なんでしょうか?
身体的にしんどいならしょうがないでしょう。
しかし20代・30代のいかにも健康優良児の様な人は
一体今まで何をしてきたのでしょう?
わたしは、それが知りたいですね
そういう人たちって「デモ行進なんかしやがって」と非難するけど同じようによくない待遇の人間の待遇改善に結果としてつながろうともかまわんと思ってやっていると思うんですよね。
いやあ、私にはできねえ。なにもしねえで文句まで言って、けどその成果にはあとからただ乗りしようという人間のために動こうなんてぜんぜん思えないですよ。
とりあえず一点だけ。
>また、派遣の中にも、切り詰めて必死に貯金して、首になってもなんとか貯金で頑張って次の仕事を職安で探している人もいます。そういう人が、派遣村で衣食住を確保しながら職安にも行かずデモ行進をしている人を見たら、どう思いますか。
デモも立派な「自助努力」ではないでしょうか。自分の境遇を自分の力を使ってどうにかしたいという意志の表れでしょう。
こう思えないのは、自分に関係のある社会制度を天から与えられた所与のものとみなしてしまいからでしょう。多くの制度は政治によって、強固な政治的意図(法律ができるのですから)によって構築されたものです。この制度について、自分の境遇に関係する制度についてデモをして何事かを主張するのは、民主主義社会におけるごく当たり前の「自助努力」です。
デモをすることによって自分たちの存在を可視化させ、世の中に、政治に対して訴えることは、正当かつ立派な「自助努力」です。
おまけに、社会制度に関してどうにかしようとデモをすることは、自分だけでなく他人のためになるのではないでしょうか。まさに利他的な行為でもあります。
というか、自分の中で「オレにとって理想的な弱者」を作り上げすぎです。なんというか、人間、どんな人でもケチつけようと思えばケチつけられます。「24時間不幸な生活して不幸な顔して誰にも絶対迷惑かけず誰にも不快な思いをさせない弱者」なんて存在しませんよ。
どうせ偏りつづけるんだろうけど。